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凄腕
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Side:士央
「10万。10万出すよ。どう?」
机に向かって問題集を解きながら、隣に座るメガネのニキビ面を見もしないで言った。
「じゅ、10万……」
「とにかく静かな人がいい。じっと黙って俺に口出ししない人、紹介して。学力はどうでもいいから」
「そ、それだけで10万?どうかしてるんじゃないか」
「いらないんならいいよ。あんたをクビにしてもらって、また次のやつに言うから」
慌てたように了承したメガネは口元をむずむずさせながら皮算用してんのが見え見えの顔で残りの時間を過ごした。
まぁコイツは絶対OKするって分かってたから持ちかけた話だけどね。実際のとこ親にわがまま言うのもめんどくさいんだ。自己都合でやめてくれんのが一番いい。
こうして、口が臭いのとなんとか授業をしようとするのがうっとうしかったそのメガネの家庭教師は、俺の希望通りその週の内にやめ、次の週には紹介の新しい先生がやって来た。約束の10万は相手を見てから払う、とメガネには伝えた。
「チワ。越智保っす」
ひょろっと背の高い、ちょっと猫背の眠そうな人、というのが第一印象。ヨレたロンTにしわしわのチノパン、後頭部から寝癖がちょっと覗いててリアルに寝起きかもしれないその姿は、家庭教師という言葉から連想される人物像とは程遠い。
「峰岸さんに教えるのがとても上手なプロの家庭教師ってお聞きしたので、厳格な感じの年配の方がいらっしゃると思っていましたが……お優しそうで安心しました。
息子の士央です。早稲田か慶応になんとか受かって欲しいんですけど、学校の成績も振るわなくって。どうぞよろしくお願いしますね」
大人ってのは大変だね。明らかにうさん臭いって思ってるくせに白々しいこと言っちゃってさ。
「ほら。あなたもご挨拶なさい」
「あ、ごめんなさい。先生、よろしくお願いします」
俺は素直で聞き分けのいい、成績に伸び悩む息子を演じてぺこりと頭を下げた。
この越智という人……確かにうるさくはなさそうだけど、眠そうな顔でふにゃふにゃ笑って「どーもぉ」なんて言ってる姿はどう見ても凄腕家庭教師には見えない。峰岸の奴……ウソのセンスってもんがかけらもねえな……
「じゃあ先生。早速よろしくお願いします。士央さん、お部屋に案内して差し上げて」
「はい。先生、こちらです」
越智先生を先導しながら、リビングを出た。階段を上りながらチラリと後ろを見ると、ズボンのポケットに両手を突っ込んで、でけぇウチ……とか呟いて天井の方をきょろきょろ見上げながら静かに後をついて来る。
先生はここへ初めて来たはずなのにウソみたいにリラックスしていて、不思議と家の空気に馴染んでた。
自室に入って電気をつけ、15畳ほどの洋間の窓際にある親の期待が詰まったピカピカのマホガニーの机にくるりと身を翻して尻を乗せた。
「先生の席はこちらです。一時間半経つと、母が紅茶とケーキを持ってきます」
俺が自分の椅子の隣にある黒いハイバックチェアを指して言うと、越智先生は「ああ、はいはい」と言ってそれにゆったり座って、そのまま目を閉じた。
一呼吸おいて何か言いだすかと思って、俺は越智先生の顔を見つめてしばらく待っていた。けどいつまで経っても喋り出す気配がなくて、よくよく見れば呼吸は深くゆっくりになっていて……
え、嘘だろ……寝てる……?
