5 / 9
side-A 3 覚悟
しおりを挟む
俺は長い廊下に一人で立っていた。周囲の景色は色が希薄で、ぼんやりとしていたが、ここが学校であることは分かった。木の廊下はハリボテで、若いかさぶたの下にできた皮膚のように柔らかく、床下から液体が染み出ている。廊下の先を見ると、暗闇がぽっかりと口を開けていて、全神経がその闇に引き寄せられてしまう。
あの暗闇が俺の目指すべき場所だと悟った瞬間、背後からガラスが粉々に砕けてしまうほどの絶叫が轟いだ。俺にはそれが何か恐ろしい化け物の咆哮に聞こえて、とっさの判断で前方に走りだした。俺が駆け出すと同時に、化け物がこちらの存在に気づき、猛進してくるのが気配で分かった。
全速力で進んでいるつもりだったが、床板がたわんでいるせいで踏ん張りが効かず、上手く走ることができない。さらに机や椅子やロッカーが急に目の前にせり出てきて、避けようとするたびに足がもつれ、スピードが落ちてしまう。化け物が地を蹴りあげてこちらに向かってくる息遣いが、俺の呼吸音と呼応して大きくなり、焦燥感がさらに足取りを鈍らせた。
どんなに走り続けても、前方にある暗闇は近づいて来なかった。それどころか、闇はどんどん自分から遠ざかっていくように思えた。化け物の唸り声が背後まで近づき、気圧された俺は机に足がぶつかり、バランスを崩して転倒した。床に手をついて身体を起こし、後ろを振り返ろうとした瞬間、俺は悲鳴を上げながら目を覚ました。
寝室が闇で染められていたせいで、俺はまだ自分が夢の中にいるように感じ、緊張の面持ちであたりを見回した。部屋はマリアナ海溝の底のように静かで、自分の荒い息遣いだけが聞こえる。窓から差し込む淡い月光が、ここが魔王城であることを知らせていた。
落ち着きを取り戻してくると、それと反比例するように、先ほど見た夢の内容が記憶の器からこぼれ落ちていった。何だか懐かしい場所にいたような気がした。そして何者かに追いかけられていた気がするが、夢の内容はすっかり思い出せなくなっていた。ただし、夢の中で味わった恐怖感だけは、呪いのように皮膚に張り付いていた。
口腔内が粘つき、不快だった。隣室で寝ている黒猫を起こさないように、俺は息を潜めて厨房に向かった。静かにドアを開け、回廊を歩いていると、何やら違和感を覚えた。回廊の先の方で、月光に照らされている大きな土嚢があったのだ。なんであんなところに土嚢があるのだろう。誰かが城内で使うために運び出して、置き忘れていったのだろうか。歩を進めてよく見てみると、その土嚢には顔が付いていた。
部下のバエルが、全身を真っ二つにされて息絶えていた。
苦悶の仮面を被ったまま、バエルは上半身を壁にもたれさせていた。雑巾をきつく絞るように腰が捻れて、腰椎が断ち切られており、断面からは血管や神経の束がだらりと垂れている。絨毯にはどす黒い血が広がり、抜け落ちたバエルの羽がその上に積もっていた。上体から少し離れたところに下半身があり、つま先を階段に向けたまま倒れている。
「どうしたことだ、これは……」
誰かに聞こえてしまうのではないかと思うほど、自分の心臓の鼓動音がうるさかった。悪寒のような嫌な気配が足元から這い上がってくる。俺は配置している警備兵の無事を確認するために急いで階段を降り、城の中を見回った。だが、残念なことに、全ての部下が無残な亡骸を晒していた。
手足を切断されて絶命している者や、顔の肉をえぐり取られた者、身体を押しつぶされて死んでいる者もいた。グロテスクな光景を見ても、俺の頭は冷静な思考力を失ってはいなかった。こんなことをする人物は、一人しか考えられない。
勇者だ、と俺は部下の死骸を見ながら確信した。俺の寝ている隙を狙って、勇者が城に入り込んだのだ。そして部下たちを打ち倒し、経験値を得て、俺の寝室の階層にいた悪魔すら撃破してしまった。今この城に勇者の気配がないのは、おそらく体力を回復するために一旦エンデの街へ戻っているのだろう。万全の状態で俺との対決に挑もうというわけだ。
俺の中で沸々と怒りが湧いてくる。部下を惨殺されたことに対する怒りではない。ベッドの上で呑気に眠ったまま、部下たちをみすみす殺させてしまった、己に対する憎悪だ。もしかして、俺が夢の中で追いかけられていたのは、勇者なんぞいつ来ても大丈夫だろうという、自分の中の甘えた心だったのではないだろうか?
