9 / 16
第九話 ほどけそうなこの想い
しおりを挟む
俊から電話がかかってきたのは、その日の夜のことだった。
お風呂上がりに温かいカフェオレを飲んで、身体を温めながら読書をしていた時だ。
スマホに表示された「天海俊」という名前に私は目を見開かずにはいられなかった。離れてから俊から電話が来たことは一度もない。すべてメッセージでのやりとりだった。どくん、どくん、と鳴る心臓を押さえながら、私はスマホの通話ボタンを押した。雨上がりの空に、部屋の窓から覗く月明かりが、夜の闇を幻想的にほの明るく照らしていた。
「……もしもし」
誰にも聞かれないほどの小さな声で出たのは、電話の向こうの俊の息遣いを聞こうと必死だったからだ。
『凛。凛か?』
懐かしい声が耳に飛び込んできて、私は全身が喜びで震えるのが分かった。俊の声を久しぶりに聞けて嬉しい、と全身が叫んでいるのを知って、また嬉しくなった。泣きそうだった。一言声を聞いただけなのに、少しだけたくましくなったけど、やっぱり十五年間私の隣にいてくれた男の子の声だと分かり、引っ越してから抱えてきた緊張感が一気に解れるのを感じた。
「うん。久しぶりだね、俊」
自分でも驚くくらい素直に俊に言葉をかけていた。電話越しに、私たちの間を流れる空気が一気に弛緩したのが分かった。
『良かった……出てくれて。俺、もう二度と凛の声を聞けないんじゃないかって思って、不安だったんだ』
電話の向こうから聞こえてきた安堵の声に、私はおかしくて笑ってしまう。
「もう二度となんて、大袈裟だよ。メールだっていつもしてるじゃん。たった八百キロメートル離れてるだけなのに」
『そうか、そうだな。八百キロメートル、それだけだ。たったそれだけなのに、こんなに遠く感じちまうなんてな
あ』
遠い。東京から高知まで、高校生の私たちにとっては海外と変わらないんじゃないかって思うくらい、遠くに感じる。でも、高知にも同じように高校生がいて、夏の大会があって、東京の高校生と何ら変わらない生活を送っている。とても不思議だけれど、一生懸命に撮影をして汗を流す蓮と、サッカーでゴールを決める俊の姿が想像の中で重なった。
「……俊はさ、私に好きって言ってくれたじゃん」
俊の吐息が、電話越しに聞こえるんじゃないかってぐらい、部屋の中は静まりかえっていた。自分しかいないから当然のことなのだが、それ以上に家の周囲に車や人がいないのが原因だろう。田舎の夜はとても静かだ。東京では周囲の雑音が家の中まで響いて、夜中でも耳障りな音が鳴っていることが多い。
『ああ、そんなこともあったな』
俊は「忘れてたよ」とでも言うぐらいの軽さで答えた。だけど、俊の中であの「好き」が、まだ記憶にこびりついていることは私が一番よく知っている。
「私、好きって、どういうのか、その時分からなくて……傷つけて、ごめん」
俊のことは昔から好きだった。でも、恋愛感情なのかと聞かれたら、その時の私は分からなかったのだ。
でも今は。今なら、私も分かるのかもしれない。
俊が息をのんだような間があって、私は心臓の音がばくばくと鳴っていることに気づいた。どうしてだろう。俊のことを想うと、私は自分じゃなくなったみたいになる。同時に蓮の顔が浮かぶ。俊と蓮は全然違うのに、私はどうして二人を比べるようなことをしてしまっているのだろう。
気持ちを落ち着けようとして、窓の外に視線を這わせた。何もない、田舎の夜の静寂が、景色からでも伝わってくる。そんなの不思議だった。東京にいる時、私はろくに景色を楽しもうとしていなかった。ただ目の前に迫ってくる友達や俊との毎日を、一心不乱に駆け抜けていただけ。日常生活にこんな素敵な余白があることを、私は引っ越してきて初めて知ったのだ。
「俊……私を好きでいなくていいよ。自由になっていいよ。私が俊を縛りつけてるなら、私はどっかに行くから……だから——」
『バカだなあ、凛は』
