笑顔の向こう側

ゆん

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出会い編

重症化の幸福

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雨が降り続いている。

折り畳み傘を忘れてびしょ濡れで家に帰ったあの日から毎朝傘を差しながらの通勤になっていて、梅雨入りが発表されてからしばらく晴れ間が続いてたけど、ようやくやってきたかという感じ。

駅に向かう途中でほんの少し足を止め、昨日完成した新事務所を見上げる。

降り続く雨がガラス張りの壁に幾筋も細い流れを作って、まるで滝の向こうに建物が透けて見えてるみたいだった。

角のへこんだ場所が入口で、そのガラス扉の横には『Wind & Wings』の真新しいステンレス製の看板がある。材質はステンレスだけど黒い文字のフォントが柔らかいから、結果印象はあったかい感じ。

あぁ、素敵だなぁ。ここで働けるなんて、なんだか誇らしい気分!

来週の頭、丸一日かけて引越しをする。つまりその次の日から寮が完成するまでの1か月ほどは僕の通勤、徒歩10分!

満さんの事務所までも近いし、お昼はあそこの1階のカフェに食べに行こうかなぁなんて考えてた。そしたら……もしかしたら透さんと逢えるかもしれないし。



もう恋はしたくない、なんて思った瞬間もあったのに、透さんに嫌われてないって分かった途端に現金な僕の恋心。

だって仕方ないよ……好きにならない方がおかしい……創業時に透さんと関わったオメガが軒並み惚れたって波野さんが言ってたのが、大袈裟な話じゃないって今は分かる。

透さんは僕にとって本当に特別になった。近くにいても震えない。声を聞いたらぼうっとしてしまう。抱きしめられた時の力強い腕の感触や触れた唇のことを思い出しては、体を熱くする。

逢えない時間の切ない幸福を知った僕は、ナオトに向けた気持ちは本当に恋だったのかと今更思う。

あの頃、僕には彼しかいなかった。

僕を見てくれる人が、彼だけだった。

だから執着してたんだ。忘れられることが恐ろしかった。

透さんが僕を見るとき、僕を呼ぶとき、確かにそこに僕がいると感じられる何かがある。

他の誰よりもまっすぐな視線を向けてくれているのが分かる。

それが彼の好意からくるなんておめでたいことを考えてるわけじゃない。あれは透さんの生きる姿勢みたいなもの。何ものからも目を逸らさない、すべてを明らかにしようとする視線が、闇の中にいる僕に光を当てる。

もっと逢いたい……話したい……

それは叶わないけど、あとひと月だけは夢を見られる。

透さんのアトリエのコンクリートの上で、彼の訪れを待っている。



四六時中透さんのことを考えてる僕の恋は、完全に重症化している。

今日も金塚さんとの打ち合わせで会社に来た透さんをついじっと見てしまって、目が合うとまるで「仕事しろ」とでも言ってるみたいに睨んで顎をしゃくってきたから慌ててパソコンに目を戻した。

金塚さんの恋も、多分重症化してる。幸いなことに僕のことはもう眼中にないみたいで、あれから特に何を言われることもなくてほっとしてる。

それはいいんだけど、いつにも増しておしゃれに気合いが入ってるし、香水もきつくなってきてて……それについては他の社員からの苦情が僕の耳に入った。ほら、ヒートが近くなると匂いにも敏感になるから。

課長の秋宮さんが1週間の長期出張中で席を空けている今、立場上は第二責任者の僕が言わないといけないんだけど、正直なところ気が重くて……でも今日はほんとに気分が悪くなった人がいたから、流石に言わなくちゃ!って覚悟を決めてた。

今は透さんと打ち合わせ中で閉じられたパソコンが置いてあるだけの甲塚さんの席。

元々黒いパソコンの表面にはラッピングするようにキラキラしたシートが貼られてて、すごく金塚さんっぽい。

睨まれるだろうなー……「香水、もうちょっと控えめにお願いします」「いい香りだけど、苦手な人がいるみたいで」「申し訳ないけど」……どんな風に言っても不愉快な顔をされそう。