「先生……越智先生……」
先生を呼ぶと「んぁ……?」なんて、信じられないけど本気で寝ようとしてたみたいで。
「何……してるんですか」
「……こういう仕事って聞いてきたけど。違ったの?ミネギシクンとは直の友達じゃねえからなぁ」
先生が欠伸をかみ殺しながら言って、俺に微笑んだ。
「なんて聞いてたんですか?」
「静かに黙って隣に座っとくだけで金が貰える仕事」
にっと笑った先生は「なんか他にすることがあんの?」と邪気のない感じに俺を見上げた。確かに静かで俺に口出ししない人、って注文を付けた。注文通りだ。けど初日に、来て何も言わないまま本気で寝だす大人がいるなんて思いもしなかった。
「いえ……それでいいです……親が上がって来た時は俺が起こしますんで」
「りょーかい」
そのまま腕組みをしてまた寝始めた先生に、逆に俺の方が戸惑ってた。自分の望みどおりの人がきたっていうのに。
結局越智先生は本当にずっと寝ていた。階段を上ってくる足音に急いで先生を揺すぶり起こすと、ドアのノックに返事をしてから、いかにも今終わりました風を装って大きく伸びをした。
「先生、お疲れ様でした。あの……どうでしょうか。息子はなんとかなるでしょうか」
ウエイトレスよろしく紅茶とケーキを机の上に置きながら、母さんの目が探るように先生を見る。
「ええ、見込みはありますよ。真面目ですし熱心ですし。僕も教え甲斐があります」
ニッコリ笑って言う先生に、俺は絶句した。そんなしれっとよく言うな。つい1分前まで寝てたくせに。
峰岸から俺を辛口評価をされていた母さんは、まるごと信じちゃいないんだろうけどそれでも嬉しそうだ。
「どうかよろしくお願いします!ちょっと気弱ですけど真面目ないい子なんです」
俺はトレーを抱き締める様に頭を下げる母親に内心閉口しながら、ゆっくりお召し上がりくださいね、と出てくのを見送った。
先生は黙々と食べた。アンジュ・ド・ヴィオレのチーズケーキを無言で食えるなんて信じられない。
「旨く……なかったですか」
食い終わって紅茶をすする先生に訊いたら、「え、旨かったよ。すげぇ旨かった」と答えてふにゃっと笑った。
「アンジュ・ド・ヴィオレって店のチーズケーキなんです。すごい人気で、ショーケースに並んでもすぐ売り切れちゃうんですよ」
「へぇ……」
「うちから駅に向かう途中にあるマンションの1階にあります。もし買いたいならチーズケーキじゃなくてガトー・オ・フロマージュって書いてあるやつがそうですから。無いことの方が多いけど、運が良ければ買えます」
「ふぅん……」
なんでこんなに必死に話しかけてしまうのか自分でもよく分からなかった。
もしかしたら、俺に気も使わなければ興味も示さない初めての大人だったからかもしれないけど……先生が帰ってしまってからも、その椅子に纏いつくような存在感がいつまでも気になった。
「先生の教え方、どう?分かりやすい?ちょっと頼りない方かなってお母さん思ったんだけど……でも見込みあるっておっしゃってくださったし、要はあなたの成績が上がりさえすればどんな方でもいいわけだし」
ケーキ皿とカップをキッチンに運んできた俺に、母親が探るような目線を寄越す。
「うん。分かりやすい、かな。まだ初めてだからなんとも言えないけど」
「とにかく頑張ってちょうだい。あなたにはどうしてもお父さんの会社を継いでもらわないといけないんですからね」
「はい……」
広々としたダイニングキッチンやリビングは週に1度はハウスクリーニングが入っててチリひとつ落ちてない。まるでインテリア雑誌から抜け出たようなそこは温かみに欠けてて、俺はすぐに踵を返して自室に上がった。
俺の椅子の隣にある、高い背もたれのある黒い椅子。柔らかい座り心地のこれにもたれ掛って1時間半。