この場にそぐわない、クスクスという笑い声がして、私ははっと我に返る。俊の笑った顔が昔から好きだった。俊が笑うと、漫画みたいに目が一直線になって、その顔まで整っていてきれいで。私は俊の隣にいると、自分まできれいな人間の一部になれた気がして居心地が良かったのだ。
『ずっと気にしてたんだろ。バレバレなんだよ。俺は凛に謝って欲しいわけでもないし、傷ついてもいない。凛を好きでいるかどうかなんて、俺が勝手に決めることだ。凛にはただ、笑って欲しいんだ』
俊の言葉は、道に迷いそうになっていた私の心を、月明かりみたいにほの明るく照らしてくれる。変わらない温もりが、電話の向こうから伝わってくる。だから私は、ここまで自分の足で立って歩いてこられたんだ。
「……ありがとう。私ね、今大事な動画を撮ってるの。蓮って男の子と一緒に。蓮は映像を撮るのが大好きで、オタクみたいなんだよ。完成したら、俊にも見せるね。いや、見て欲しい」
俊と離れて、変わった私を見て欲しい。
変わった私と変わらない私を見て欲しい。
その上で、俊がまだ私を好きでいてくれるなら、私はこれほど嬉しいことはないと思う。
俊がずっと守ってきてくれた道を、私はまっすぐに歩いていけるかな——。
『おう、がんばれ。待ってるから凛、がんばれ』
俊、俊、俊。
小さい頃から呼んでいた愛しい人の名前を心の中で何度も呟く。がんばれと励ましてくれる彼の言葉を胸の中で噛み締める。俊と心で呼びかける度に、まるい宝石みたいなイメージになって、溶けていく。
ほどけそうなこの想いを、私はまだ守っている。
お風呂上がりに温かいカフェオレを飲んで、身体を温めながら読書をしていた時だ。
スマホに表示された「天海俊」という名前に私は目を見開かずにはいられなかった。離れてから俊から電話が来たことは一度もない。すべてメッセージでのやりとりだった。どくん、どくん、と鳴る心臓を押さえながら、私はスマホの通話ボタンを押した。雨上がりの空に、部屋の窓から覗く月明かりが、夜の闇を幻想的にほの明るく照らしていた。
「……もしもし」
誰にも聞かれないほどの小さな声で出たのは、電話の向こうの俊の息遣いを聞こうと必死だったからだ。
『凛。凛か?』
懐かしい声が耳に飛び込んできて、私は全身が喜びで震えるのが分かった。俊の声を久しぶりに聞けて嬉しい、と全身が叫んでいるのを知って、また嬉しくなった。泣きそうだった。一言声を聞いただけなのに、少しだけたくましくなったけど、やっぱり十五年間私の隣にいてくれた男の子の声だと分かり、引っ越してから抱えてきた緊張感が一気に解れるのを感じた。
「うん。久しぶりだね、俊」
自分でも驚くくらい素直に俊に言葉をかけていた。電話越しに、私たちの間を流れる空気が一気に弛緩したのが分かった。
『良かった……出てくれて。俺、もう二度と凛の声を聞けないんじゃないかって思って、不安だったんだ』
電話の向こうから聞こえてきた安堵の声に、私はおかしくて笑ってしまう。
「もう二度となんて、大袈裟だよ。メールだっていつもしてるじゃん。たった八百キロメートル離れてるだけなのに」
『そうか、そうだな。八百キロメートル、それだけだ。たったそれだけなのに、こんなに遠く感じちまうなんてな
あ』
遠い。東京から高知まで、高校生の私たちにとっては海外と変わらないんじゃないかって思うくらい、遠くに感じる。でも、高知にも同じように高校生がいて、夏の大会があって、東京の高校生と何ら変わらない生活を送っている。とても不思議だけれど、一生懸命に撮影をして汗を流す蓮と、サッカーでゴールを決める俊の姿が想像の中で重なった。
「……俊はさ、私に好きって言ってくれたじゃん」
俊の吐息が、電話越しに聞こえるんじゃないかってぐらい、部屋の中は静まりかえっていた。自分しかいないから当然のことなのだが、それ以上に家の周囲に車や人がいないのが原因だろう。田舎の夜はとても静かだ。東京では周囲の雑音が家の中まで響いて、夜中でも耳障りな音が鳴っていることが多い。
『ああ、そんなこともあったな』
俊は「忘れてたよ」とでも言うぐらいの軽さで答えた。だけど、俊の中であの「好き」が、まだ記憶にこびりついていることは私が一番よく知っている。
