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第七話 誰かの希望の光になって
助かった
しおりを挟む九月二日月曜日、ディーン高校で新学期が始まった。
九月になっても相変わらず夏の湿り気を帯びた空気が身体にまとわりつく。久しぶりに外に出てすぐに思ったのは、気持ち悪い、という感覚だった。
気持ち悪い。
この世界も、夏の空気も、死んだはずの自分がまだ生きているという感覚も。
半月ほど前までは、異世界で始まった高校生活に、新しい仲間に、眩いほどの彼女の笑顔に、戸惑いながらも身も心も癒されていた。僕の腐った人生の終わりに、春の陽だまりみたいに温かい日常が、まだ残っていたんだと思うと、この一瞬一瞬を大切にしようと感じていた。
……でも。
太陽の光が照りつけるアスファルトの上を歩いていた蟻が、僕の靴の裏でぺしゃりと潰れた。音もなく、一つの命は失われる。注意していなければ、自分が命を奪ったことすら、気づかない。
暑い。汗が気持ち悪い。
あの夏の海で、僕は自らの正体を夏海に話したことで、代償として声を失った。自分の正体を話せば、大切なものを失うというのは案内人から最初に聞いていた通りだった。でも、案内人の話を、半分ぐらいは冗談だと思っていなかったか? 夏海に真実を話そうという時、「まあなんとなかるだろう」とちょっとは鷹を括っていなかったか?
僕はお盆前から八月の間ずっと、自室に引きこもってあの一日のことを振り返っていた。何度顧みたところで、自分の声が戻ってくることはないのだと思い知らされる。試しに声を出そうと、何度も声帯を閉めたり緩めたり努力してみたが、口から漏れるのは掠れた吐息だけだった。
いい加減認めないといけない。
僕はこの先一生、声を出せないままなんだ。
死んだはずの自分が、「一生」だなんて言葉を使えること自体、おかしなことだ。最初から分かっていた。ディーナスでの日々はきっと、無念な死を遂げた僕への、最後のサービス期間のようなもの。息ができるだけでもラッキーなのに、その上夏海や理沙、龍介という気の合う仲間まで見つかったんだ。それだけでもう、十分じゃないか。
僕は夏海に、真実を話したことを後悔はしていない。
夏海……。
きみに、いつもみたいに笑ってほしかった。
分かり合えないって思われても、それでも僕はきみと、心を分かち合いたかった。
僕のすべてを知って欲しかった。
だってきみは、絶望しかなかった僕の世界を、まばゆい光の宝石みたいな明るさで、包んでくれたんだから——。
家に引きこもっている間、ただただ夏海と自分の声のことだけを考えた。
僕は死のうと思った。
二度と夏海の名前を呼べないのなら、このサービス期間だって意味のないものだ。
深夜一時、部屋の中に引きこもって、手首に刃物を押し当てた。さっき、母さんが夕飯の肉じゃがの具材を切っていた包丁だ。柔らかな肌に食い込んでいく鋒が、ひんやりと冷たくて、死神から背中を撫でられているような心地だった。
咄嗟に思い浮かんだのは、現実世界の母さんの心配そうな表情だ。僕が、学校でいじめられて自室に引きこもって以来、まともに会話をしていない。父さんともだ。
僕が死んだと知った時、二人はどう思っただろうか。
悲しんだだろうか。苦しんだだろうか。それとも、どうして自分たちの言うことを聞いて真面目に勉強してくれなかったのかと、怒っただろうか。
歌手になりたいなんて思いさえしなければ、こんなことにはならなかったのにと、僕の亡骸の前で詰っただろうか。
包丁の刃を、手首に押し当てたところで死ぬことなんてできないと分かっていた。相当深い傷をつくらなければ、出血多量には至らない。僕は、少しだけ手首に滲んだ血液を見て、やるせなさに包丁をカタンと床に落とした。
怖かったのだ。
現実世界で、自ら死を選んだ僕なのに、この世界で死ぬのが怖かった。
夏海と、もう会えなくなると思うと、胸を締め付けるほどの恐怖に身がすくんでしまっていた。今更どうして、と不思議に思う。でも、自分の命を失うこと以上に、彼女の笑顔を失う恐怖が勝っていたのだ。こんな感情は初めてだった。初めてだったから、僕は戸惑い、心の整理すらつけられないまま、新学期に学校へと登校していた。
ディーン高校ではいつものように各教科の先生たちが、授業を進めていった。夏海たちとは登校してから今ままで、まだ言葉を交わしていない。みんな、僕とどう接したらいいのか分からないのだろう。
昼休み前の英語の授業の時間に、先生が僕を当てた。
僕はとっさに椅子から立ち上がり、指定された問題の答えを言おうとする。しかし、当然ながら僕の喉からは声が出ない。しまった、と思った。自分の声が出ないことを、今この瞬間だけ忘れていたのだ。クラスメイトがみんな、僕の方を振り返る。「どうしたの」と隣の人同士で囁き合う声が聞こえる。僕は冷や汗をかいた。喉元を抑えて、苦し紛れに「はあ」と息を漏らす。どうしよう。
「……もしかして、罰?」
クラスメイトの誰かが呟いた声が、教室中に響き渡った。そんなに大きな声ではなかったのに。
「大丈夫か、春樹」
先生も僕の異変に気がつきそう声をかけてくる。気まずい空気が教室中を漂っていた。僕は首を縦に振るけれど、声はどうしても出せない。
「先生、代わりに私が答えますっ」
後ろの方の席から、ハリのある声が飛んできた。僕もクラスのみんなも、一斉に声の主の方に視線を這わせた。
「なんだ夏海、やる気あるな。じゃあ、答えてくれ」
この場をどう収めようかと迷っていた先生にとって、彼女が手を挙げてくれたのは願ったり叶ったりのことだったんだろう。
「はい! 『It was Judy that made this hamburger.』の訳は……えっと、『それは、ジュディーでした。この、ハンバーガーを、作った』? ……です!」
たどたどしい日本語を堂々と言ってのけた彼女は、さも自信ありげに背筋をぴんと伸ばし、まっすぐに前を見つめているものの、よく見れば額から一筋の汗が流れ落ちている。一目で彼女が、答えに自信がないのだということを悟る。
「夏海、これ、強調構文だよ」
夏海のすぐ後ろの席に座っていた理沙が、彼女の背中を突きながら小声で囁く声が聞こえた。
「キョウチョウコウブン……?」
夏海の頭の上に「?」が浮かんでいる。夏海の顔が、耳まで真っ赤に染まっていく。でも、それでも彼女は俯かず、しかと前を向いていた。
「そうだ。これは強調構文だ。さっき夏海が訳してくれたのは、直訳だな。この場合は、『ハンバーガーを作ったのは誰か?』を強調したいわけだ。『ハンバーガーを作ったのはジュディーだ』と言いたい。だからこの『It is ~ that~.』の構文がきたら、that以下から訳すと自然な日本語になる。『このハンバーガーを作ったのはジュディーだ』とな」
先生は夏海の間違いを怒ることはなく、ナイストライ! とでも言いたげな様子で正解を口にした。夏海は先生の言葉にうんうん頷きながら、メモなんかとるふりをして着席した。
よかったと、ほっとすると同時に、彼女が僕を助けてくれたのだと分かり、胸がじわりと熱くなった。僕も、夏海が座ったあとに席に座る。教室のざわめきは、夏海の誤解答騒動により幕を閉じた。みんな、僕の声が出ないことを気になっている様子はあったが、先生は僕のことをスルーしてくれた。
正直助かった、と思った。
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