たとえ私がいなくても

葉方萌生

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ストライキ宣言

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 それは、いつもの月曜日の朝のことだった。

「今日から一ヶ月間、家事をストライキします」

 食卓に並んだ朝食を食べに、一階のリビングへと降り立った愛梨が見た光景は、まっさらなテーブルを前にして立ち尽くす二人の男たちだ。一人は父親の徹、もう一人は弟の祐樹である。いつもならエプロンをつけて台所に立っているはずの母親の美智子が、今日は化粧もせず、部屋着姿のまま降りてきた愛梨を一瞥した。

「ストライキ? え?」

 まだ完全には身体も心も目を覚ましていなかった愛梨は、美智子のキリッとしたまなざしを見ても、どういうことなのかさっぱり分からない。
 だが、愛梨が求める答えを美智子がくれるわけでもなく、彼女はそれっきり、そろそろと自室へと舞い戻ってしまった。

「えーっと……」

 自分と同じように立ち尽くしている徹や祐樹の顔を見ても、二人ともぽかんと口を開けているだけだ。愛梨は「うーん」と唸りながら、今のこの状況を整理する。時刻は午前七時半、サラリーマンの父親とサッカー部の朝練のある高校生の祐樹は、そろそろ出かけなければならない時間だ。

「ストライキって、つまり家事をしないってことよね。一ヶ月も?」

 当の本人がいないところで、美智子が放った言葉の意味を考える。そうだ。美智子は一ヶ月、家事をしないと宣言したのだ。だから今日も朝ごはんが準備されていないらしい。
 まったく意味が分からない。どうして急に、そんなことを言い出したのだろうか。
 愛梨は混乱する頭を抱えながら男二人を交互に見つめるも、やっぱり花村家の男たちは何もかも状況を理解していない様子で固まっている。

「お、俺、会社行かないと。悪いけどお前たち、俺は外でおにぎりを買っていく。行ってきます……!」

 時計を見て出社時刻に間に合わないと見込んだのか、徹はネクタイを締めながら、慌ただしく家を出ていった。

「姉ちゃん俺も! 今日も朝練だよ! てかお弁当もないじゃん! うわーやばっ。俺、母さんの大盛り弁当じゃないとお腹空くんだ」

 母さん、弁当はないの!? と美智子の部屋に駆け込む祐樹だったが、あえなく一蹴されたのか、しょぼくれた顔で部屋から出てきた。

「祐樹、なんて言われたの?」

「『私はストライキ中です。ストライキ中はもちろんお弁当も作りません。食べたければ自分で作ってください』だって……」

 美智子の言葉を聞いて、愛梨はまじか、とため息をつく。
 どうやら美智子の決意は本物らしい。本気で一ヶ月間、家事をやめるつもりなのだ。

「仕方ないからあんたも購買と食堂で我慢しなさい。明日からのことは、これから考えよう……」

 はっきり言って、愛梨自身、料理ができるわけではない。母親のストライキは、愛梨にとっても死活問題だ。これまで花村家の一切の家事は、すべて美智子に任せきりだった。これはきっと、美智子からの仕返しなのだろう。溜まりに溜まっていたストレスが今日、爆発してしまったに違いない。ああ……。
 母を除いて、一家で唯一の女性として、もっとテキパキと指示をして、母親の代わりに家事ができたらいいのだけれど。あいにく愛梨は生まれてから大学一年生になった今日まで、実家でのうのうとあぐらをかいて、家事手伝いは何もせずに過ごしてきた。
 美智子が私たちの中で一番怒っているのは、私に対してだろう。子供のころから親の手伝いもせずに、友達と遊んでばかりいたのだから。祐樹は弟らしいあまちゃんな部分があって、父親の徹は仕事で忙しいから無理は言えない。だから美智子は、私をぎゃふんと言わせるためにストライキなんかしたんだ。

 美智子の思惑を考えると、ぐうの音も出ない。大学で新しく知り合った友達の中には、一人暮らしを初めた子も多い。自分と同じ歳で一人暮らしなんてすごいな——そう感心したばかりだったのだが、まさか自分の身に同じようなことが降りかかるなんて。

「……そうだ。絵美えみなら、一人暮らしだし何か教えてくれるかも……」

 部屋に引きこもり中の母親以外、家族が出払った家の中で、愛梨は一人、並々ならぬ責任感を覚えて唸った。
 とにかく、今日大学に行ったら絵美にいろいろと聞いてみよう。うん、それがいい。
 まだ何も解決していないはずなのに、愛梨の前に一筋の光が差した気がした。ストライキ中の美智子はリビングに漏れ聞こえるほど大きな音で、流行りのJ-POPを流している。
 そうだ、大丈夫。私はこれから、家事を覚えるんだ!
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