でも基本的にはみんなと歩調を合わせてくれる人だから。僕に対してどんな態度を取ってても、仕事はちゃんとしてくれるし……きっと、大丈夫。

僕の覚悟とは無関係に、お腹がぐう、と鳴る。

壁掛け時計に目をやれば、あと5分でお昼休憩。僕の腹時計、なかなか正確。

パソコンのディスプレイに表示された問い合わせの処理を済ませてしまってから今日のお昼は何にしようと考えていると、会議室の方からこっちへ戻って来る人影が視野に入った。

もちろん、金塚さんで……金塚さんひとり?いつも透さんとふたりで出て来て玄関まで見送りに行くのに。

金塚さんはなんだか暗い表情をしてた。何かあったのかな……



間もなく、昼休憩に入って──金塚さんに声をかけようとしたら、例のお取り巻きがわらわら寄ってってなんか重い雰囲気。

漏れ聞こえてきたのは、臭いって言われた、怒られた、嫌われた、という単語で……どうやら透さんが金塚さんの香水のことを指摘したみたいだった。

これは助かった、というか……もしかしたらこれで香水の付け方を考えてくれるかもしれないし、今日僕から言うのはやめておこうと思って、くるりと背を向けた。

ところがよく見てなかったせいで思いっきりオフィスチェアの脚に足を引っかけて、すごい音をさせて椅子と一緒にリノリウムの床に倒れ込んだ。痛い……僕ってほんと、なんでこうなの……

後ろから「ダッサ」という金塚さんの声がしたと思ったら、それに覆いかぶさるように「松崎くん、大丈夫!?」というはっきりとした声が聞こえた。至さんだった。

すぐさま椅子を起こして立ち上がると、こっちを見てる至さんと、その後ろに透さんが──

「大丈夫です……はは、すみません、お騒がせしました」

ぶつけた所を擦りながら言ったら、「あんた、ほんとどんくさいな」って、透さんが呆れた顔をして……そんな表情も、声も、僕に向けられたそれが嬉しくて、笑いながら「ほんとに」と頭の後ろを掻いた。

「金塚さん。ちょっといいですか」

透さんの目が甲塚さんの方へ動いて、金塚さんがはい、と少し戸惑いを感じさせる声で返事をして急いで透さんの傍へ行った。

「今社長と話したところですが、先程の決定稿にちょっと変更があります」
「あ、はい」

僕には分からない話で、ふたりが目線を絡ませる。

絡ませるって……何言ってんの。普通に目を合わせて仕事の話をしてるだけなのに。

でも、そんなのでも羨ましいんだ。透さんと話が出来るなら。

「松崎くん、今夜の飲み会、もうひとり増えても構わないかな?」

至さんがこっちに近づいて来ながら言った。透さんと金塚さんをぼうっと見てた僕ははっとして、言われたことを数秒遅れて考えてから「大丈夫だと思います」と答えた。

週末の今日は終業後にみんなで新事務所に移動して、事務所内の設備の説明や引っ越しの段取りの話をした後に近くの居酒屋さんで飲み会が開かれる。わりと季節ごとにある感じなんだけど、今回は引っ越しの区切りでいつもより早め。

「叔父が参加できそうなんだよ。遅れて来るかもしれないけど」
「わ、そうなんですか!分かりました。お席、準備しておきます!」
「頼むね」

至さんと透さんの叔父さんの、満さん。会いたいと思ってた人。透さんが憧れてる彼がどんな人なのか、透さんを知れば知るほど余計に興味が湧いてた。

顔は似てるのかな、とか。何歳くらいなのかな、とか。僕は至さんと透さんから想像の枝を広げたダンディマンを思い浮かべながら、居酒屋さんに忘れず伝えるためにスマホに『一名追加』とメモした。



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