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プロローグ ローズマリーは愛されない

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「…何よ、この紅茶は!お母さまに泥水を飲まそうっての?なんて憎たらしい娘!このっ!」



いつも笑顔でいるように。
誰の気分も害さないように。


ぱしゃり。


熱湯を頭から浴びたローズはそれでも笑顔を絶やさなかった。

ローズの柔い白い肌は熱い紅茶を浴びたせいで、まだらに赤くなってしまった。


それでも、にこにことローズはお母様のほうを見ると、自分のドレスの裾を雑巾代わりにして、床にこぼれたまだ熱い紅茶を拭き始める。


伯爵の娘にしては粗末なドレスが紅茶を吸って重く湿る。


「なんて汚らしい娘!気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!」


お母様は逆上し、ローズにティーカップを投げつけた。
それは見事にローズの額に命中すると、ローズの額がパカリと切れて、赤い血が流れた。

つぅーっと一筋の血は額から鼻を伝って、口まで流れる。


それでもローズは、カサカサの唇をゆがめて笑った。絶えない笑顔だった。


お母様は、もうローズの顔も見たくないとでもいうように腰かけていた椅子から音を立てて立ち上がり、部屋を出ていく。


途中メイドが通りかかったが、こちらを一瞥だけして、通り過ぎた。


お父様とお母様の命令だ。
邸宅に雇われている使用人は全員ローズをないものとして扱う。


それでも残飯で生かされるのはなぜなのか?邸宅から追い出されないのはなぜなのか?


ローズにはよくわからなかった。


ただずっと前、気が遠くなるほど昔に、
お母様が絹のベッドでローズを抱きしめながら、笑顔がかわいい天使のようだと言ってくれた。


それが本当にローズの記憶なのか、それともローズが作り出したただの幻想なのかわからない。


今夜もその美しい思い出を抱いて、馬小屋の藁の中で眠るのだ。





※※※




「ローズ、ローズ」


馬小屋の扉の向こう、月が煌々と辺りを照らある夜のこと。


ローズは自分の名前を呼ぶ声で目が覚めた。

とうに自分の名など忘れてしまうほど、名前を呼ばれることなどなかったはずなのに。


こんな夜に誰なんだろう。


ローズは藁を押しのけて体を起こす。


朝の暗いうちから井戸の水くみをして、掃除もしているローズにとっては、夜の暗闇も慣れっこだった。


「ローズ、ローズ」


声は大きくなる。


ローズはとぼとぼと暗い暗い夜の道を歩いていく。




ここで少しグレイス伯爵家について話しておこう。



グレイス伯爵家は辺境の地を治める悪名高い地方領主だ。


敵対する諸侯にも容赦がなく、さらに領地では悪政が敷かれていた。

民はのしかかる税に苦しみ、払えない者には厳しい処罰が下される。

さらにはほかの貴族を押しのけ、王族に取り入り、今の地位を手に入れた。

グレイス伯爵家により、没落したもの、爵位を取り上げられたもの、さらにそれを苦にして自ら死を選んだものは数知れず。


多くのものの恨みつらみの屍の上に彼らは生きていた。


山脈が連なる美しい土地を支配するこの恐ろしい一族の一人娘。


そう、グレイス伯爵家長女ローズマリー。


彼女こそ、ローズだった。




「ローズ、ローズ…」


男性とも女性とも聞こえるような優し気な声は森の奥から聴こえてくる。


でもいくら夜の闇に慣れているローズでも森は怖かった。

家の絵本をいくつか読んだことがある。
そこには大きくて牙がある、怖い獣や、怪物の住処がある。


ローズなど一飲みで食べてしまうのだ。


ちょっとローズは森の手前で立ち止まる。


そうして自分のもと来た道を振り返った。
そこにはローズのお父様とお母様がいる大きなお屋敷が見えた。





「なんでいつもにやにやしているんだ?腹が立つ!俺の前に顔を出すな!」


数日前、お父様の部屋の前をうっかり横切ってしまったときに、ちょうどお父様と鉢合わせしたローズ。
その折、男の人の重たい拳で殴られてしまった。
しばらくぐわんぐわんと頭が回って動けなかった。

ちゃんと笑えていただろうか。
自分の顔は自分では見えないからよくわからない。



よくわからない。


わからないと、思っていたかった。


ローズはもう、わからないと思っていられる年齢ではいられなくなってしまった。


もう12歳なのだ。

そろそろどれほど自分が両親から疎まれ、憎まれ、そしてひどい扱いを受けているかもわかってしまう。


ローズは笑った。


カサカサの唇がぱきりと音を立ててひび割れた。

水仕事でしもやけ、あかぎれだらけのぼろぼろの手をこする。


もういいか。


ローズは何がもういいのか、自分でもよくわからない。

でも一歩しっかりと、深い闇が覆う森へ足を踏み入れた。




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