「私、好きって、どういうのか、その時分からなくて……傷つけて、ごめん」
俊のことは昔から好きだった。でも、恋愛感情なのかと聞かれたら、その時の私は分からなかったのだ。
でも今は。今なら、私も分かるのかもしれない。
俊が息をのんだような間があって、私は心臓の音がばくばくと鳴っていることに気づいた。どうしてだろう。俊のことを想うと、私は自分じゃなくなったみたいになる。同時に蓮の顔が浮かぶ。俊と蓮は全然違うのに、私はどうして二人を比べるようなことをしてしまっているのだろう。
気持ちを落ち着けようとして、窓の外に視線を這わせた。何もない、田舎の夜の静寂が、景色からでも伝わってくる。そんなの不思議だった。東京にいる時、私はろくに景色を楽しもうとしていなかった。ただ目の前に迫ってくる友達や俊との毎日を、一心不乱に駆け抜けていただけ。日常生活にこんな素敵な余白があることを、私は引っ越してきて初めて知ったのだ。
「俊……私を好きでいなくていいよ。自由になっていいよ。私が俊を縛りつけてるなら、私はどっかに行くから……だから——」
『バカだなあ、凛は』
この場にそぐわない、クスクスという笑い声がして、私ははっと我に返る。俊の笑った顔が昔から好きだった。俊が笑うと、漫画みたいに目が一直線になって、その顔まで整っていてきれいで。私は俊の隣にいると、自分まできれいな人間の一部になれた気がして居心地が良かったのだ。
『ずっと気にしてたんだろ。バレバレなんだよ。俺は凛に謝って欲しいわけでもないし、傷ついてもいない。凛を好きでいるかどうかなんて、俺が勝手に決めることだ。凛にはただ、笑って欲しいんだ』
俊の言葉は、道に迷いそうになっていた私の心を、月明かりみたいにほの明るく照らしてくれる。変わらない温もりが、電話の向こうから伝わってくる。だから私は、ここまで自分の足で立って歩いてこられたんだ。
「……ありがとう。私ね、今大事な動画を撮ってるの。蓮って男の子と一緒に。蓮は映像を撮るのが大好きで、オタクみたいなんだよ。完成したら、俊にも見せるね。いや、見て欲しい」
俊と離れて、変わった私を見て欲しい。
変わった私と変わらない私を見て欲しい。
その上で、俊がまだ私を好きでいてくれるなら、私はこれほど嬉しいことはないと思う。
俊がずっと守ってきてくれた道を、私はまっすぐに歩いていけるかな——。
『おう、がんばれ。待ってるから凛、がんばれ』
俊、俊、俊。
小さい頃から呼んでいた愛しい人の名前を心の中で何度も呟く。がんばれと励ましてくれる彼の言葉を胸の中で噛み締める。俊と心で呼びかける度に、まるい宝石みたいなイメージになって、溶けていく。
ほどけそうなこの想いを、私はまだ守っている。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説

如月さんは なびかない。~片想い中のクラスで一番の美少女から、急に何故か告白された件~
八木崎(やぎさき)
恋愛
「ねぇ……私と、付き合って」
ある日、クラスで一番可愛い女子生徒である如月心奏に唐突に告白をされ、彼女と付き合う事になった同じクラスの平凡な高校生男子、立花蓮。
蓮は初めて出来た彼女の存在に浮かれる―――なんて事は無く、心奏から思いも寄らない頼み事をされて、それを受ける事になるのであった。
これは不器用で未熟な2人が成長をしていく物語である。彼ら彼女らの歩む物語を是非ともご覧ください。
一緒にいたい、でも近づきたくない―――臆病で内向的な少年と、偏屈で変わり者な少女との恋愛模様を描く、そんな青春物語です。
Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説
宮 都
青春
幼なじみへの気持ちの変化を自覚できずにいた中2の夏。ライバルとの出会いが、少年を未知のスポーツへと向わせた。
美少女と手に手をとって進むその競技の名は、アイスダンス!!