「寝れる……?普通……」
真似をして寄りかかって目を閉じてみると、脳裏にあの寝顔が甦る。
背もたれいっぱいの広い背中と、骨っぽい肩、組んだままの長い腕。優し気だけど茫洋としてつかみどころのない、何を考えてるのか全く分からない初めての大人。
本当に来週も寝る気だろうか。そう考えて、少し楽しみにしている自分は見えないように隅に押しやった。
「10万。10万出すよ。どう?」
机に向かって問題集を解きながら、隣に座るメガネのニキビ面を見もしないで言った。
「じゅ、10万……」
「とにかく静かな人がいい。じっと黙って俺に口出ししない人、紹介して。学力はどうでもいいから」
「そ、それだけで10万?どうかしてるんじゃないか」
「いらないんならいいよ。あんたをクビにしてもらって、また次のやつに言うから」
慌てたように了承したメガネは口元をむずむずさせながら皮算用してんのが見え見えの顔で残りの時間を過ごした。
まぁコイツは絶対OKするって分かってたから持ちかけた話だけどね。実際のとこ親にわがまま言うのもめんどくさいんだ。自己都合でやめてくれんのが一番いい。
こうして、口が臭いのとなんとか授業をしようとするのがうっとうしかったそのメガネの家庭教師は、俺の希望通りその週の内にやめ、次の週には紹介の新しい先生がやって来た。約束の10万は相手を見てから払う、とメガネには伝えた。
「チワ。越智保っす」
ひょろっと背の高い、ちょっと猫背の眠そうな人、というのが第一印象。ヨレたロンTにしわしわのチノパン、後頭部から寝癖がちょっと覗いててリアルに寝起きかもしれないその姿は、家庭教師という言葉から連想される人物像とは程遠い。
「峰岸さんに教えるのがとても上手なプロの家庭教師ってお聞きしたので、厳格な感じの年配の方がいらっしゃると思っていましたが……お優しそうで安心しました。
息子の士央です。早稲田か慶応になんとか受かって欲しいんですけど、学校の成績も振るわなくって。どうぞよろしくお願いしますね」
大人ってのは大変だね。明らかにうさん臭いって思ってるくせに白々しいこと言っちゃってさ。
「ほら。あなたもご挨拶なさい」
「あ、ごめんなさい。先生、よろしくお願いします」
俺は素直で聞き分けのいい、成績に伸び悩む息子を演じてぺこりと頭を下げた。
この越智という人……確かにうるさくはなさそうだけど、眠そうな顔でふにゃふにゃ笑って「どーもぉ」なんて言ってる姿はどう見ても凄腕家庭教師には見えない。峰岸の奴……ウソのセンスってもんがかけらもねえな……
「じゃあ先生。早速よろしくお願いします。士央さん、お部屋に案内して差し上げて」
「はい。先生、こちらです」
越智先生を先導しながら、リビングを出た。階段を上りながらチラリと後ろを見ると、ズボンのポケットに両手を突っ込んで、でけぇウチ……とか呟いて天井の方をきょろきょろ見上げながら静かに後をついて来る。
先生はここへ初めて来たはずなのにウソみたいにリラックスしていて、不思議と家の空気に馴染んでた。
自室に入って電気をつけ、15畳ほどの洋間の窓際にある親の期待が詰まったピカピカのマホガニーの机にくるりと身を翻して尻を乗せた。
「先生の席はこちらです。一時間半経つと、母が紅茶とケーキを持ってきます」
俺が自分の椅子の隣にある黒いハイバックチェアを指して言うと、越智先生は「ああ、はいはい」と言ってそれにゆったり座って、そのまま目を閉じた。
一呼吸おいて何か言いだすかと思って、俺は越智先生の顔を見つめてしばらく待っていた。けどいつまで経っても喋り出す気配がなくて、よくよく見れば呼吸は深くゆっくりになっていて……
え、嘘だろ……寝てる……?
「先生……越智先生……」
先生を呼ぶと「んぁ……?」なんて、信じられないけど本気で寝ようとしてたみたいで。
「何……してるんですか」
「……こういう仕事って聞いてきたけど。違ったの?ミネギシクンとは直の友達じゃねえからなぁ」
先生が欠伸をかみ殺しながら言って、俺に微笑んだ。
「なんて聞いてたんですか?」
「静かに黙って隣に座っとくだけで金が貰える仕事」
にっと笑った先生は「なんか他にすることがあんの?」と邪気のない感じに俺を見上げた。確かに静かで俺に口出ししない人、って注文を付けた。注文通りだ。けど初日に、来て何も言わないまま本気で寝だす大人がいるなんて思いもしなかった。
「いえ……それでいいです……親が上がって来た時は俺が起こしますんで」
「りょーかい」
そのまま腕組みをしてまた寝始めた先生に、逆に俺の方が戸惑ってた。自分の望みどおりの人がきたっていうのに。
結局越智先生は本当にずっと寝ていた。階段を上ってくる足音に急いで先生を揺すぶり起こすと、ドアのノックに返事をしてから、いかにも今終わりました風を装って大きく伸びをした。
「先生、お疲れ様でした。あの……どうでしょうか。息子はなんとかなるでしょうか」
ウエイトレスよろしく紅茶とケーキを机の上に置きながら、母さんの目が探るように先生を見る。
「ええ、見込みはありますよ。真面目ですし熱心ですし。僕も教え甲斐があります」
ニッコリ笑って言う先生に、俺は絶句した。そんなしれっとよく言うな。つい1分前まで寝てたくせに。
峰岸から俺を辛口評価をされていた母さんは、まるごと信じちゃいないんだろうけどそれでも嬉しそうだ。
「どうかよろしくお願いします!ちょっと気弱ですけど真面目ないい子なんです」
俺はトレーを抱き締める様に頭を下げる母親に内心閉口しながら、ゆっくりお召し上がりくださいね、と出てくのを見送った。
先生は黙々と食べた。アンジュ・ド・ヴィオレのチーズケーキを無言で食えるなんて信じられない。
「旨く……なかったですか」
食い終わって紅茶をすする先生に訊いたら、「え、旨かったよ。すげぇ旨かった」と答えてふにゃっと笑った。
「アンジュ・ド・ヴィオレって店のチーズケーキなんです。すごい人気で、ショーケースに並んでもすぐ売り切れちゃうんですよ」
「へぇ……」
「うちから駅に向かう途中にあるマンションの1階にあります。もし買いたいならチーズケーキじゃなくてガトー・オ・フロマージュって書いてあるやつがそうですから。無いことの方が多いけど、運が良ければ買えます」
「ふぅん……」
なんでこんなに必死に話しかけてしまうのか自分でもよく分からなかった。
もしかしたら、俺に気も使わなければ興味も示さない初めての大人だったからかもしれないけど……先生が帰ってしまってからも、その椅子に纏いつくような存在感がいつまでも気になった。
「先生の教え方、どう?分かりやすい?ちょっと頼りない方かなってお母さん思ったんだけど……でも見込みあるっておっしゃってくださったし、要はあなたの成績が上がりさえすればどんな方でもいいわけだし」
ケーキ皿とカップをキッチンに運んできた俺に、母親が探るような目線を寄越す。
「うん。分かりやすい、かな。まだ初めてだからなんとも言えないけど」
「とにかく頑張ってちょうだい。あなたにはどうしてもお父さんの会社を継いでもらわないといけないんですからね」
「はい……」
広々としたダイニングキッチンやリビングは週に1度はハウスクリーニングが入っててチリひとつ落ちてない。まるでインテリア雑誌から抜け出たようなそこは温かみに欠けてて、俺はすぐに踵を返して自室に上がった。
俺の椅子の隣にある、高い背もたれのある黒い椅子。柔らかい座り心地のこれにもたれ掛って1時間半。
「寝れる……?普通……」
真似をして寄りかかって目を閉じてみると、脳裏にあの寝顔が甦る。
背もたれいっぱいの広い背中と、骨っぽい肩、組んだままの長い腕。優し気だけど茫洋としてつかみどころのない、何を考えてるのか全く分からない初めての大人。
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