たとえ月しか見えなくても

ゆん

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第一部

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 その後、雛子ちゃんがお側付きの人に電話を掛けて、二人は帰って行った。
 帰り際、澄香さんは僕に「ごめんなさい」と言い、それから透を見上げて……瞬きもせず刻みつけるように透を見つめて……「バイバイ」と囁くような声で言って、潤んだ目から涙が零れ落ちる前にこちらに背を向け、マスクと帽子をつけて黒塗りの車の後部座席に乗り込んだ。雛子ちゃんは一度もこちらを見なかった。

  走り出した車が角を曲がって見えなくなると、ホッとしていいはずなのに胸がきゅうきゅう痛んで動けない。

  するといつまでも外を見てる僕の視界を遮るように透が入口のドアを閉めて、鉄階段を上って行った。僕も後に続くけど、一段飛ばしの透はあっという間に玄関のドアを入ってしまう。

  遅れて中に入ると、透はテーブルに残されていたカップをトレーにのせて淡々と片付けを始めてた。

「僕がやるよ。お仕事行かなきゃいけないんでしょ」
「いや。まだ少しあるから」

 透は僕にスポンジを渡さず、自分のマグから洗い始めた。手早く、丁寧に。次に取り上げたカップに、赤い口紅がうっすらついてる。澄香さんのそれを、透のスポンジを持った手がさっと泡で拭い取る。次にもうひとつのカップ、それから僕のマグ。

 普通に見える。普通に見えるけど……透が、彼女にかき乱された心の奥を整えようとしてるのが分かる。でもそれは、それだけ揺さぶられたっていうことの証明でもあった。

 かつて愛した人に涙ながらに迫られて、それでも僕を選んだ……それが事実なのに、喜ぶべきことなのに、それが僕への気持ちが勝ったからだと思えないのは、結局は自信のなさの問題なんだって自分でも分かっていた。

  透の周りにはなんとなく近づき難い空気があって、でも僕は離れられなくて、台拭きでテーブルを拭きながらチラチラと透を気にしてた。

「そういえば、雛子ちゃん、ドイツって言ってたけど、あれは?」

 平静を装って話しかける。訊いた後で雛子ちゃんの話題はやめておけば良かったと思ったけど、透は洗い終わったカップを拭いて棚に仕舞って、こっちにやって来ながら「ピアノでね」といつも通りの顔で答えてくれた。

「ピアノ……で、ドイツへ?」
「師事してる先生がドイツ人だからな。学校の長期休暇はいつも行ってる」
「わぁ……本格的なんだね」

 ふと、透が車で時々ピアノ曲を聴いてるのを思い出した。もしかしたら、山王寺家の人はみんなピアノが好きなのかも?お金持ちの家だから、大きな部屋にグランドピアノとかあったりするのかな。

「小さい頃はリビングの暖炉の傍でお母さんがピアノ弾いて、子供が歌って~とか、そんな感じ?」

 途端に透が吹き出して、「どういうイメージだよ」と突っ込んできた。

「いや、みんなピアノが好きなのかな~と思って。透も時々車で聴いてるでしょ」
「ああ……あれはあいつが作曲したやつ。聴いてくれって送りつけてくるんだよ。時々」
「えっあれ雛子ちゃん!?プロみたい!」
「まぁ、そこを目指してるからな」
「へえ~~~すごいなぁ~~~!」

 指の先でぱちぱち拍手してたら、透が近づいてきて片手で僕をぎゅう、と懐の中へ入れて頭に鼻先を入れてきた。僕はこうされるのが好き。ついさっきまでちょっと遠く感じてたから、胸がほわっとあったまって目を閉じた。

 透はいつもより長くそうしてた。まるでこれで良かったんだ、と自分に言い聞かせてるみたいに感じたのは、やっぱり僕の自信の無さのせい。それを透の体温がうやむやにしてくれるのにまかせ、乱された日常の余韻を残すリビングで、透に体を預けてた。

 透が仕事に出かけてしばらくしても、僕はなんだか放心したようになってソファに座ったままぼうっとテレビを見ていた。要領よく気持ちを切り替えられるタイプでもないから、浸食された巣が修復されていく速度もゆっくり、ゆっくりだ。

 澄香さんはこれで諦めてくれるだろうか。雛子ちゃんが僕に対して好意的になってくれることはないにしても、それは僕と透に直接的に関係してくることじゃないからまだよかった。あとは大波が崩してしまった僕のお城を元通りにしていくだけ。そう思おうとするけど、澄香さんの残した存在感はそう簡単には消えてくれなかった。



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