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葉方萌生

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第六話 トラウマを消し去りたいあなたへ

息子

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 詩乃はホットコーヒーを淹れて、男を一階のこたつ席に案内した。
かつて詩乃自身も、お店にやって来るお客さんと仲良くなり、色んな相談事を持ちかけられることが多かった。菜花がアルバイトに来てからは、どうやら彼女に何かしら人生相談をするお客さんが増え、すっかり自分の役割は終わっていた。だから、こんなふうに一般のお客さんとこたつ席でお話をするのはとても久しぶりだ。

「申し遅れましてすみません。私は以前あおい文学賞という短編小説文学賞の審査委員長をしていた、杉崎と申します」

 詩乃が持ってきたコーヒーに手を伸ばす前に、男がそう名乗った。
 そこでナツは、やはりこの男が、昨日の夜菜花から聞いた審査委員長の杉崎なのだと確信した。

「あなたのことは、昨日少しだけ伺っております。なのちゃん——三谷が大賞をとった文学賞の審査委員長だったと」

「ええ。そこまでお聞きでしたか。それなら、彼女が昨日私と会ったことも話したのでしょう」

「そうですね……。あなたにもう一度小説を書いて欲しいと言われて、動揺しております」

 詩乃はあくまで事実を述べる。
 別に、杉崎のことを責め立てようとか、昨日の出来事を詳しく教えて欲しいなどと頼むつもりはない。杉崎に落ち度があったわけではないということぐらい、重々承知していた。どちらかと言うと、菜花の方が自分を見失って仕事ができていなかったのだ。彼女が悪いわけでもないが、ここは中立の立場にいるのが無難だろう。

「そうでしょうね。私は昨日彼女を突然訪ねて、あんなことを言ってしまったのを後悔しております……」

 杉崎は淹れたての熱いコーヒーを少しだけ啜って、またすぐにカップをテーブルの上に置いた。その言動から、昨日の行いを恥じていることが伝わってきて、詩乃はなんとも言えない気持ちになる。
 杉崎に、菜花のことを傷つけようなんて気持ちは毛頭ないことがすぐに分かった。

「彼女は……、三谷は、小説を書きたくないのではないと言っておりました」

「え?」

 詩乃は、わざわざ昨日の出来事を悔いて連日お店まで訪れてくれた杉崎に、正面から向き合いたいと思った。

「書きたくないのではなくて、書きたいのに書けないんだそうです。自分を可愛がってくれたお婆さんの最期に間に合わなかったことが、自分が小説を書いたせいだと思っています。それ以降、小説を書こうとすれば手が動かなくなるそうなんです。……私は小説を書く人間ではないから、それがどういうことなのか、完全には分かりません。でも、そういうのって、誰もが経験する小さなトラウマなんじゃないかと思って。ううん、トラウマなんて本当は思い込みで、彼女自身が、書けない理由を探しているだけなのかもしれません。なんにせよ、私には分からない。彼女にどんなアドバイスをすれば良いか分からなくて、途方に暮れています……」

 詩乃は、今日仕事が始まってからずっと考え込んでいたことを、杉崎の前で吐き出した。 菜花本人がどうすればいいか分からないというのと同じように、詩乃も、どんなふうに助けてあげればいいか、その答えを考えあぐねていること。
 もし杉崎が何か知っていることがあれば、教えて欲しい。
 そんな願いを込めて語ったのだ。

「そうでしたか……。だから昨日も彼女はあんなに……」

 杉崎は、ここでの昨日の彼女とのやりとりを思い出したのか、やっぱり自分の行いを反省している様子で眉根を寄せている。
 そして、再び深く息を吸い、彼女に対する想いを語り始めた。

「私は……、実は、息子を亡くしておりましてね。生きていたらちょうど、三谷さんと同じ歳だったと思います。息子は、高校二年生の夏に、自ら命を絶ったんです。学校でいじめられていたことが原因で……」

 予想外の話が出てきて、詩乃は戸惑う。
 しかも、その内容が衝撃的で、穏やかな雰囲気の杉崎に、そんな過去があったなんて思いもしなかった。

「私も妻も、ずっと後悔していました。夫婦揃って、息子の苦しみに気づいてあげられなかったんです。一人息子だったもので、それから一年の間、二人とも気持ちが沈んだまま、全く生きている心地がしなかった。夫婦間で会話も減って、来る日も来る日も、息子のことを想う毎日。それがとても苦痛だった。いつになったら、私たちは前を向けるんだろう。もしかしたら、一生このままかもしれない。いいや、前を向いてなんかいたら、息子がかわいそうだ。息子は一人で苦しんで、死んでしまったのに……。私たちだけが、この先のうのうと暮らしてゆくなんて、そんなことは許されないとさえ思いました」

 杉崎の話を聞いていると、詩乃は自然と胸が痛くなる。
 こんなふうに自分を責めなければいけないなんて、そんな毎日が永遠に続くかもしれないなんて、もし自分だったら耐えられないだろう……。

 コーヒーの湯気の向こうに、こたつ席の空間が揺らめいて見える。数年前の杉崎さん夫婦が、息子さんの死に心を痛め続ける日々が、はっきりと脳裏に浮かぶ。完全に妄想なのに、まるで本当に見てしまったかのようだ。京都和み堂書店では時々こういうことがある。誰かの人生まるごと、自分も体験しているような感覚。この温かみのある木でつくられた空間が、そうさせているのだろうか。

「そんなふうに、毎日死んでいるか生きているか分からないような心地で、無心で仕事に明け暮れている時に出会ったのが、彼女の小説でした」
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