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10// 侯爵様に甘いマドレーヌを

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 あの夢のような、悪夢のようなお式から数日が過ぎ、ようやく喧噪から解き放たれていつも通りの日常が戻ってきていた。この一点を除いて。
「そろそろ『侯爵様』と呼ばなくてもいいんじゃないか」
「え、でも侯爵様のご身分が変わったわけではありませんし」
「君も『侯爵夫人』だろう」
 うわぁ、という表情をしてしまった。
「それ、私に似合わない形容詞ですね……」
「事実だろう」
 そうなんですけど。
 いつの間にか、というのが一番しっくりくる。あの日を境に、という訳でもない感じで、私は『侯爵夫人』になってしまったのだ。これからは社交なども多少はしなければならいのだろうな……と考えていたら、気持ちが沈んできてしまった。
「よし。お菓子を作ります!」
「菓子?」
 デスクに向かっていた侯爵様が顔をあげてこちらを見る。
「侯爵様のおやつになるようなもの、作って参りますね!」
「またその呼び方で」
 何か言っているのを途中まで聞いて、ささっと部屋を出る。
 最近、侯爵様は自分のことを『侯爵様』と呼ばれるのが気になっているらしい。でももう、定着しちゃったんですよねぇ……侯爵様呼び。
 何より契約結婚の身の上、あまり馴れ馴れしくしてもなぁと思ってしまうのですが、どうなんでしょうね。
 さて気分を切り替えて、今日作るのはマドレーヌ。卵と砂糖をすりまぜ、そこに細かく挽いたアーモンドパウダーをたっぷりと加える。隠し味に、ちょっとだけレモンを加えてさっくりと混ぜ合わせ、黄金色の溶かしバターを落とす。きれいに生地ができたら、少しだけ休ませてから生地を銀色の型に流し込み、オーブンへ入れた。すぐにぷぅんといい香りが漂ってくる。
「まぁ、なんていい香り」
「普通のマドレーヌですよ、アーモンドは少し多めかもしれないですが」
「ああ、そこから違うんですね」
 ここのところずっと、一人分の料理しか作っていなかったので、お菓子とはいえ大量に作るのは気持ちが良く、新鮮な気持ちになった。どうも大人数分を作る方が気楽にできる気がするのは、長年勤めた騎士団の厨房のせいだろうか。
「私も料理への魔力の注力を、もう少し調整できたらいいのだけれど」
 今まではとにかく自分の中の暴走しそうな魔力を追い出したくて、全力で料理に魔力を込めてきていた気がする。でも、これが調整できたら?と考え始めてみたら面白くなってきたのだ。
「それでも閣下は奥様には自分ひとりへ料理を作ってほしいと願われると思いますが……」
 問題はそこ、なのだけれど。そうしたくて結婚したわけですしね……。
「奥様がお見えになってから、侯爵様はとても顔色がよくおなりです」
「セドリックさんに言われるなら本当っぽいですね」
「ぽい、ではなく事実です。少しずつですが体調がよくなっているのは奥様もおわかりでしょう?」
 そうなのだ。本格的に朝も夜も、と侯爵様だけに食事を提供し始めたところ、魔力も体重もしっかりと増え始め、見違えるようにツヤツヤしてきた。この変化を見るのはとても面白く、また自分の料理がそうさせているとはっきりわかっているため、段々と面白くなってきたのも事実。
「食べられる量も増えましたよね」
「そうですね。以前はスープだけという有様でしたが、今は野菜も肉もしっかり召し上がられています」
「食わず嫌いだったんですかね」
「それもあったとは思いますが、どちらかというと幼少期に食事に毒をというようなこともありましたので、食事自体が嫌になってしまっていたのだと思われます」
 ……忘れていた!侯爵様は王弟殿下でした!
「そ……そういう過酷なことを経て今の侯爵様になられたのですね」
「はい。奥様の支えは主に力を与えてくれています。誠にありがとうございます。ただ……」
「はい?」
「やはり、そろそろお名前でお呼びになられてはいかがでしょうか」
 あああ焼き菓子を焼いても、その問題からは逃れられなかった!
「あの、……セドリックさん」
「はい、なんでしょう」
「なんとお呼びするのがいいのでしょうね……?」
 ぱ、っと顔色がよくなる。そんなに?
「お名前のどちらでも構わないと思います」
「えーと……ラウル・テオドール・アルドヌス様よね」
「はい」
 ミドルネームがあるのはこの国では王族だけ。ただ王家から離れたことでお名前の末が変わっているから、ファーストかミドルがいいかなとは思うのだけれど。
「呼びやすいのはテオ様かしら」
 そう言うと、厨房にいた全員がああ……という表情をした。
「……ラウル様、の方がいいのかしら」
「そうですね、そちらですと略さなくてもいいと思います」
「わかったわ」
 ふう、と一息ついて答えると、厨房の中の空気がほっとしたように感じた。
「そろそろマドレーヌも焼きあがるわね」
 オーブンをそっと覗くと、きれいな焼き色のついたマドレーヌが見える。それと同時に厨房にバターの薫りが広がって、みんながうっとりとため息をもらした。
「こちら半分は魔力が弱めになっていると思います。みなさんでどうぞ」
 侯爵……ラウル様にだけ料理を作るようになってから、時間もあるしと魔力制御を頑張っていた。今回はその成果が良く出たのではないかと思う。
「よろしいのですか?」
「ええ。ラウル様は魔力入りでないと、でしょうし」
 そう言った瞬間に、みんなの表情が固まる。どうしたのかしら、と手を伸ばしかけたのだが、その手はゆっくりと大きな掌にからめとられる。いつの間にか背後にラウル様が立っておられたのだ!
「君の手料理はすべて、私のモノのはずだが」
「こ……ラウル様!」
 名前を呼ぶと、ぱっと手を離された。
「……名前」
「ああ、そろそろどうかと皆様に諭されまして。まだ慣れないのですが……構いませんか?」
「……ああ」
 そう答えながらも、ラウル様は口元を大きな手で押さえているので、表情がわからない。
「それは良かったです。それからええと、こちらのマドレーヌには魔力がほとんど入っていませんよ?」
 みなさんへ振舞おうとしたマドレーヌの皿を指してそう聞いてみる。
「そうかもしれないが、最初に約束しただろう。うちに来たら、君が作るすべてのモノは私が食べると」
「こんなにたくさん?」
 テーブルの上には、とてもじゃないけれど一人では食べきれない量のマドレーヌが乗っている。
「……仕方ない。今日だけだぞ」
「はい!ありがとうございます」
 よかった、と安堵のため息をつく。ラウル様にエスコートの手を出されたので、そのままゆっくりとついていくことになってしまった。
「あの、お茶を……」
「うん。書斎に頼む」
 ラウル様が振り返ってそう言った時には、すでにワゴンにお茶とマドレーヌが乗っている。
 長い廊下を、ゆっくりと歩く。その後ろを、ワゴンを押したセドリックがついてくる。
 見上げるラウル様は、ずいぶんと精悍な顔立ちになられたなと思う。腕もこんなにしっかりして……ん?あれ?もしかして。
「ラウル様って、かっこいい……?」
 ぽそりとつぶやくと、腕が少し震えた気がした。

 [続く]
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