聖典の守護者

らむか

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五章 那伽羅闍の落胤

AUTOMATIC BEHAVIOR

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 規則正しい時計の音が静かに時を刻んでゆく。
 音はメトロノームのように正確に、思考はメトロノームのように揺れる。
 やがて振り子時計がボーンと鳴り、冷ややかな薄暗闇の静寂しじまに深夜を告げた。

 小茶彪こちゃとらは、薄暗い部屋の月灯りの入る窓敷居へ腰掛け、待つともなしに待っていた。
 婚約破棄を申し渡された小茶彪こちゃとらだったが、どういうわけか彼女は深夜になると彼の部屋を訪れる。
 鍵はいつも開いているから、彼女はなんの躊躇もなしに扉を開けるが、小茶彪こちゃとらの姿を見た途端にいつもハッとした表情になった。

 尒天彪ジーテンドラにもらった服は予想以上に身体に馴染み、今まで来ていた上等なダブレットは今や箪笥の肥やしになっている。
 自分が“変わってしまった”ことは、自覚しているが、彼女のハッとした表情を見るたびに居たたまれない気分になった。

 小茶彪こちゃとらは突然気が変わり、立ち上がった。
 いつも“待っている”ばかりでは、面白くない。
 今日は絶妙なタイミングでこちらから迎えに行こう。部屋を三歩で横切ると扉の取っ手に手を掛けた。
 微かに、衣擦れの音が扉越しに聞こえて来る。
 今、取っ手を介して、扉を挟んで向かい合う感触を確かに感じた。

 取っ手をつかむとふいに扉が開いたため、ルクレツィアは前につんのめり、たたらを踏んだ。
 小茶彪こちゃとらは倒れそうになるルクレツィアの身体を支え、腕を回して後ろから抱きしめた。
 うつむき、彼女の頸に顔を寄せると、絹糸のような長い髪が優しく頬を撫でた。
 柔らかなそうな耳に、白鷺のようにしなやかな首筋に、貪るようなキスを浴びせたくなる衝動を意志の力で抑え込む。
 小茶彪こちゃとらは大きく息を吸い、吐いた。

「びっくりしたわ」
 ルクレツィアは胸の上に回された小茶彪こちゃとらの腕を両手でつかんだ
「びっくりさせたかった」
 彼女の首筋へ顔を埋めた小茶彪こちゃとらは囁き声になった。
「以前の小茶彪こちゃとらはこんな大胆なこと、しなかった」
「君は口を開けばそればっかりだ」
「だって本当のことよ」
「確かに姿形は変わったかもしれない。だが、君への想いは変わらない」

 二人はしばし沈黙した。
 沈黙を破り、小茶彪こちゃとらが発した言葉は全く別のカテゴリーのものだった。
「いい香りだ。新しい香水だな。トップノートはシトラス、ミドルは白芍薬ホワイト・ピオニーかな、ラストは……白檀サンダルウッドだ」
「ほら、それも以前の小茶彪こちゃとらなら無理な芸当」
「特別に調香して貰ったのか? 秘術師ミスティックに?」
「そうよ。わたしにぴったりな香りだと推奨してくれたわ」
「それで君、この香水になんて名付けたの?」
誠実オネスティ
 小茶彪こちゃとらは堪らず吹き出した。
「シトラスは思慮分別、芍薬は慎ましさ、白檀サンダルウッドは平静沈着。どれも花言葉だ。どれも君に必要なものだ。優秀な秘術師ミスティックだな」
「馬鹿にしたわね」
「それは君の方だ。ドラゴンとお友達になりたいといっておれを馬鹿にした」
「どうして知ってるの!?」
「ルクレツィア、何年一緒に暮らしていると思うんだ? 君のことは何でもお見通しだ。あのドラゴンはまだ成獣じゃないが、相当な偏屈だ。お友達にはなれない」
「ただ、お友達申請しただけよ」
「許せないね」

 二人は空気も通さぬ緊密さで密着していた。
「なんだか不思議。知っているはずなのにいつも初めて会うみたいに思うの」
 ルクレツィアはわずかに首を反らせ、小茶彪こちゃとらの薄闇に輝く白金の髪を見た。
「一度で二度美味しい男ってとこだな」
「からかわないで」
「もう君はおれに惚れてるんだよ。でなきゃ毎日こんな深夜に男の部屋に来るか」
「深夜でないと、お父様に見つかってしまうから」
「将軍が君の行動を把握していないとでも?」
「知ったらきっと激怒するわ」
「もう知ってるさ! 将軍はもう許してるんだよ。あとはおれがどう行動するのか見てるだけ。わかったか? ルクレツィア。おれは君と家族を守る。尒天彪ジーテンドラが奪いに来ようと、何だろうと、命を懸けて守る。だから、受け入れてくれ」
「でも……まだ、あなたをよく知らない」

 小茶彪こちゃとらは抱き締める腕に力を込め、ルクレツィアの耳元で言った。
「これから知る。今夜、君を抱く」
 それは、ほとんどため息ほどの囁きだった。


 ††


 バルコニーから城の前庭を見下ろすと、ロイドがグラファイトの背に乗り飛び立つのが見えた。
 ドラゴンの背に乗る瞬間、バルコニーを見上げるロイドと目が合った。
 無言の交錯は瞬きの間に宙に消えたが、彼の漆黒の瞳は執拗に網膜に居残り続けた。
 ユノアは遠く朝陽を浴びて小さくなる四大精霊エレメンタルを体現する崇高な存在と、それを配下に従える真紅のローブコートをまとった竜章鳳姿な青年の背中を見送った。

