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第三話 代償
記憶
しおりを挟むその日の放課後、さっそく私は柚乃の元へ話しかけにいった。テスト期間のいま、バレー部も部活をやっていないみたいなので、彼女はカバンに荷物を詰め、今まさに帰ろうとしているところだった。
「遠藤さん」
制服がびしょ濡れになったためだろう、ジャージ姿の彼女が突然話しかけてきた私に「えっ」と顔を上げた。どうしよう、心臓がめちゃくちゃ鳴っている。まさか私が自分から宿敵の彼女に話しかけに行くことがあるなんて、アプリを使う前は考えられなかったので、この状況が自分でも信じられない。
でも、彼女の方は違った。私の顔を見て、「なんだ春山さんか。びっくりした」と眉を下げて笑った。どうやら私が話しかけてきたことに驚いたのではなく、突然声をかけられたことに反応してしまっただけらしい。
「急にごめん。ちょっと話したいことがあるんだけど、今から時間ある?」
話したいこと、だなんてもし彼女が男の子ならまるで告白でもするような前振りだなと心の中で苦笑した。
「え? いいけど」
もっと警戒されると思っていたのだが、柚乃は案外すんなりと私の提案を受け入れた。私たちはそのまま教室を出て、人気のない四階まで上がった。反射的に、この間神林と屋上に登ったことを思い出して胸が痛んだ。さすがに今日は屋上へは行けない。雨はまだ廊下の窓に張り付いている。
私たちは屋上へと続く階段に二人並んで腰掛る。こんなところまできて女の子と、しかももともと自分に嫌がらせをしていた人物と二人きりだなんて、神林と二人きりになった時とはまた別の緊張があった。
「ここまで来れば誰にも聞かれなそうだね。突然声かけたりしてごめん」
「いや、いいけど。ちょっとびっくりした」
初めてまともに言葉を交わす彼女は、思っていたよりも普通だった。確かに話しかけづらい高飛車なオーラがあるのは変わらないけれど、人を拒むほどの空気感は持ち合わせていない。
「あのね、今日の昼休みのことなんだけど……遠藤さんが運動場にいるのを見ちゃったんだ」
下手な前置きはせずに、私は単刀直入に本題に入る。彼女と雑談をできるほど会話にネタがなかったというのもある。
柚乃は一瞬ビクッと肩を震わせて私の方を見た。いたずらがバレてしまった小さな子供のように、次に何を言われるのか覚悟している様子が伝わってきた。
「雨の中、傘もささずに立ってたよね。しかも、上級生に囲まれて。あの人たちって、やっぱりバレー部の先輩?」
思ったよりもはっきりとこの目で見たことを口にできたことに、自分でも驚く。
「……見られちゃってたか」
両足を投げ出して座っていた柚乃が、右足の爪先で左足の爪先をちょんと触る。気がつかなかったが、上履きは泥だらけだ。さっき、上履きのまま運動場に出ていたんだろう。
「なーんかさ、標的にされちゃったみたいなんだよね。あの人たち、常に後輩をいじめていないと気が済まないらしいの」
あの人たち。同じ部活の先輩をそんなふうに呼ぶ彼女の心は、ぽっかりと穴が空いているように感じられた。
「それは最近のことなの? 遠藤さんが標的になる前は誰に……」
「うん、最近。というか今日いきなり? 昼休みに呼び出されたかと思ったらご存知の通りよ。先週までは一年生の女の子が標的だったな。さっき知ったんだけど、辞めちゃったんだって。そりゃそうだわ、毎日あんなのにいじめられてたら辞めたくもなるわ。周りで何もしなかった私たちのせいでもあるし」
柚乃といじめの話をするのはかなりおかしな状況だった。これまでは私があなたにいじめられていたんだよ。でもおそらく今の彼女には私をいじめていた時の記憶などない。私がアプリを使ったせいで、柚乃と私を取り巻く環境が変わってしまったと解釈できる。つまり、いま私がこうして柚乃と話している世界は異世界みたいなもんだ。
「こんなこと自分で言うのも変だけど、私を蔑む先輩たちを見て、既視感を覚えたんだよね。あれ、なんか知ってるって。この人たちの釣り上がった目と下品な口元。どこかで見たことがある。ううん、身に覚えがあるって」
「……それって、遠藤さんも誰かをいじめたことがあるってこと?」
「それが分かんないんだよね。そんなことした記憶はないのに、身体が覚えてるっていうか。だからたぶん、前世で他人のことをいじめてたんだと思う。馬鹿みたいだと思うけど、そうとしか考えられないわ」
はは、と力なく笑う彼女は私が知っている尊大な笑みを浮かべる彼女とは似ても似つかない。柚乃が自分で言った通り、ここはきっと並行世界なのだ。『SHOSHITSU』アプリが生み出した別世界。私が変えてしまった。私が柚乃をこんな目に遭わせてしまった。
だけど、じゃああのまま自分が彼女にいじめられ続けていたらどうなっていただろう。いつか耐えきれなくなって潰れてしまっていたかもしれない。アプリを使ったのが間違いだったというのは結果論であって、実際どっちが良かったかなんてたった一つの世界を生きる人間には分からないのだ。
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