あの夏の海には帰れない

葉方萌生

文字の大きさ
上 下
40 / 64
第七話 誰かの希望の光になって

助かった

しおりを挟む

 九月二日月曜日、ディーン高校で新学期が始まった。
 九月になっても相変わらず夏の湿り気を帯びた空気が身体にまとわりつく。久しぶりに外に出てすぐに思ったのは、気持ち悪い、という感覚だった。
 気持ち悪い。
 この世界も、夏の空気も、死んだはずの自分がまだ生きているという感覚も。
 半月ほど前までは、異世界で始まった高校生活に、新しい仲間に、眩いほどの彼女の笑顔に、戸惑いながらも身も心も癒されていた。僕の腐った人生の終わりに、春の陽だまりみたいに温かい日常が、まだ残っていたんだと思うと、この一瞬一瞬を大切にしようと感じていた。
 ……でも。
 太陽の光が照りつけるアスファルトの上を歩いていた蟻が、僕の靴の裏でぺしゃりと潰れた。音もなく、一つの命は失われる。注意していなければ、自分が命を奪ったことすら、気づかない。
 暑い。汗が気持ち悪い。
 あの夏の海で、僕は自らの正体を夏海に話したことで、代償として声を失った。自分の正体を話せば、大切なものを失うというのは案内人から最初に聞いていた通りだった。でも、案内人の話を、半分ぐらいは冗談だと思っていなかったか? 夏海に真実を話そうという時、「まあなんとなかるだろう」とちょっとは鷹を括っていなかったか?
 僕はお盆前から八月の間ずっと、自室に引きこもってあの一日のことを振り返っていた。何度顧みたところで、自分の声が戻ってくることはないのだと思い知らされる。試しに声を出そうと、何度も声帯を閉めたり緩めたり努力してみたが、口から漏れるのは掠れた吐息だけだった。
 いい加減認めないといけない。
 僕はこの先一生、声を出せないままなんだ。
 死んだはずの自分が、「一生」だなんて言葉を使えること自体、おかしなことだ。最初から分かっていた。ディーナスでの日々はきっと、無念な死を遂げた僕への、最後のサービス期間のようなもの。息ができるだけでもラッキーなのに、その上夏海や理沙、龍介という気の合う仲間まで見つかったんだ。それだけでもう、十分じゃないか。
 僕は夏海に、真実を話したことを後悔はしていない。
 夏海……。
 きみに、いつもみたいに笑ってほしかった。
 分かり合えないって思われても、それでも僕はきみと、心を分かち合いたかった。
 僕のすべてを知って欲しかった。
 だってきみは、絶望しかなかった僕の世界を、まばゆい光の宝石みたいな明るさで、包んでくれたんだから——。
 

 家に引きこもっている間、ただただ夏海と自分の声のことだけを考えた。
 僕は死のうと思った。
 二度と夏海の名前を呼べないのなら、このサービス期間だって意味のないものだ。
 深夜一時、部屋の中に引きこもって、手首に刃物を押し当てた。さっき、母さんが夕飯の肉じゃがの具材を切っていた包丁だ。柔らかな肌に食い込んでいくきっさきが、ひんやりと冷たくて、死神から背中を撫でられているような心地だった。
 咄嗟に思い浮かんだのは、現実世界の母さんの心配そうな表情だ。僕が、学校でいじめられて自室に引きこもって以来、まともに会話をしていない。父さんともだ。
 僕が死んだと知った時、二人はどう思っただろうか。
 悲しんだだろうか。苦しんだだろうか。それとも、どうして自分たちの言うことを聞いて真面目に勉強してくれなかったのかと、怒っただろうか。
 歌手になりたいなんて思いさえしなければ、こんなことにはならなかったのにと、僕の亡骸の前で詰っただろうか。
 包丁の刃を、手首に押し当てたところで死ぬことなんてできないと分かっていた。相当深い傷をつくらなければ、出血多量には至らない。僕は、少しだけ手首に滲んだ血液を見て、やるせなさに包丁をカタンと床に落とした。
 怖かったのだ。
 現実世界で、自ら死を選んだ僕なのに、この世界で死ぬのが怖かった。
 夏海と、もう会えなくなると思うと、胸を締め付けるほどの恐怖に身がすくんでしまっていた。今更どうして、と不思議に思う。でも、自分の命を失うこと以上に、彼女の笑顔を失う恐怖が勝っていたのだ。こんな感情は初めてだった。初めてだったから、僕は戸惑い、心の整理すらつけられないまま、新学期に学校へと登校していた。
 ディーン高校ではいつものように各教科の先生たちが、授業を進めていった。夏海たちとは登校してから今ままで、まだ言葉を交わしていない。みんな、僕とどう接したらいいのか分からないのだろう。
 昼休み前の英語の授業の時間に、先生が僕を当てた。
 僕はとっさに椅子から立ち上がり、指定された問題の答えを言おうとする。しかし、当然ながら僕の喉からは声が出ない。しまった、と思った。自分の声が出ないことを、今この瞬間だけ忘れていたのだ。クラスメイトがみんな、僕の方を振り返る。「どうしたの」と隣の人同士で囁き合う声が聞こえる。僕は冷や汗をかいた。喉元を抑えて、苦し紛れに「はあ」と息を漏らす。どうしよう。