喉の奥を潰すようにして、俺は忍び笑いを漏らした。自分の影に追われる夢を見て飛び起きるなんて、そんな滑稽な話があるだろうか。まるで自らのしっぽを捕まえようとして、地べたをぐるぐると周る犬みたいではないか。俺はこの世界で魔王になり、何者も寄せ付けない強大な力を得たが、心の中にはまだ人間としての脆弱さがあった。誰かを殺めるようなことはしたくないし、出来ることなら穏便に事が運べば良いと思っていた。だが、部下を殺された今の俺に、そんな甘えた心は必要ない。
俺は厨房に入り、瓶の蓋を開けて水を一杯飲んだ。身体の全てがクリーンな状態になり、落ち着きを取り戻した。しかし、心の奥底では勇者を倒したいという闘志が静かに燃えていた。勇者と対峙した瞬間、固い意志はより激しく燃え盛り、俺の中にある人間の心を真っ黒な灰にしてしまうだろう。
「いよいよ、か……」
厨房を出ると、黒猫の寝ている部屋のドアをわずかに開けて、中を覗きこんだ。黒猫は寝息を立てていて、暗闇の中でも彼女の肌は陽光を受けて育つ夏野菜のように張りがあった。俺は彼女を起こさないように近づき、頬にそっと口づけをした。黒猫はわずかに身動ぎしたが、気持ちよさそうに眠っている。
俺は玉座の間に行き、豪奢な椅子に座った。魔王になったときから、既に覚悟はできていたつもりだ。もしも俺が人間の心を失い、完全な魔王になってしまっても、黒猫は側に居てくれるだろうか。それとも、かぶりを振って拒絶するだろうか。どちらにしても、彼女が生き続けてくれるのなら、俺はこの生命を失うことさえ惜しくはないのだ。
窓の外に見える赤い満月は、一片の過不足もない円形を描いて輝いていた。その光はまるで勇者との対決を祝福しているようだと思い、俺は唇を歪めて笑った。
あの暗闇が俺の目指すべき場所だと悟った瞬間、背後からガラスが粉々に砕けてしまうほどの絶叫が轟いだ。俺にはそれが何か恐ろしい化け物の咆哮に聞こえて、とっさの判断で前方に走りだした。俺が駆け出すと同時に、化け物がこちらの存在に気づき、猛進してくるのが気配で分かった。
全速力で進んでいるつもりだったが、床板がたわんでいるせいで踏ん張りが効かず、上手く走ることができない。さらに机や椅子やロッカーが急に目の前にせり出てきて、避けようとするたびに足がもつれ、スピードが落ちてしまう。化け物が地を蹴りあげてこちらに向かってくる息遣いが、俺の呼吸音と呼応して大きくなり、焦燥感がさらに足取りを鈍らせた。
どんなに走り続けても、前方にある暗闇は近づいて来なかった。それどころか、闇はどんどん自分から遠ざかっていくように思えた。化け物の唸り声が背後まで近づき、気圧された俺は机に足がぶつかり、バランスを崩して転倒した。床に手をついて身体を起こし、後ろを振り返ろうとした瞬間、俺は悲鳴を上げながら目を覚ました。
寝室が闇で染められていたせいで、俺はまだ自分が夢の中にいるように感じ、緊張の面持ちであたりを見回した。部屋はマリアナ海溝の底のように静かで、自分の荒い息遣いだけが聞こえる。窓から差し込む淡い月光が、ここが魔王城であることを知らせていた。
落ち着きを取り戻してくると、それと反比例するように、先ほど見た夢の内容が記憶の器からこぼれ落ちていった。何だか懐かしい場所にいたような気がした。そして何者かに追いかけられていた気がするが、夢の内容はすっかり思い出せなくなっていた。ただし、夢の中で味わった恐怖感だけは、呪いのように皮膚に張り付いていた。
口腔内が粘つき、不快だった。隣室で寝ている黒猫を起こさないように、俺は息を潜めて厨房に向かった。静かにドアを開け、回廊を歩いていると、何やら違和感を覚えた。回廊の先の方で、月光に照らされている大きな土嚢があったのだ。なんであんなところに土嚢があるのだろう。誰かが城内で使うために運び出して、置き忘れていったのだろうか。歩を進めてよく見てみると、その土嚢には顔が付いていた。
部下のバエルが、全身を真っ二つにされて息絶えていた。
苦悶の仮面を被ったまま、バエルは上半身を壁にもたれさせていた。雑巾をきつく絞るように腰が捻れて、腰椎が断ち切られており、断面からは血管や神経の束がだらりと垂れている。絨毯にはどす黒い血が広がり、抜け落ちたバエルの羽がその上に積もっていた。上体から少し離れたところに下半身があり、つま先を階段に向けたまま倒れている。
「どうしたことだ、これは……」
誰かに聞こえてしまうのではないかと思うほど、自分の心臓の鼓動音がうるさかった。悪寒のような嫌な気配が足元から這い上がってくる。俺は配置している警備兵の無事を確認するために急いで階段を降り、城の中を見回った。だが、残念なことに、全ての部下が無残な亡骸を晒していた。
手足を切断されて絶命している者や、顔の肉をえぐり取られた者、身体を押しつぶされて死んでいる者もいた。グロテスクな光景を見ても、俺の頭は冷静な思考力を失ってはいなかった。こんなことをする人物は、一人しか考えられない。
勇者だ、と俺は部下の死骸を見ながら確信した。俺の寝ている隙を狙って、勇者が城に入り込んだのだ。そして部下たちを打ち倒し、経験値を得て、俺の寝室の階層にいた悪魔すら撃破してしまった。今この城に勇者の気配がないのは、おそらく体力を回復するために一旦エンデの街へ戻っているのだろう。万全の状態で俺との対決に挑もうというわけだ。
俺の中で沸々と怒りが湧いてくる。部下を惨殺されたことに対する怒りではない。ベッドの上で呑気に眠ったまま、部下たちをみすみす殺させてしまった、己に対する憎悪だ。もしかして、俺が夢の中で追いかけられていたのは、勇者なんぞいつ来ても大丈夫だろうという、自分の中の甘えた心だったのではないだろうか?
