あの夏の海には帰れない

葉方萌生

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第五話 夏の寂しさ

過去

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 波の音も、遠くで鳴いている鳥の声も、海から引き上げて帰ろうと声をかけ合う人の声も、すべてかき消されたかのように、静まり返っていた。
 夏海の目が、一気に見開かれ、身体が震え出す。

「どう、して……」

 驚愕したままなんとか絞り出したように呟く彼女。僕の告白したことが、この世界のルールを侵していることに気がついたのだろう。
 自分の正体を、別の種類の人間に打ち明けてはならない——。
 僕は今この瞬間、ディーナスにおける世界のルールを破った。
 そうしてまで、夏海には自分の全てを知ってもらいたかった。

「僕は、現実世界で人生に絶望した。将来も、未来も、全部見えなくなった。真っ暗だったんだ。それまでは、人前で歌を歌って、SNSでちょっとばかり有名になって、僕は歌で生きていくんだって信じてたのに」

 いつかカラオケで、歌手になるのが夢だと僕が言ったことを思い出したのか、夏海はえっと声を上げた。
 この世界で歌手になれるよと言ってくれた夏海の笑顔が、もう遠い過去のように思える。

「ごめん、カラオケの時は、夢だなんて言って。僕の夢はもうとっくに、砕け散ってしまったよ」

 日が落ちた海は、僕と夏海の身体から熱を奪い、一気に冷やしていく。
 けれどそんなこともお構いなしに、僕はこれまでの人生を、夏海に向かって訥々と話し出した。

 *
 
 歌手になりたいと思ったのは、小児がんで入退院を繰り返し、病院でテレビを見ていた時だ。
 病院では何も楽しいことがなかった。でも、テレビでやっている歌番組が、僕の心を癒していった。僕は次第に、あのテレビの中の歌手のように、誰かの心を癒す歌を歌いたいと思うようになった。
 幸い病気は完治し、僕は病院を退院した。
 両親は僕が小児がんを患ったことがきっかけで、僕のことを過剰に心配するようになったのかもしれない。
 きちんとした大学で勉強をして、堅実な職に就いてほしい——そんな両親からの期待が、僕をがんじがらめにしていた。
 高校生の僕は、両親の期待から外れるようにして勉強をやめ、アーティストになるための活動に邁進していった。成績はもちろんガタ落ち。県内ではそれなりに進学率の高い高校に進んだものの、高校生になってから夢ばかり追っていた僕は、すっかり順位が下がっていた。このままでは留年してしまうかもしれないよ、と担任の先生に言われても、僕の心には一切響かない。
 僕は、この三年間で絶対に歌手として有名になってみせる。
 将来への道は、自分で切り拓くんだ。
 そう信じて、歌を歌い続けた。
 『SEASON』という名のサークルでバンド活動をしていたのだが、なかなか結果の見えない現実に、焦りを覚えていた。
 路上ライブや単独ライブをすれば、聴衆の中に事務所の人間がいてスカウトされる——そんな浅はかな夢は、活動を開始して一年ほどでもう諦めていた。
 スカウトなんて、夢のまた夢だ。あんなのは、ドラマの世界でしか起こらないことで、多くの人間は専門学校へ行き、レコード会社の新人発掘オーディションなんかを受けてデビューを果たす。それが歌手になるための王道だ。
 僕と、サークル『SEASON』の仲間も、もちろんオーディションを受けた。何十回と受けたけれど、いつも途中で選考から振るい落とされた。歌は上手い自信がある。でも、歌が上手いだけの人間なんて、この世にごまんと存在していた。

「オーディションは、諦めよう」

 活動を開始して一年、仲間の一人が腕組みをしながらそう漏らした。彼はドラマーだ。バンドメンバーは僕以外、全員大学生だった。SNSで出会い、『SEASON』を結成したのだ。
 彼は結果が出ないという現実に、悲嘆に暮れていた——わけではなく、その目は獲物を狙う猛獣のように力強い色をしていた。

「じゃあ、どうするの? またライブをするだけの生活をして、スカウトされるのを待つのか?」

 ギターリストの男が、ドラマーに問いかける。ボーカルの僕は、二人の会話にじっと耳を傾けていた。

「いや、そうじゃない。スカウトなんて待ってても、絶対に来ないってみんなも分かってるだろ。それよりも、俺が考えているのは、これだ」

 ドラマーがスマホをポケットから取り出して、僕らのほうに画面を向けた。

「なんだこれ、ただのYouTubeじゃねえか。もしかして……」

 今度はベースの彼が僕たちの顔を見回して、ドラマーに視線を留めた。彼は口の端を持ち上げて、ニヤリと笑う。

「そうだ。YouTubeとTikTok——俺たちが使うのは、この二つだ」

 全員が、あっと声を上げて驚く。 
 もともと僕たちはSNSを使っていたが、ライブの宣伝で運用しているだけだ。動画を中心としたSNSはまだやったことがなかった。

「そんな簡単に、うまくいくのかよ?」

 メンバーの中で、一番慎重なギターリストが、ドラマーの提案を疑っている。僕だってそうだ。オーディションにさえ受からないのに、SNSで人気になるなんて、考えられない。

「もちろん、簡単じゃないさ。でもSNSならば戦略が立てられる。オーディションは結局、審査をしているレコード会社やプロダクションが売り出したい楽曲とマッチしているかが問題になってくるだろう。これは、就職活動と一緒だ。どんなに優秀でも、優秀さより『面白い人間』を会社が求めているならば、そいつは落ちてしまうかもしれない。どれだけ歌が上手くても、歌の良し悪しよりもビュジュアルを重視されていたらどうだ? そうなったら俺たちが何度オーディションを受けても受からないだろ」

「確かにそうだな……」

 実際のところは、オーディションを開催している会社に聞いてみないと分からない。けれど、ドラマーの彼の話には妙な説得力があった。

「反対にSNSならば、話は変わってくる。視聴者が求めるものは、コメントやSNSのつぶやきですぐにキャッチすることができる。俺たちは、聴衆の求めるものを、絶対に手放さない。下手なプライドは捨てろ。ファンを増やすためならなんだってする。曲調だって、編成だって、変える覚悟をしろ。ファンを増やしたら自主制作CDを販売する。売り上げ実績を積み上げれば、レコード会社だって振り向いてくれるはずだ」

 彼の語る内容は、ライブやオーディションで結果の振るわない僕たちメンバーからすれば、夢のような話だった。でも、決して届かない夢じゃない。

「本当に、そんなことでデビューできるのか?」

 ギターリストが猜疑心に満ちた目でドラマーを見つめた。

「確証はない。でも、今よりは絶対に、デビューに近づける」

 彼の力強い言葉に、その場にいたメンバーが一斉にゴクリと唾を飲み込んだのが分かった。もちろん僕も例外ではない。僕は、僕たちは、ドラマーの言う通り、オーディションを受けまくるのを辞めることにした。自分たちの歌を世間に広めるため、SNSを最大限活用した戦略に切り替えることになった。
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