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第二話 消失
初めての消失
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午後の授業を受けている間も、私の心はまったく授業に向いていなかった。
古文の先生が難しい単語を説明して、「これ次のテストに出るぞ」と教えてくれるのに、私はメモすらしなかった。
六時間目の授業まで受けたところで、ようやく意識が頭に戻ってきたという感じ。長かった一日が終わり、教室の中は部活へ行く者、そそくさと帰宅する者、残って友達と駄弁る者、と普段と変わらない風景が広がる。
私もいつもと同じように、荷物をまとめ、下駄箱で靴を履こうとした。
「春山さん、ちょっと待って」
誰かに呼びかけられて振り返る。振り返らなくても、声で誰かは分かっていたけれど、彼が肩で息をしながら手に持っているものを見て私は思わず彼を凝視していた。
「神林、それどうして」
「さっき、北館四階の男子トイレで見つけたんだ。あんな遠いトイレ、誰も使わないだろう? もしやと思って探しに行ってみたら見つかってよかったよ。それ、明日も使うだろうし」
はい、と神林は私に上履きを渡してくれた。少し汚れてはいるが、もともとそんなに綺麗じゃなかったから、特に危害を加えられている様子はなかった。
「……ありがとう」
感謝よりも先に驚きが表情に出てしまっていた。「ありがとう」がぎこちなかった。
彼は私が上履きをちゃんと受け取ったからか、安堵の表情を浮かべる。
「じゃあ俺、部活行くから。また明日」
「うん、またね」
エナメルのカバンをよいしょっと肩に掛け直し、彼は走って体育館へと駆けていった。早くしないと、遅刻してしまうのだろう。私に上履きを渡すためだけにここまで追いかけてきてくれた。学校の隅々まで、わざわざ探しに行ってくれた。これまでよく知らなかった彼の本性が、だんだんと輪郭を帯びてくる。
「ありがとう」
体育館の方を向き、誰もいない空間に向かってもう一度感謝する。明日またきちんとお礼を言おう。今日はまだ、彼のくれた親切を噛み締めておきたいから。
その日の夜、ベッドの中で目を閉じて眠ろうと試みるが、アプリのことが頭から離れない。
私は起き上がってカーテンをそっと開けた。カーテンの隙間から覗く月の光が気になるのだ。窓から夜の闇を見つめる。住宅街なので、外灯がなければほとんど真っ暗だ。それでも、月明かりのおかげで夜の闇に視界が埋もれそうなのをなんとか回避することができている。
今日、相談した穂花には悪いが、私には『SHOSHITSU』のアプリが夜の闇をほのかに照らす月明かりに見えた。
「ちょっとだけやってみようかな……」
私は枕元で充電していたスマホを手に取り、例のアプリを起動した。深夜二時三十二分。こんな時間に何をやっているのだろうとぼんやり考えもしたけれど、右手の指は止まらない。
もちろん、アプリの効果を信じたわけじゃない。
大体、効果が何かはっきりとは分かっていない。
だけど、消したいものが私にはある。
その人の名前を入力するだけで、心がほっとすればいい。それだけで、今日眠ることができるような気がした。
『あなたが消したいものを、入力してください』
真っ暗な画面に浮かび上がる一文が、目に飛び込んでくる。
私は、そっと親指で入力窓に彼女の名前を打つ。遠藤柚乃。私の高校生活をかき乱す張本人の名を。
遠藤柚乃。あなたがいなければ、平凡な毎日が戻ってくるでしょう。
だから私はあなたの名前を入力します。
名前を入れると、「決定」というボタンが現れ、私は軽い気持ちでボタンを押した。
『了承しました。では、明日から“遠藤柚乃”が消えた世界をお楽しみください——』
こんなことでしか、私は“平凡な人間”に戻れない。
古文の先生が難しい単語を説明して、「これ次のテストに出るぞ」と教えてくれるのに、私はメモすらしなかった。
六時間目の授業まで受けたところで、ようやく意識が頭に戻ってきたという感じ。長かった一日が終わり、教室の中は部活へ行く者、そそくさと帰宅する者、残って友達と駄弁る者、と普段と変わらない風景が広がる。
私もいつもと同じように、荷物をまとめ、下駄箱で靴を履こうとした。
「春山さん、ちょっと待って」
誰かに呼びかけられて振り返る。振り返らなくても、声で誰かは分かっていたけれど、彼が肩で息をしながら手に持っているものを見て私は思わず彼を凝視していた。
「神林、それどうして」
「さっき、北館四階の男子トイレで見つけたんだ。あんな遠いトイレ、誰も使わないだろう? もしやと思って探しに行ってみたら見つかってよかったよ。それ、明日も使うだろうし」
はい、と神林は私に上履きを渡してくれた。少し汚れてはいるが、もともとそんなに綺麗じゃなかったから、特に危害を加えられている様子はなかった。
「……ありがとう」
感謝よりも先に驚きが表情に出てしまっていた。「ありがとう」がぎこちなかった。
彼は私が上履きをちゃんと受け取ったからか、安堵の表情を浮かべる。
「じゃあ俺、部活行くから。また明日」
「うん、またね」
エナメルのカバンをよいしょっと肩に掛け直し、彼は走って体育館へと駆けていった。早くしないと、遅刻してしまうのだろう。私に上履きを渡すためだけにここまで追いかけてきてくれた。学校の隅々まで、わざわざ探しに行ってくれた。これまでよく知らなかった彼の本性が、だんだんと輪郭を帯びてくる。
「ありがとう」
体育館の方を向き、誰もいない空間に向かってもう一度感謝する。明日またきちんとお礼を言おう。今日はまだ、彼のくれた親切を噛み締めておきたいから。
その日の夜、ベッドの中で目を閉じて眠ろうと試みるが、アプリのことが頭から離れない。
私は起き上がってカーテンをそっと開けた。カーテンの隙間から覗く月の光が気になるのだ。窓から夜の闇を見つめる。住宅街なので、外灯がなければほとんど真っ暗だ。それでも、月明かりのおかげで夜の闇に視界が埋もれそうなのをなんとか回避することができている。
今日、相談した穂花には悪いが、私には『SHOSHITSU』のアプリが夜の闇をほのかに照らす月明かりに見えた。
「ちょっとだけやってみようかな……」
私は枕元で充電していたスマホを手に取り、例のアプリを起動した。深夜二時三十二分。こんな時間に何をやっているのだろうとぼんやり考えもしたけれど、右手の指は止まらない。
もちろん、アプリの効果を信じたわけじゃない。
大体、効果が何かはっきりとは分かっていない。
だけど、消したいものが私にはある。
その人の名前を入力するだけで、心がほっとすればいい。それだけで、今日眠ることができるような気がした。
『あなたが消したいものを、入力してください』
真っ暗な画面に浮かび上がる一文が、目に飛び込んでくる。
私は、そっと親指で入力窓に彼女の名前を打つ。遠藤柚乃。私の高校生活をかき乱す張本人の名を。
遠藤柚乃。あなたがいなければ、平凡な毎日が戻ってくるでしょう。
だから私はあなたの名前を入力します。
名前を入れると、「決定」というボタンが現れ、私は軽い気持ちでボタンを押した。
『了承しました。では、明日から“遠藤柚乃”が消えた世界をお楽しみください——』
こんなことでしか、私は“平凡な人間”に戻れない。
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