「……もしかして、罰?」

 クラスメイトの誰かが呟いた声が、教室中に響き渡った。そんなに大きな声ではなかったのに。

「大丈夫か、春樹」

 先生も僕の異変に気がつきそう声をかけてくる。気まずい空気が教室中を漂っていた。僕は首を縦に振るけれど、声はどうしても出せない。

「先生、代わりに私が答えますっ」

 後ろの方の席から、ハリのある声が飛んできた。僕もクラスのみんなも、一斉に声の主の方に視線を這わせた。

「なんだ夏海、やる気あるな。じゃあ、答えてくれ」

 この場をどう収めようかと迷っていた先生にとって、彼女が手を挙げてくれたのは願ったり叶ったりのことだったんだろう。

「はい! 『It was Judy that made this hamburger.』の訳は……えっと、『それは、ジュディーでした。この、ハンバーガーを、作った』? ……です!」

 たどたどしい日本語を堂々と言ってのけた彼女は、さも自信ありげに背筋をぴんと伸ばし、まっすぐに前を見つめているものの、よく見れば額から一筋の汗が流れ落ちている。一目で彼女が、答えに自信がないのだということを悟る。

「夏海、これ、強調構文だよ」

 夏海のすぐ後ろの席に座っていた理沙が、彼女の背中を突きながら小声で囁く声が聞こえた。

「キョウチョウコウブン……?」

 夏海の頭の上に「?」が浮かんでいる。夏海の顔が、耳まで真っ赤に染まっていく。でも、それでも彼女は俯かず、しかと前を向いていた。

「そうだ。これは強調構文だ。さっき夏海が訳してくれたのは、直訳だな。この場合は、『ハンバーガーを作ったのは誰か?』を強調したいわけだ。『ハンバーガーを作ったのはジュディーだ』と言いたい。だからこの『It is ~ that~.』の構文がきたら、that以下から訳すと自然な日本語になる。『このハンバーガーを作ったのはジュディーだ』とな」

 先生は夏海の間違いを怒ることはなく、ナイストライ! とでも言いたげな様子で正解を口にした。夏海は先生の言葉にうんうん頷きながら、メモなんかとるふりをして着席した。
 よかったと、ほっとすると同時に、彼女が僕を助けてくれたのだと分かり、胸がじわりと熱くなった。僕も、夏海が座ったあとに席に座る。教室のざわめきは、夏海の誤解答騒動により幕を閉じた。みんな、僕の声が出ないことを気になっている様子はあったが、先生は僕のことをスルーしてくれた。
 正直助かった、と思った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。

矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。 女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。 取って付けたようなバレンタインネタあり。 カクヨムでも同内容で公開しています。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

【完結】碧よりも蒼く

多田莉都
青春
中学二年のときに、陸上競技の男子100m走で全国制覇を成し遂げたことのある深田碧斗は、高校になってからは何の実績もなかった。実績どころか、陸上部にすら所属していなかった。碧斗が走ることを辞めてしまったのにはある理由があった。 それは中学三年の大会で出会ったある才能の前に、碧斗は走ることを諦めてしまったからだった。中学を卒業し、祖父母の住む他県の高校を受験し、故郷の富山を離れた碧斗は無気力な日々を過ごす。 ある日、地元で深田碧斗が陸上の大会に出ていたということを知り、「何のことだ」と陸上雑誌を調べたところ、ある高校の深田碧斗が富山の大会に出場していた記録をみつけだした。 これは一体、どういうことなんだ? 碧斗は一路、富山へと帰り、事実を確かめることにした。

[完結済み]男女比1対99の貞操観念が逆転した世界での日常が狂いまくっている件

森 拓也
キャラ文芸
俺、緒方 悟(おがた さとる)は意識を取り戻したら男女比1対99の貞操観念が逆転した世界にいた。そこでは男が稀少であり、何よりも尊重されていて、俺も例外ではなかった。 学校の中も、男子生徒が数人しかいないからまるで雰囲気が違う。廊下を歩いてても、女子たちの声だけが聞こえてくる。まるで別の世界みたいに。 そんな中でも俺の周りには優しいな女子たちがたくさんいる。特に、幼馴染の美羽はずっと俺のことを気にかけてくれているみたいで……

膀胱を虐められる男の子の話

煬帝
BL
常におしがま膀胱プレイ 男に監禁されアブノーマルなプレイにどんどんハマっていってしまうノーマルゲイの男の子の話 膀胱責め.尿道責め.おしっこ我慢.調教.SM.拘束.お仕置き.主従.首輪.軟禁(監禁含む)

魔界最強に転生した社畜は、イケメン王子に奪い合われることになりました

タタミ
BL
ブラック企業に務める社畜・佐藤流嘉。 クリスマスも残業確定の非リア人生は、トラックの激突により突然終了する。 死後目覚めると、目の前で見目麗しい天使が微笑んでいた。 「ここは天国ではなく魔界です」 天使に会えたと喜んだのもつかの間、そこは天国などではなく魔法が当たり前にある世界・魔界だと知らされる。そして流嘉は、魔界に君臨する最強の支配者『至上様』に転生していたのだった。 「至上様、私に接吻を」 「あっ。ああ、接吻か……って、接吻!?なんだそれ、まさかキスですか!?」 何が起こっているのかわからないうちに、流嘉の前に現れたのは美しい4人の王子。この4王子にキスをして、結婚相手を選ばなければならないと言われて──!?

恋の消失パラドックス

葉方萌生
青春
平坦な日常に、インキャな私。 GWが明け、学校に着くとなにやらおかしな雰囲気が漂っている。 私は今日から、”ハブられ女子”なのか——。 なんともない日々が一変、「消えたい」「消したい」と願うことが増えた。 そんなある日スマホの画面にインストールされた、不思議なアプリ。 どうやらこのアプリを使えば、「消したいと願ったものを消すことができる」らしいが……。

処理中です...