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第十話 もう二度と届かないとしても
もう怖くない
しおりを挟む夜の海に浮かぶまんまるの月の像は、波に揺れてゆがんで見える。でも、この静謐な海にはすべてが美しく映えていた。春樹くんと話をした日の翌日、私は肌寒い夜の海で、身を沈めることにしたのだ。
「あれ、どうしてだろう……」
波打ち際で足を水に浸すと、自然と身体が震えているのに気づいた。
そっか、怖いのか。
私は、この世界からいなくなるのが怖いんだ。
「春樹くん……」
生まれてこられなかった私の魂は、生まれてきたいと切実に願っていた。
私の両親は母が若い時に私を身ごもったけれど、経済的な理由で、私を産むことを諦めた。その後、両親は離婚したという。だから、この世界で自宅にいるNPCの両親は、現実世界では一緒にいることのない二人なのだ。
「生まれてきて良かったって、いつか思って」
そうすれば私や龍介の魂はきっと浮かばれる。
命にはいつか終わりが来る。
だから焦らず、その時を待って。それまでは精一杯生きて。
新しい恋をして、その人と幸せになって。
すべて私のわがままだけれど、叶えてくれたら嬉しい。
きっと、この世界を生きた私たちの魂が、きらきら光ってあなたたちを照らすから。
彼のことを思いながら海に身を浸していくと、自然と身体の震えが止まっていた。
もう怖くない。
私の役目を果たして、春樹くんの声を取り戻す。
春樹くんがいつか現実世界に戻った時、もう一度その声で、誰かの心を震わせる歌を歌ってくれるように。きっとトラウマだってあるだろう。でも私は、彼ならば辛い現実を乗り越えられると思っている。
私の夢を応援してくれた春樹くんなら。
私の背中を押してくれた春樹くんなら。
破天荒な私に、呆れずについてきてくれた春樹くんなら。
私を、好きになってくれた春樹くんなら。
私が、好きになった春樹くんなら。
もう何も、心配することはないね。
夜の海が、こんなにも綺麗で、身も心も洗われるような心地にさせてくれるなんて思ってもみなかった。
春樹くん、理沙ちゃん、龍介。
私はみんなと、幸せな時間を過ごすことができて本当に良かった。
私がいなくなったこの世界を、どうかお願いね。
春樹くんと理沙ちゃんは、ちゃんといつか現実世界に帰ってね。
龍介は、その時までいつもみたいにバカ言って笑ってて。
そうしたらきっと、私がいない、三人の輪も完璧に回り出すから。
残される親友たちを想いながら、私は海に身を沈める。ふと、遠くの方に誰かの身体が浮かんでいるような気がしてはっと息を呑んだ。
春樹くん……?
幻覚だ。そう分かっているのに、私は彼の身体の方へと吸い寄せられるようにして向かっていく。もう足が地面につかない。ようやく彼の身体にたどり着くと、彼の身体を抱きすくめて、唇を重ねた。柔らかくて、冷たくて、甘くて、苦い。初めての口づけは、そんなバラバラの感触が一気に押し寄せてくるもので、胸がぎゅっと締め付けられた。
勝手にキスしてごめんね。
でも、幻だからいいよね?
そのまま、二人分の体重を支えきれなくなった私は、暗い海の底へと沈んでいく。息が限界になりながら、海面を照らす月の光に手を伸ばす。
さようなら、私の生きた世界。
みんなみんな、大好き。
大好きだよ、春樹くん——。
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