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第五話 忘れられない人がいるあなたへ
動けない
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「……さん」
「……」
「菜花さん」
不意に岡本の声がして、私ははっと我に返る。
「あ……す、すみません。ぼうっとしてて……」
杉崎審査委員の手紙を読んだせいで、四年前の出来事を思い出してしまっていた。もう二度度、思い出すまいとしていたことなのに、たった一つの手紙のせいで、鮮明に蘇ってしまう。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いようですけど」
「だ、大丈夫です。ご心配おかけして申し訳ありません」
私は目の前の岡本という客に、深々と頭を下げた。頭を下げることで、自分の呼吸を整えようとしたのだ。
私はもう、ポッケの中にしまったこの手紙を、二度と開かない。
いや、開きたくない。
「いえいえ! 僕のほうこそ、突然押しかけてしまってすみません。それに、あの手紙も一方的に渡してしまって」
「いいんです、もう」
「ははぁ。とにかく、杉崎からまた何か連絡があれば、僕が伝えますけど、あなたの迷惑になるようなことはしないようにやんわり諭しておきます」
「ありがとう、ございます……」
杉崎が悪いわけでも、まして岡本が悪いわけでもないのに申し訳ないと思いながら、私は彼の気遣いに感謝した。
ガララッ
私が再び岡本に頭を下げたのと、京都和み堂書店の木製扉が勢いよく開いたのは、ほぼ同時だった。
「だからもうっ、嫌なんだって!」
鋭い怒声を上げながら入って来たのは四十代ぐらいの女性、そして。
「待ってくれよ! 俺はなにも、君に嫌な思いをさせたいわけじゃないんだ」
と必死に女性の気をなだめようとする同年代の男性だった。
どちらの声も静かでゆったりとした音楽と、お客さんの小さな話し声しか聞こえない京都和み堂の店の中では異様なほどに響いて聞こえる。
「分かってるわよ! その上でほっといて欲しいって言ってるの!」
「いまの君をほっとけるわけないだろう!」
別れ話? 痴話喧嘩? としか受け取りようのない会話に、レジカウンターの前にいる岡本も、ぎょっと身をそらして彼らを凝視していた。
「ついてこないで! 私はね、一人になりたいの!」
「そう言ったって、同じ家に住んでるんだし仕方ないじゃないか」
「うっさいわね!」
さすがにこれは。
さすがに、マズい。
どんな事情があるか知らないが、二階の席には何組かお客さんもいる。
落ち着きのある空間を提供している京都和み堂書店としては、こんなふうに店内で騒がれては困るのだ。
見れば、私の方に向き直った岡本も、「やれやれ」というように困った表情を浮かべている。
これは仕方ないと思い、私は恐る恐るお客さんの元へ歩み寄り、
「あの……、申し訳ございませんが、店内で大きな声を出すのは……」
「お控え願えませんか」と、言いたかった。
でもその前に女性が男性に向けて放った一言が、私の次の言葉を遮ってしまった。
「あなたが何をしたって、あの子はもう、戻って来ないのよっ……! 死んじゃったんだものっ」
ガツンと、何か重たいもので頭を殴られたかと思うぐらい、その言葉が私の一切の行動を遮った。
私だけじゃない。
カウンター前で事の成り行きを見守っていた岡本も、女性をなだめていた男性さえも、一体次にどんな言葉を投げかけたら良いのか分からないというふうに、硬直していた。
静寂に包まれる店内。二階にいるはずの客も、一階で何かあったのだと察したのか、物音一つ聞こえない。店内を流れるBGMだけが、私の耳に嫌というほど響いた。
不幸なことに、いつもはいるはずの社員スタッフの詩乃さんとアキさんも、今は休憩時間で席を外していた。だから、この場にいる店員は、私一人だけだ。
それなのに、分からない。
動けない。
早く、早く、一言を。
誰か、息をして。何かを発して。なんてもいい、「トイレに行きたい」でもいいから。
そう願いながら、私はこの先の打開策を考え続けるのだった。
「……」
「菜花さん」
不意に岡本の声がして、私ははっと我に返る。
「あ……す、すみません。ぼうっとしてて……」
杉崎審査委員の手紙を読んだせいで、四年前の出来事を思い出してしまっていた。もう二度度、思い出すまいとしていたことなのに、たった一つの手紙のせいで、鮮明に蘇ってしまう。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いようですけど」
「だ、大丈夫です。ご心配おかけして申し訳ありません」
私は目の前の岡本という客に、深々と頭を下げた。頭を下げることで、自分の呼吸を整えようとしたのだ。
私はもう、ポッケの中にしまったこの手紙を、二度と開かない。
いや、開きたくない。
「いえいえ! 僕のほうこそ、突然押しかけてしまってすみません。それに、あの手紙も一方的に渡してしまって」
「いいんです、もう」
「ははぁ。とにかく、杉崎からまた何か連絡があれば、僕が伝えますけど、あなたの迷惑になるようなことはしないようにやんわり諭しておきます」
「ありがとう、ございます……」
杉崎が悪いわけでも、まして岡本が悪いわけでもないのに申し訳ないと思いながら、私は彼の気遣いに感謝した。
ガララッ
私が再び岡本に頭を下げたのと、京都和み堂書店の木製扉が勢いよく開いたのは、ほぼ同時だった。
「だからもうっ、嫌なんだって!」
鋭い怒声を上げながら入って来たのは四十代ぐらいの女性、そして。
「待ってくれよ! 俺はなにも、君に嫌な思いをさせたいわけじゃないんだ」
と必死に女性の気をなだめようとする同年代の男性だった。
どちらの声も静かでゆったりとした音楽と、お客さんの小さな話し声しか聞こえない京都和み堂の店の中では異様なほどに響いて聞こえる。
「分かってるわよ! その上でほっといて欲しいって言ってるの!」
「いまの君をほっとけるわけないだろう!」
別れ話? 痴話喧嘩? としか受け取りようのない会話に、レジカウンターの前にいる岡本も、ぎょっと身をそらして彼らを凝視していた。
「ついてこないで! 私はね、一人になりたいの!」
「そう言ったって、同じ家に住んでるんだし仕方ないじゃないか」
「うっさいわね!」
さすがにこれは。
さすがに、マズい。
どんな事情があるか知らないが、二階の席には何組かお客さんもいる。
落ち着きのある空間を提供している京都和み堂書店としては、こんなふうに店内で騒がれては困るのだ。
見れば、私の方に向き直った岡本も、「やれやれ」というように困った表情を浮かべている。
これは仕方ないと思い、私は恐る恐るお客さんの元へ歩み寄り、
「あの……、申し訳ございませんが、店内で大きな声を出すのは……」
「お控え願えませんか」と、言いたかった。
でもその前に女性が男性に向けて放った一言が、私の次の言葉を遮ってしまった。
「あなたが何をしたって、あの子はもう、戻って来ないのよっ……! 死んじゃったんだものっ」
ガツンと、何か重たいもので頭を殴られたかと思うぐらい、その言葉が私の一切の行動を遮った。
私だけじゃない。
カウンター前で事の成り行きを見守っていた岡本も、女性をなだめていた男性さえも、一体次にどんな言葉を投げかけたら良いのか分からないというふうに、硬直していた。
静寂に包まれる店内。二階にいるはずの客も、一階で何かあったのだと察したのか、物音一つ聞こえない。店内を流れるBGMだけが、私の耳に嫌というほど響いた。
不幸なことに、いつもはいるはずの社員スタッフの詩乃さんとアキさんも、今は休憩時間で席を外していた。だから、この場にいる店員は、私一人だけだ。
それなのに、分からない。
動けない。
早く、早く、一言を。
誰か、息をして。何かを発して。なんてもいい、「トイレに行きたい」でもいいから。
そう願いながら、私はこの先の打開策を考え続けるのだった。
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