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葉方萌生

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第五話 忘れられない人がいるあなたへ

大切な縁

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 そこからの僕と彼女は、見ての通りだ。
 精神的に不安定になっていた妻の神経を逆なでするようなことをやってしまった僕は、妻の機嫌をなおそうと必死に食らいつきながらも、長年連れ添った妻にも関わらずどんな言葉をかければ良いのか分からなくて、内心焦っていた。
 どんな言葉をかけても売り言葉に買い言葉で、全く聞き入れてくれない。
 もはや、お手上げだった。
 店員さんが割って入ってくれて、妻が本棚に八つ当たりをするというハプニングが起きなければ、自分一人では到底その場を収めることもできなかっただろう。

「そういうわけで……妻に元気になって欲しかったのですが、失敗してしまったようですね……」

 男性は、娘さんが亡くなってからの妻の早苗さんとの日々を語ってくれたあと、「はあ……」と深いため息をついた。
 きっとこの人だって、とても辛くて苦しいのに。大事に育ててきた娘さんが突然いなくなってしまって。それでも、奥さんを励ますために手を替え品を替え試行錯誤してきたのだ。その結果、奥さんを怒らせてしまったけれど、私には早苗さんが本当に彼に対して怒っているとは到底思えなかった。

「あっ、その本」

 唐突に、男性が本棚のある一点を指さして声を上げる。
 どうしたんだろう、と私は彼の指さす箇所をじっと見つめて。

「帯が……」

 そこにあったのは一冊の文庫本、朝井リョウ先生の『星やどりの声』だった。

「帯が、破れてますね……」

 私と同じく男性が見ていた本を目にした岡本が、残念そうにそう呟くのが聞こえた。
 確かに、そこにあった『星やどりの声』の文庫本の帯の、ちょうど背表紙に位置する部分がパックリ破れていた。

「す、すみません!!」

 威勢良く頭をガバッと下げて謝る男性。

「いえいえ、いいんです。帯の破れはよくあることですから」

 そう答えつつも、私自身少し残念な気持ちになっていた。
 本は、帯が破れたり汚れたりすると、返本しなければならない。返本すれば在庫は減るし、 何より中身は綺麗な本を、帯が破れてしまったという理由で売れなくなってしまうのが悲しかった。

「いや、そういうわけにはいきません! これ、僕が買います!」

「ええ!?」

 そりゃ、買ってくれるのは嬉しいけれど。
 でも、求めてもない本を無理やり買わせるのはちょっと心が痛む。どうせ買うなら、前々から気になっていた女の子を、しどろもどろになりながら頑張ってデートに誘い出した時のように、その本が気になって読みたくて、手を出したり引っ込めたりした挙句に「よしっ」と思い切って手を伸ばして買ってほしい!
 ……なんて、またこれ以上妄想が膨らんでしまう前に、私は彼にこう話した。

「お気持ちは嬉しいです。でもその前に、一つお伺いしたいことがあるんです」

「聞きたいこと?」

「はい。奥さんは、本を読まれる方ですか?」

「それは……」

 かつてはよく読んでいた。
 その……、娘が死ぬ前までは。

 彼は、言いにくいことを本当に言いにくそうに、鎮痛な面持ちでそう言った。

「そうだったのですね」

 本が好きな人の大半は娯楽で本を読む人だ。
 だから、余裕があるときにしか読めない。
 その余裕とは、時間であることもあれば、心の余裕であることもある。
 早苗さんの場合は後者だろう。心に余裕がなくなれば、娯楽として暇な時間にやっていた読書も、なんとなく憂鬱になり、おろそかになる。しかもその本がハッピーエンドであればあるほど、虚しくなるものだ。
 私にもそんな経験があるから、男性の妻の早苗さんの気持ちは十分に察することができた。
 でも。
 それでも、私は。

「じゃあ、それなら一層、その本を奥さんに渡してみてはいかがでしょう?」

 私は、男性の手にしっかりと握られている『星やどりの声』に視線を落としながらそう言った。

「この本を妻に……?」

 私の提案が予想の範疇になかったのだろう。
 男性は、たまたま帯が破れてしまって自ら購入しようとしていたその本を、じっと見つめる。

「はい。本当に偶然なんですけれど、私も読んだことがあって。『星やどりの声』、きっと奥さんの心に効く一冊だと思うんです」

「そう、なんですね」

「ええ。だからぜひ、奥さんに勧めてみてください」

 私が男性に、そう強く勧めると、彼は魔法の薬を発見したかのように、不思議そうにその小説の表紙を見ていた。それから、一度表紙を撫で、「分かりました」と潔く頷いてくれた。

「妻に、この本を渡してみます。これも何かの縁ですし」

 縁——。
 そうだ。そう言われると、これは不思議な縁かもしれない。
 どうか彼にとって、それから奥様にとって、大切な縁になるといい。
 男性が『星やどりの声』をその場で購入してくれて、私は丹念にスカイブルーのブックカバーをかけた。
 この本が、きちんと妻の早苗さんの元へ届きますように。
 そう願いを込めて。
 事の成り行きを見守ってくれていた岡本も、男性を見て以前の彼自身を重ねているかのような、優しいまなざしをしていた。
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