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第六話 トラウマを消し去りたいあなたへ
書きたいと願っているのに
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「だから私は書けないんですっ……」
京都和み堂書店の女将こと詩乃さんは、私の目から見てもはっきりと分かるぐらい困っているようだった。
困る、という表現をすると、私に対して迷惑がっているというようなニュアンスになってしまうが、決してそうではない。
どんなふうに言葉を返したら良いか考えあぐねている、そんな様子だった。
しかしやがて、興奮気味の私を落ち着けるように、私の肩にそっと手を添えて、こう言った。
「書きたくないなら……、書けないんなら……、書かなくてもいいんじゃないかな」
静かな夜の店内に、彼女の声色はあまりに似合いすぎた。
それはまるで、詩乃さんが自分自身に言い聞かせているようで、私はテーブルの木目の一点を見ている彼女の横顔を、食い入るように見つめた。
詩乃さんの言葉に、私は思わず頷きそうになった。頷きたかった。でも、首を縦に振ろうとしたその瞬間に、気づく。
何かが違う、と。
そう、詩乃さんの言葉の中で、一つだけ間違っていることがある。
それが私の“違和感”で、それのために私は今どうしようもない葛藤を抱えているような気がして、言わずにはいられなかった。
「違うんです。“書きたくない”んじゃないんです。“書きたいのに書けない”んです——」
私が本当に悩んでいたこと。
なぜ杉崎が私に「もう一度書いて欲しい」と言ってくれた時に、息苦しさを感じてしまったのか。
「絶対に書きません」とは言わず、「書けない」という言葉を無意識のうちに選んでいたのか。
もしも、私が心から「書きたくないから書かない」と希望すれば、あとから思い悩むこともなかったし、人前で泣いたりできなかった。
だけど、本当は違うのだ。
書きたいのに。
書きたいと願っているのに。
なのに、書けない。
ペンを握って白紙のルーズリーフを前にする時、パソコンの前に座って真っ白な文書を目にした時、吐き気が込み上げて、震えが止まらなくなる。
私が書いたから、祖母の死に目に遭えなかった。
私に物語の楽しさを教えてくれた祖母がいなくなって、どうしたらいいか分からなくなった。それはまるで、突然の嵐に船頭を失ってしまい沈没しかけた船のようだ。
私が書いたから祖母が死んだわけではない。
でも、表彰式に行く前に、寝たきりの祖母が私を見つめて何か言いたそうな顔をしていたのが、何度も脳裏に浮かんだ。後から考えると、あれは「いってらっしゃい」なんかじゃなかった。「行かないで」と訴えていたかのように思えて仕方がなかったから。
私はそんな祖母を振り切って表彰式に出席してしまったのだ。
だから、神様がきっと、私に天罰をくらわせたのだ。
お前のように家族のことを顧みないやつは、苦しんでしまえって。
その神様の思惑通り、私はあの日表彰式から帰って以降、一度も小説を書いていない。
それは「書きたくない」からじゃない。
物語を書こうとすればするほど、あの日の出来事を思い出して苦しくなるからだ。
祖母のことを、もう私の物語を読んでくれることはない人のことを、思い出してしまうからだ。
けれど、それでも。
それでも私は。
「書きたい……。本当はあの日のことに囚われずに、もう一度書きたい。だけど、指が、動かないんです……。言葉が、浮かんでこない。気持ち悪くなってパソコンの画面を閉じてしまうんです。詩乃さん、書きたいのに書けない人は、どうしたらいいんでしょう? 書きたくない人は、無理して書かなくていいと思うんです。だってそれはその人の自由ですから。でも……、でも、書きたいのに書けない人は、翼を引きちぎられた鳥は、どうしたら飛べると思いますか……?」
私は知りたかった。
京都和み堂書店で働き始めてからずっと。
一時は「やっぱりもう、ダメなのか」と諦めようと思いながら、それでもお客さんや人生相談にやってくる人たちと関わるうちに、私はもう一度書けるかもしれないと希望を抱いたこともあった。
しかし、バイトが終わって帰宅し、いざパソコンを開いてみると、まるで私という魂が他の誰かと入れ替わってしまったかのように、指が硬直して動かなくなる。それならばアナログでいこうと思い、パソコンをペンとノートに変えてみたがだめだった。
一体どうして?
私の何が悪いの?
「それは……」
詩乃さんは、橙色の照明の下で睫毛を伏せ、私に何を言うべきか、考えている。
私にとっては、もうそれだけで十分だった。
こんなわけのわからない悩みを聞いてくれただけでも、感謝しきれないほどだから。
「すみません。意味わからないですよね。もう少しだけ、悩んでみます……」
「遅くまで、本当にありがとうございます」と深く頭を下げて、私は椅子から立ち上がった。 腕時計を見ると、そろそろ日付が変わる頃だ。
私は荷物をまとめて、階段の方へ歩いた。
まだ座ったままの詩乃さんが椅子から動く気配はしない。
とん、とん、と静かに階段を踏み鳴らしながら、私は心の中でため息をつく。
言ってしまった。
自分の身の上話なんて、京都和み堂書店で働いていて一度もしたことがなかったのに、弱みまで晒してしまった。
これからまたここで働くことを考えると、少し気が重い。
「はあ……」
店から出て扉を閉めた時に、そんな後悔が夜の闇とともに押し寄せていた。
京都和み堂書店の女将こと詩乃さんは、私の目から見てもはっきりと分かるぐらい困っているようだった。
困る、という表現をすると、私に対して迷惑がっているというようなニュアンスになってしまうが、決してそうではない。
どんなふうに言葉を返したら良いか考えあぐねている、そんな様子だった。
しかしやがて、興奮気味の私を落ち着けるように、私の肩にそっと手を添えて、こう言った。
「書きたくないなら……、書けないんなら……、書かなくてもいいんじゃないかな」
静かな夜の店内に、彼女の声色はあまりに似合いすぎた。
それはまるで、詩乃さんが自分自身に言い聞かせているようで、私はテーブルの木目の一点を見ている彼女の横顔を、食い入るように見つめた。
詩乃さんの言葉に、私は思わず頷きそうになった。頷きたかった。でも、首を縦に振ろうとしたその瞬間に、気づく。
何かが違う、と。
そう、詩乃さんの言葉の中で、一つだけ間違っていることがある。
それが私の“違和感”で、それのために私は今どうしようもない葛藤を抱えているような気がして、言わずにはいられなかった。
「違うんです。“書きたくない”んじゃないんです。“書きたいのに書けない”んです——」
私が本当に悩んでいたこと。
なぜ杉崎が私に「もう一度書いて欲しい」と言ってくれた時に、息苦しさを感じてしまったのか。
「絶対に書きません」とは言わず、「書けない」という言葉を無意識のうちに選んでいたのか。
もしも、私が心から「書きたくないから書かない」と希望すれば、あとから思い悩むこともなかったし、人前で泣いたりできなかった。
だけど、本当は違うのだ。
書きたいのに。
書きたいと願っているのに。
なのに、書けない。
ペンを握って白紙のルーズリーフを前にする時、パソコンの前に座って真っ白な文書を目にした時、吐き気が込み上げて、震えが止まらなくなる。
私が書いたから、祖母の死に目に遭えなかった。
私に物語の楽しさを教えてくれた祖母がいなくなって、どうしたらいいか分からなくなった。それはまるで、突然の嵐に船頭を失ってしまい沈没しかけた船のようだ。
私が書いたから祖母が死んだわけではない。
でも、表彰式に行く前に、寝たきりの祖母が私を見つめて何か言いたそうな顔をしていたのが、何度も脳裏に浮かんだ。後から考えると、あれは「いってらっしゃい」なんかじゃなかった。「行かないで」と訴えていたかのように思えて仕方がなかったから。
私はそんな祖母を振り切って表彰式に出席してしまったのだ。
だから、神様がきっと、私に天罰をくらわせたのだ。
お前のように家族のことを顧みないやつは、苦しんでしまえって。
その神様の思惑通り、私はあの日表彰式から帰って以降、一度も小説を書いていない。
それは「書きたくない」からじゃない。
物語を書こうとすればするほど、あの日の出来事を思い出して苦しくなるからだ。
祖母のことを、もう私の物語を読んでくれることはない人のことを、思い出してしまうからだ。
けれど、それでも。
それでも私は。
「書きたい……。本当はあの日のことに囚われずに、もう一度書きたい。だけど、指が、動かないんです……。言葉が、浮かんでこない。気持ち悪くなってパソコンの画面を閉じてしまうんです。詩乃さん、書きたいのに書けない人は、どうしたらいいんでしょう? 書きたくない人は、無理して書かなくていいと思うんです。だってそれはその人の自由ですから。でも……、でも、書きたいのに書けない人は、翼を引きちぎられた鳥は、どうしたら飛べると思いますか……?」
私は知りたかった。
京都和み堂書店で働き始めてからずっと。
一時は「やっぱりもう、ダメなのか」と諦めようと思いながら、それでもお客さんや人生相談にやってくる人たちと関わるうちに、私はもう一度書けるかもしれないと希望を抱いたこともあった。
しかし、バイトが終わって帰宅し、いざパソコンを開いてみると、まるで私という魂が他の誰かと入れ替わってしまったかのように、指が硬直して動かなくなる。それならばアナログでいこうと思い、パソコンをペンとノートに変えてみたがだめだった。
一体どうして?
私の何が悪いの?
「それは……」
詩乃さんは、橙色の照明の下で睫毛を伏せ、私に何を言うべきか、考えている。
私にとっては、もうそれだけで十分だった。
こんなわけのわからない悩みを聞いてくれただけでも、感謝しきれないほどだから。
「すみません。意味わからないですよね。もう少しだけ、悩んでみます……」
「遅くまで、本当にありがとうございます」と深く頭を下げて、私は椅子から立ち上がった。 腕時計を見ると、そろそろ日付が変わる頃だ。
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まだ座ったままの詩乃さんが椅子から動く気配はしない。
とん、とん、と静かに階段を踏み鳴らしながら、私は心の中でため息をつく。
言ってしまった。
自分の身の上話なんて、京都和み堂書店で働いていて一度もしたことがなかったのに、弱みまで晒してしまった。
これからまたここで働くことを考えると、少し気が重い。
「はあ……」
店から出て扉を閉めた時に、そんな後悔が夜の闇とともに押し寄せていた。
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