 バルコニーから部屋に戻り、数分前に起こった出来事に思いを馳せる。
 ユノアは、ロイドとの一連のやり取りを思い返した。


 ††


 ロイドは登庁前の朝早い時間にユノアの部屋を訪れると開口一番にこう言った。
「晩餐は鹿肉エルクだ。おれが仕留める。南の草原地帯にいる希少な種だ」
 楽しみにしてろよ、と続きそうな意気揚々とした声音で。

 ユノアは肩に掛けたシルクシャンタンのショールを掛け直すと、ロイドの言葉を吟味し、明示されない内容も含めて推論し、そして、理解した。

 ――南の草原地帯へ赴く任務が与えられたついでに、希少種である鹿エルクを狩ってきてやる。
 これは彼らしい率直な謝意の表明なのだ。

 謹慎が解けた。そして、問題が解決したとともに、その結果に安堵している心情が読み取れた。

「良かったわ。わたしの助言が役に立って」
 すかさず言った。
 やっとイニシアチブをとるチャンスが巡ってきた。
 ロイドはユノアの言葉に無反応に、ただ自身の伝えたいことを伝えるとさっさと部屋を出て行こうとした。

「待って。あなたの沿ではなかったでしょ?」
 ユノアは真紅のローブコートの背中に向かって言葉を投げた。

 肩越しに振り向いたロイドの三白眼ぎみの冷めた瞳が、室内の様相からユノアの輪郭を切り取るように彼女の身体を一周した。

「あなたは、扉を開けて聖十字騎士クルセイダーを盗み見たわたしを詰った。そして“金輪際、おれの意に沿わぬ行動は許さない”と言った」

「ああ。言った。で?」
「あなたの髪を洗う申し出も、石化を解く成分を伝えたことも、あなたの意に沿わぬ行動ではなかった。そうでしょ? あなたにはわたしがいる。わたしにはあなたがいる。わたしにとっては、それ以外ほとんど何もないけど。これからは、わたしを所有物のように見るのはやめて欲しい。わたしはあなたと対等の立場で、同じ目線で、同じ世界を見ていきたい。あなたと一緒に」

 微かな神経質な不調和が二人の間に蔓延った。
 ロイドはユノアの白いシルクシャンタンのワンピースの輪郭を目でなぞり、胸元から透けて見える黄金の曼陀羅を通って、美しく輝くオッドアイをとらえた。

鹿肉エルクじゃダメなのか……」
 ロイドは片手で前髪をかき上げると、さも“うんざりだ”と言わんげに、手で髪を払った。

 ユノアは内心、胸を撫で下ろした。
 交渉の余地があることに、そして、自分の助言の効力が如何程であったかをロイドの態度から読み取ることができた。
「グレムリンの持ってきてくれる本は、とても……その……」

 突然自身の名を話題に出されたグレムリンはロイドの傍らでビクっと身体を強ばらせた。
 ユノアは慌てて言葉を続けた。
「違うの。非難してるわけじゃない。趣味が合わなくて。できれば、自分で選びたい。異次元秘密聖文書館で」
 グレムリンは主人とユノアを交互に見ながら、主人の意向に備えた。

 ロイドの心中に警報が鳴り響き、その振動は一瞬で全身を駆け巡った。
 “異次元秘密聖文書館”がユノアの口から出たのはこれで二度目だった。

「異次元秘密聖文書館に出入りする許可は与えられない」
 我知らず、問答を許さぬにべもない言い方になった。
「退屈なら、お友達のグレムリンに趣味の合う本の内容を具体的に伝えるんだな」
 グレムリンは主人にまで名前を出されて気が気でなく、そわそわと落ち着かない気分になった。

「だが、そうだな。バルコニーに出てもいい」
 ロイドはユノアの真横を通り壁一面に設られたテラス窓まで来ると、窓ガラスに片手をつけて「解錠アペリエンス」と呟いた。


 ††


 ユノアは部屋の中央に立ち、テラス窓の封印を解いたロイドが、“お開きだ”と言わんばかり足速に部屋を出て行く様子を思い出していた。
 扉から出て行く際に、彼はこうも言った。

「髪を洗うのはおまえがいい。おまえの手が気に入った。グレムリンより、ずっといい」

 異次元秘密聖文書館に行く計画はあっさりと潰えた。
 でもまだ時間はあるし、チャンスもある。
 そして何より、窓という境界線が解錠され隔離された空間と自由な外界が繋がったことは、ユノアの心境に楽観的な光を差し込んだ。

 ――赤毛の少年が操っていた不可視の糸……。
 ――あの糸を辿れば、彼は幽世かくりよから出られる。
 ――わたしが出られたのだから、彼が出られないわけがない。

 ユノアは再びバルコニーに出た。
 視界は、煌めく朝陽にフレアのように白く広がる外界の景色を眺めながら、心は幽世かくりよに閉じ込められたバルカのことを想いながら。

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五章「那伽羅闍の落胤」が終わりました。
六章「モノマニア・マイスター」が始まります。
初回から苛烈な暴力表現を含みます。
引き続き、宜しくお願い致します。
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