笑顔の向こう側

ゆん

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シェアハウス編

シンポジウム

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翌朝、やっぱり少し腫れぼったくなった上まぶたに多少がっかりしながら歯を磨き、服を着替えた。
スーツはいつもの。ネクタイは透さんに借りっぱなしになってるしましまのを、教えられた通りダブルノットで締めた。人前に立っても恥ずかしくない服の組み合わせがこれしかなくて。

今日こそは絶対遅刻は許されないと思ったら家でゆっくりごはんを食べる気分じゃなくなって、とにかく早く現地へ行って朝ご飯には持参したおにぎりを食べようと、梅としゃけを一つずつ作って家を出た。

会場のイベントホールまでは電車を乗り継いで1時間。平日に比べるとまだすいてる朝の車内で、スピーチの原稿をひたすら目で追った。追ってるだけで内容を覚えられてる訳じゃ無いけど、そうしてないと落ち着かなかった。
降りる駅を口の中でぶつぶつ繰り返して寸前まで待ち構えていたのに、乗り込んできた人に押されて降り損ねそうになって慌てて飛び出した。
改札を出てからスマホに表示された地図をくるくる回しながら歩き、駅から徒歩15分って書いてあるのはお約束通り大幅に超えて無事到着。

実際の集合時間よりも1時間以上早く着いたけど、遅いよりずっといい。僕はまだ入り口の開いてないホールの前の植え込みの縁に腰を下ろして、持ってきたおにぎりを食べた。
けど、一個食べたらもう無理になった。やっぱり相当緊張してるっぽくて、しゃけは終わってから食べようと、アルミホイルに包まれたそれをカバンにしまった。

それから40分。ホールの入り口が開いて人がだんだん増えてくると、それに比例して緊張が増していく。150人って数字が全然現実感を伴ってなかったんだけど、想像よりずっと多いんだって肌感で分かってきて鼓動が早くなってくる。

「ちゃんと辿り着けたんだ。オメデトー」

聞き慣れた声に振り向けば、金塚さんが唇を尖らして、細い眉を山なりにして僕を見下ろしてた。なんかまつげもぴんぴんしてる。髪の毛もつやつやしてる。全体的に光ってる。
前に自分でも言ってたけど、全く緊張して無さそうで羨ましい。



金塚さんと一緒に用意された控え室に行くと、僕はパイプ椅子に座ってスピーチの紙をじろじろ睨んだ。全然読めてないけど、なんか甲塚さんみたいに缶コーヒーなんか飲める気分じゃない。

「ちょっと……緊張しすぎでしょ。うつるからやめてよ」
「ご、ごめんなさい。でも、そうは言ってもなかなかやめられなくてですね……」
「僕は頭の中に入ってるけど、松崎くんその紙読むだけでしょ?緊張のしようが──」

金塚さんの声を遮るようにノックの音がした。やがて開いたドアから、至さんと……その後ろに透さんが。僕はすぐに俯いた。彼の顔を確認する前に。

「おはよう。体調はどう?」
「ぼくは万全ですよ。松崎くんが緊張し過ぎで見てて疲れますけど」
「ははは 松崎くん、昨日はちゃんと眠れた?」

僕ははい、と答えていくつか会話をしたけど、心ここにあらずだった。透さんが傍にいると思うと気になって気になって、顔は見れないのにそっちを向きたくなってしまうから。

少しして携帯が鳴り、至さんが僕たちに目線で謝って外に出て行った。ひとり減ったぶん部屋の中の透さんの気配が濃くなって、やたらと彼の靴ばかりを横目に見てしまう。

綺麗に手入れされた茶色い革靴と薄いブルーのズボン。折り返しのある裾から覗く足首からくるぶしの形だけで、きっとたくさんの中に紛れても透さんだと分かる。

「透さん、今日もすごく素敵。パンツ、どこの?」
「ノーブランド。このくすんだ色合いが気に入って」
「すごく似合ってる。ピッティウォモに来てそう」

金塚さんと透さんが僕にはよく分からないファッショントークで盛り上がってる。いつの間にこんなに親し気に話すようになったんだろう。新しい事務所に移ってから、満さんの事務所の社食カフェへしょっちゅう行ってるって金塚さんが言ってたけど、それで?

じくじくする気持ちが嫉妬だと気付いてますます俯く。
周りが羨ましいことなんて多すぎて、そうそう嫉妬なんてしないのに。

やがて至さんが部屋へ戻ってきて、そろそろ会場の方へ移動するということになった。僕はやっと別の緊張から解放されると思って小さく息を吐いた。

そしたら透さんが──

「客席の方は見ずにその紙だけ見とけば大丈夫だ」

……優しい声で。顔を上げたくなったけどやっぱり無理で、僕は俯いたままうん、と頷いた。
あったかさが細かい雨のように降り注ぎ、染み込んでくる。
そのまま、溶けてしまいたかった。




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