小説で読む教科書古典

加藤やま

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稚児のそら寝

稚児のそら寝 序文③

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 夜通し脱走を試みた次の日でもお勤めは変わらず続く。
「一つのことにしか集中できない者は三流である。普段やるべきことはいつも通りこなしてこそ、別のことに挑戦する資格があるのだ」
 いつぞやお勤めの途中で稚児が居眠りしてしまった時があった。その時に例の僧に嗜められた言葉だ。稚児にはぐうの音も出せなかった。言われてみると、僧の方はいつだって変わらずに完璧にお勤めをこなしていた。夜通し脱走を阻んだ後でもだ。
 これじゃ逃げ出せたとしても負けたままな気がする、そう考えて稚児もお勤めには全力で取り組んだ。誰よりも早く起きて準備を始めた。掃除も隅から隅まで入念に行った。修行の中身も誰よりも心を込めた。その結果、知らず知らずのうちに礼儀作法と健康的な生活を身に付けていた。生来の負けん気の強さが好面に働いたのだった。稚児自身もひそかに充実感を感じていた。これまでの人生にはない感覚だった。しかし、その感覚に身を任せるのは、彼の小さな自尊心が許さなかった。逃げ出したい程嫌だと思い込んでいたものを早々に受け入れることはできなかった。
 そんな中でも、もはや癖であるかのように脱走は続けていた。お勤めの最中に景色を眺める時も、逃げ出すには良い足場だとか、登っていけそうな高さだとかを無意識に覚えるようになっていた。そして、それを日を置かずに実践で使ってみるのだが、悉く例の僧に潰されてしまうのだった。
 しかし、この脱走癖は存外なところで役に立っていた。稚児が逃げようとする箇所は、整備が必要だが人目につかずに放置されているものが多かった。そのため、脱走騒ぎの後に舗装されることで寺の維持管理に一役買っていたのだ。これが、図らずも稚児の評判を上げる手助けとなっていたのだった。お勤めへの真摯な姿勢と環境整備への貢献が相まって、今となっては稚児を認めない僧を見つける方が難しくなっていた。
 当の稚児本人はそういった評判を聞く機会が全然なかった。持ち前の小さな自尊心のおかげで、僧達と打ち解けあおうと歩み寄ることがなかったからだ。ただ、時折話しかけられる態度や自分を見る目が好意的に変化していたのは気づいていた。だが、これも小さな自尊心のおかげで、喜びを感じようとする心を無理に抑えて日々を過ごしていた。
 好意的な変化を見せる僧が増えていく中で、例の世話役の僧は当初から態度を一切変えなかった。お勤めの助言は事務的な内容を帳面通り伝えるだけであったし、脱走は阻止するがそれを止めようとする素振りは一切見せない。いっそ脱走を企てた時の方が嬉しそうでさえあった。ただ、内心では稚児の変化や周りの僧たちの見る目の変化を喜ばないはずがなかった。
 ここで種明かしをすると、脱走の阻止にはもちろん仲間の僧の協力があった。同宿の僧や特に稚児に親しくする僧は世話役の間者であった。稚児は脱走を全て先読みする世話役の僧のことを神仏の類ではないかと考え始めていたが、そんなはずはなかった。実際、仲間と協力していても裏をかかれそうになることは段々と増えてきていた。そこに稚児の工夫や成長を感じられることが世話役の僧の楽しみであった。
 しかし、先の稚児の変化への喜びと同様に、この楽しみもおくびにも表面に出さなかった。僧は、稚児にとって越えられない壁であり続けることに徹していた。それが僧なりの稚児への愛情表現であった。
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