【2022/6/11完結】
その日僕たちの教室は、朝から転校生が来るという噂に落ち着きをなくしていた。帰国子女らしいという情報も入り、誰もがますます転校生への期待を募らせていた。
そんな中でただ一人、果歩(かほ)だけは違っていた。
「制覇、今日は五時からだから。来てね」
隣の席に座る彼女は大きな瞳を輝かせて、にっこりこちらを覗きこんだ。
担任が一人の生徒とともに教室に入ってきた。みんなの目が一斉にそちらに向かった。それでも果歩だけはずっと僕の方を見ていた。
◇
こんな二人の居場所に現れたアメリカ帰りの転校生。少年はアイスダンスをするという彼に強い焦りを感じ、彼と同じ道に飛び込んでいく……
――小説家になろう、カクヨム(別タイトル)にも掲載――
【完結】キスの練習相手は幼馴染で好きな人【連載版】
猫都299
青春
沼田海里(17)は幼馴染でクラスメイトの一井柚佳に恋心を抱いていた。しかしある時、彼女は同じクラスの桜場篤の事が好きなのだと知る。桜場篤は学年一モテる文武両道で性格もいいイケメンだ。告白する予定だと言う柚佳に焦り、失言を重ねる海里。納得できないながらも彼女を応援しようと決めた。しかし自信のなさそうな柚佳に色々と間違ったアドバイスをしてしまう。己の経験のなさも棚に上げて。
「キス、練習すりゃいいだろ? 篤をイチコロにするやつ」
秘密や嘘で隠されたそれぞれの思惑。ずっと好きだった幼馴染に翻弄されながらも、その本心に近付いていく。
※現在完結しています。ほかの小説が落ち着いた時等に何か書き足す事もあるかもしれません。(2024.12.2追記)
※「キスの練習相手は〜」「幼馴染に裏切られたので〜」「ダブルラヴァーズ〜」「やり直しの人生では〜」等は同じ地方都市が舞台です。(2024.12.2追記)
※小説家になろう、カクヨム、アルファポリス、ノベルアップ+、Nolaノベルに投稿しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
全力でおせっかいさせていただきます。―私はツンで美形な先輩の食事係―
入海月子
青春
佐伯優は高校1年生。カメラが趣味。ある日、高校の屋上で出会った超美形の先輩、久住遥斗にモデルになってもらうかわりに、彼の昼食を用意する約束をした。
遥斗はなぜか学校に住みついていて、衣食は女生徒からもらったものでまかなっていた。その報酬とは遥斗に抱いてもらえるというもの。
本当なの?遥斗が気になって仕方ない優は――。
優が薄幸の遥斗を笑顔にしようと頑張る話です。
【完結】その夏は、愛しくて残酷で
Ria★発売中『簡単に聖女に魅了〜』
青春
ーーわがままでごめんね。貴方の心の片隅に住まわせて欲しいの。
一章 告知
二章 思い出作り
三章 束の間
四章 大好き
最後に、柊真視点が入ります。
_________________
ファンタジーしか書いて来なかったので、このジャンルは中々書くのが難しかったですが、なんとか頑張って書いてみました!
※完結まで執筆済み(予約投稿)
※10万文字以上を長編と思っているので、この作品は短編扱いにしています。
自称未来の妻なヤンデレ転校生に振り回された挙句、最終的に責任を取らされる話
水島紗鳥
青春
成績優秀でスポーツ万能な男子高校生の黒月拓馬は、学校では常に1人だった。
そんなハイスペックぼっちな拓馬の前に未来の妻を自称する日英ハーフの美少女転校生、十六夜アリスが現れた事で平穏だった日常生活が激変する。
凄まじくヤンデレなアリスは拓馬を自分だけの物にするためにありとあらゆる手段を取り、どんどん外堀を埋めていく。
「なあ、サインと判子欲しいって渡された紙が記入済婚姻届なのは気のせいか?」
「気にしない気にしない」
「いや、気にするに決まってるだろ」
ヤンデレなアリスから完全にロックオンされてしまった拓馬の運命はいかに……?(なお、もう一生逃げられない模様)
表紙はイラストレーターの谷川犬兎様に描いていただきました。
小説投稿サイトでの利用許可を頂いております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる