笑顔の向こう側

ゆん

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同棲編

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 お風呂から上がると、透くんはまだパソコンを叩いて仕事をしてた。けど僕が冷蔵庫のお水を飲み終わる頃にはパソコンを閉じて立ち上がった。

 お風呂であれだけ大丈夫、大丈夫、緊張して当然、とか思ってたのに実際に緊張してくるとその緊張に抵抗してどきどきしてくる。透くんに任せてればいい、普通にしてれば──

「留丸」

呼ばれて、空になったコップを両手で胸に引き寄せて、透くんを振り返った。

「俺、下に行くけど」

 それは、アトリエに絵を描きに行くってこと。あからさまにほっとする。「僕も行く」と答えて洗ったコップをかごに伏せて、玄関に向かった透くんの後を追った。

 つっかけを履いて外に出ると、むうっと暑い空気が僕を包む。鉄階段の手すりもなんだか生温い感じ。それでも2階よりは1階の方が少し涼しくて、階段を下りてくるとだんだんと気温が下がっていくのが分かった。

 透くんがリモコンでエアコンをつけて一番奥のワークデスクの前に立ってる後ろ姿を、僕は定位置である革張りのソファに座りながら見てた。座りたての革は冷たくて、火照った身体に気持ちが良かった。

 後ろ姿はいい。あの強い視線に晒されることなく、大好きな人を好きなだけ見ることが出来る。透くんが準備を終えてこっちに向くと、それだけで全身の細胞に緊張の電気が流れる。警戒してるわけじゃないと思う。ただ、視線にはそれだけのエネルギーがあるって、物の例えじゃなく体感として分かってるってこと。

 アトリエ内が、ワークデスクについてるスタンドの明かりだけでぼんやりと照らされてる。

 今透くんが取り組んでるのはめちゃくちゃおっきい絵。カンバスは透くんの身長よりも高く、木の丸椅子に腰かけて腕組みをしてそれを睨んでる透くんの後ろ姿は、でっかいモンスターと対決してる勇者みたいに見える。

 静かな背中がやがて動き、絵筆が自在に走り出す。時々手を止めて丸椅子に座り、それからまた描く。ただそれだけなのに、飽きずに延々見ていられる。

 透くんのすべてが素晴らしいバランスで僕を惹きつけるというのもある。肘先、膝下が長いちょっと西欧人っぽい体つきや、肩の骨や肩甲骨が服の上からでも見て取れるしっかりした骨格。ムキムキじゃないけどしっかり筋肉がついてて、絵を描くという一見静かな作業もダイナミックに見える。

 アルファには恵まれた体格を持つ人が多いけど透くんはそれプラスもともと持ってる不思議な綺麗さがあって、それは見た目というよりは少し潔癖気味の、生活習慣やこだわりから来てるんだろうなぁと思う。そんな彼が僕を好きだと思ってくれてるとは、未だ到底信じがたい。それは疑ってるという事じゃなく、それくらい夢みたいな話だった。


 そうして僕は、お約束のように眠ってしまってた。ここ最近ずっと9時には寝てたんだから仕方がないけど……留丸、留丸、と起こされた時の申し訳ないような気持ちったらない。だって絵を描くとこが見たいって言って来てるのに。

「もう上がる?」
「透くんは……?」
「なんか迷いがあるから今日はもういいかと思って」
「そっか……」

 半分寝た頭で手を引かれるまま足を下ろし立ち上がると、そのままほてほてとついて歩いて鉄階段をゆっくり上った。それはある意味、カウントダウンの緊張に気付かずにすんで良かったのかもしれない。けど透くんの部屋の前まで来てそのまま中に入ったら、流石に目が覚めた。

 僕がえ?と見上げると掬うように抱き締められて、電気をつけてない窓明かりの部屋の真ん中で口づけられた。ふわりと鼻に透くんの匂いが抜けてく。その中に、本能が嗅ぎ取るアルファの匂い。どくん、と全身が脈打つ感覚。呼び覚まされる、血の記憶。

 僕は自分が性的に興奮してるんだと思った。だって今の状況でそれしか、この足元から上がって来る強い感情に名前を付けられなかった。息が乱れてた。透くんが僕のシャツの中に手を入れて素肌の背中をまさぐるようにしたとき、まるで息が止まったようになって仰け反った。

 優しく服をはぎ取られ、ベッドに押し倒された。はぁ、はぁ、と肩で息をしてた。そして透くんが上に着てたTシャツを脱いで裸の上半身を晒した時──僕は、自分が悲鳴を上げるのを遠くに聞いていた。

 それは、今直面する恐怖だ。恐怖でしかない。恐怖が僕の体を抱き起こし、恐怖が何かを言っている。

 僕を侵略する匂いが鼻から入り込んで全身を犯し、僕の自由を奪う。頬に痛みを感じる。手首や、足首に縛り上げられたロープの硬く食い込む感触が甦る。関節がおかしくなりそうな格好を強いられた夜、一点に食い込む熱にバラバラにされた夜。

 僕は決して恐怖から逃れられない。必ず恐怖の手に捕まる。そして痛みと屈辱によってその場に縫い付けられ、さんざん弄ばれたあとにボロ布のように放置される。助け起こされ、手当てされて僕は息を吹き返す。

 それは労わりではあっても助けじゃない。僕を助けてくれるというなら、もう二度と起こさないで。もう二度と、誰も僕に触れないで。


 瞼に光を感じて眠っていたことに気付いた。恐ろしい夢を見たと思った。だって僕は自分のベッドにいて、いつものように目覚めたから。

 けど、記憶が繋がるにつれ、透くんの部屋での出来事を思い出した。強い恐怖を抱いて悲鳴を上げたところまでは覚えてる。でもその後は、恐ろしい余韻があるだけで思い出せない。

 ただはっきりしてることがある。それは、透くんを傷つけてしまったということ。僕は彼を拒絶した。こんなに好きなのに……受け入れられなかった。




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