喉の奥を潰すようにして、俺は忍び笑いを漏らした。自分の影に追われる夢を見て飛び起きるなんて、そんな滑稽な話があるだろうか。まるで自らのしっぽを捕まえようとして、地べたをぐるぐると周る犬みたいではないか。俺はこの世界で魔王になり、何者も寄せ付けない強大な力を得たが、心の中にはまだ人間としての脆弱さがあった。誰かを殺めるようなことはしたくないし、出来ることなら穏便に事が運べば良いと思っていた。だが、部下を殺された今の俺に、そんな甘えた心は必要ない。
俺は厨房に入り、瓶の蓋を開けて水を一杯飲んだ。身体の全てがクリーンな状態になり、落ち着きを取り戻した。しかし、心の奥底では勇者を倒したいという闘志が静かに燃えていた。勇者と対峙した瞬間、固い意志はより激しく燃え盛り、俺の中にある人間の心を真っ黒な灰にしてしまうだろう。
「いよいよ、か……」
厨房を出ると、黒猫の寝ている部屋のドアをわずかに開けて、中を覗きこんだ。黒猫は寝息を立てていて、暗闇の中でも彼女の肌は陽光を受けて育つ夏野菜のように張りがあった。俺は彼女を起こさないように近づき、頬にそっと口づけをした。黒猫はわずかに身動ぎしたが、気持ちよさそうに眠っている。
俺は玉座の間に行き、豪奢な椅子に座った。魔王になったときから、既に覚悟はできていたつもりだ。もしも俺が人間の心を失い、完全な魔王になってしまっても、黒猫は側に居てくれるだろうか。それとも、かぶりを振って拒絶するだろうか。どちらにしても、彼女が生き続けてくれるのなら、俺はこの生命を失うことさえ惜しくはないのだ。
窓の外に見える赤い満月は、一片の過不足もない円形を描いて輝いていた。その光はまるで勇者との対決を祝福しているようだと思い、俺は唇を歪めて笑った。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした
結城芙由奈@2/28コミカライズ発売
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。
セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……
30代社畜の私が1ヶ月後に異世界転生するらしい。
ひさまま
ファンタジー
前世で搾取されまくりだった私。
魂の休養のため、地球に転生したが、地球でも今世も搾取されまくりのため魂の消滅の危機らしい。
とある理由から元の世界に戻るように言われ、マジックバックを自称神様から頂いたよ。
これで地球で買ったものを持ち込めるとのこと。やっぱり夢ではないらしい。
取り敢えず、明日は退職届けを出そう。
目指せ、快適異世界生活。
ぽちぽち更新します。
作者、うっかりなのでこれも買わないと!というのがあれば教えて下さい。
脳内の空想を、つらつら書いているのでお目汚しな際はごめんなさい。

新人聖騎士、新米聖女と救済の旅に出る~聖女の正体が魔王だなんて聞いてない~
福留しゅん
ファンタジー
「実は余は魔王なのです」「はい?」「さあ我が騎士、共に救済の旅に出ましょう!」「今何つった?」
聖パラティヌス教国、未来の聖女と聖女を守る聖騎士を育成する施設、学院を卒業した新人聖騎士ニッコロは、新米聖女ミカエラに共に救済の旅に行こうと誘われる。その過程でかつて人類に絶望を与えた古の魔王に関わる聖地を巡礼しようとも提案された。
しかし、ミカエラは自分が魔王であることを打ち明ける。魔王である彼女が聖女となった目的は? 聖地を巡礼するのはどうしてか? 古の魔王はどのような在り方だったか? そして、聖地で彼らを待ち受ける出会いとは?
普通の聖騎士と聖女魔王の旅が今始まる――。
「さあ我が騎士、もっと余を褒めるのです!」「はいはい凄い凄い」「むー、せめて頭を撫でてください!」
※小説家になろう様にて先行公開中
あなたは異世界に行ったら何をします?~良いことしてポイント稼いで気ままに生きていこう~
深楽朱夜
ファンタジー
13人の神がいる異世界《アタラクシア》にこの世界を治癒する為の魔術、異界人召喚によって呼ばれた主人公
じゃ、この世界を治せばいいの?そうじゃない、この魔法そのものが治療なので後は好きに生きていって下さい
…この世界でも生きていける術は用意している
責任はとります、《アタラクシア》に来てくれてありがとう
という訳で異世界暮らし始めちゃいます?
※誤字 脱字 矛盾 作者承知の上です 寛容な心で読んで頂けると幸いです
※表紙イラストはAIイラスト自動作成で作っています
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる