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葉方萌生

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第四話 人と上手く接することができないあなたへ 

心から変わりたいから

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「あら」

 レジカウンターには、先ほど私がシフトを上がってから店番をしていた詩乃さんがいて、私たち二人の顔を見るとゆっくり微笑んだ。

「ただいま戻りました」

「おかえり~」

 ただいまと、おかえりと。
 たったこれだけの会話だったけれど、沙子を連れ戻すことができた私に、詩乃さんが「良かったね」と心の中で語りかけてくれるのが分かった。
 思わず私も、「はい」と胸の奥で返事をした。詩乃さんのおかげです。女将のおかげで、私は宮脇沙子という女の子に、自分の過ちを許してもらうことができたのだと、もう一度彼女に感謝して。
 それから沙子は、「こっち?」と階段の方を指さして私にそう聞いた。

「はい、そちらからお上りください」

 私がそう指示すると、彼女はどことなく軽快な足取りで、タンタンと木製の階段を踏み鳴らし、二階に上がった。
 そして沙子は二階のカウンター席に座る。

「これ、読み終わるまでどうぞ」

 私は彼女に、オリジナルブレンドコーヒーを差し出した。高校生でブラックは飲めないかもしれないと思い、ミルクと砂糖を添えて。

「ありがとう」

 コーヒーと、それからミルクも砂糖も受け取った彼女は、早速『かがみの孤城』の表紙を開いて読み始めた。
 私は彼女が座っているカウンター席の後ろにあるソファに腰掛けて、彼女と同じオリジナルブレンドを啜りながら、沙子が小説を読み終えるのを待った。ただ待つだけの時間なのに、店内を流れる心地よいBGMを聞いてコーヒーを飲んでいるだけで、心が安らいだし、全然退屈だとも思わなかった。
 そこからおよそ三時間。
 ぱたん、と音がして振り返った私は、沙子が閉じた表紙の上に右手をそっと添えているのを見た。

「終わった」

 大切な誰かからの手紙を読んだ後みたいに、充足感に満ちた声色だった。
 沙子は、読了した『かがみの孤城』を大事そうに胸に抱えて、私のいるソファまで歩み寄り、たった一言、こう言ったのだ。

「闘わなくていい。あたし、もう、闘わなくていいんだ」

 他の誰でもない自分に言い聞かせるような言葉なのに、瞳だけは私の方をじっと見据えている。

「はい。もう、闘わなくて、いいんです」

 学校で友達との関係が上手くいかなくて引きこもりになってしまった中学生の女の子、こころ。
 そんな彼女はある日、部屋にある鏡の中に吸い込まれ、城があり、自由に過ごすことができる世界にたどり着く。
 そこにいたのは、自分と同じくらいの歳の七人の子どもたち。
 共通していたのは、みんなそれぞれの現実で、学校に行けずに生きづらさを抱えていたということ。

「沙子さんみたいに、ちょっとでも生きづらいなって感じてる人は、たくさんいると思うんです」

 鏡の世界には、どこかに宝物が眠っている。
 それを見つけることが七人のミッションなのだが、鏡の世界での交流を通して、子どもたちは時にぶつかり合い、時に励まし合って過ごしてゆく。しかし、そんな子どもたち一人一人の現実には、大人でも解決できないような苦しい出来事がいっぱいあって。
 その一つ一つのエピソードに触れた時、読者である私たちも、胸をぎゅっと掴まれたように苦しくなることがある。
 それは、誰もが身に覚えのある出来事だから。
 学校でいじめられたという経験こそないにしても、久しぶりに行った大学のサークルで、みんなの会話の輪の中に入れなかったり。
 体育の授業で二人組になってと言われて、自分のバディが見つからなかったり。
 異国の地に一人で放浪しに行って、言葉が通じなくて孤独に陥ったり。
 そんな、誰しも感じ得る孤独感や寂しさがいっぱいに詰まったお話。
 それだけでなく、登場人物たちの思わぬ関係が分かるラストには、感動せずにはいられない。
 だからこそ、この物語を読んで欲しかったのだ。
 きっと沙子ならばとても共感してくれるに違いないと思った。
 それに。

「沙子さん」

「なに?」

「楽しかった、ですか? 『かがみの孤城』、私も女将も大好きなお話なんです。だから、ぜひ読んで欲しくて。だから、楽しんでくれたら嬉しいなって……」

 彼女にそう聞いた時、本当は心臓がドキドキして止まらなかった。
「面白くなかった」って言われたらどうしようって思った。

「楽しかった! あたし、一冊の本を三時間で読み終わったことないもん」

 年相応の明るい朗らかな声で彼女がそう言うのを聞いて、私は心からほっとした。
 彼女にこの本を渡せて良かったと思う。
 それから、私にこの本を思い出させてくれた詩乃さんに、ありがとうと思う。

「あたし、今から美容室、行ってきます!」

「え?」

 突然彼女が「美容室」なんて言い出すものだから、私は驚く。

「だってあたし、こんな髪じゃなくて、本当は普通の黒髪がいいもん。そっちの方が、自分らしくて好き」

 この時私は初めて、宮脇沙子という人物のことが分かった気がした。
 素朴で素直。
 だからこそ嘘がつけなくて、人間関係で手こずってしまったのだろう。
 けれど、そんな彼女を、私はもっと見たいと思う。

「そっか。あ、でも美容室はもう閉まってると思うから、明日にしてくださいね」

「分かった! 明日、あたし、自分になるよ。変わってくる、心から」

 心から変わりたいって思う?
 私のお節介を、彼女は心で受け止めてくれていた。
 それが嬉しくて。

「ありがとう、本当に」

 私の「ありがとう」に、沙子は首を傾げて不思議そうな顔をしていたのだけれど。
 私は彼女に、私の大好きな物語を受け取ってくれたことを、心から感謝している。



 人と上手く接することができないあなたへ。
 辻村深月著『かがみの孤城』はいかがでしょう?



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