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帰りはいつも始発だ。
白んだ空が私にお休みを告げる。見慣れたはずの空の色も眩しくて目を細める。私にとっては今が夜だ。私が眠るとき、世界は目覚める。ひとりだけ取り残されてしまったみたい。
ホームのチャイムが鳴る。数人の男女が到着した電車に乗り込んだ。誰もが皆、なんだか疲れた顔をしている。この中の何人が幸せなのだろうか。不毛な疑問をかき消すように瞼を閉じた。眠くなんてならない。
長いこと伸ばしたままになっている髪の毛をいじる。すっかり色が抜けて茶色くなってしまった。この前染めたときは流行りのピンクブラウンなんかにして、周りの女の子には可愛らしいと評判だった。一体どれだけの言葉が本心だったのだろうか。そこに感情がなくても「可愛い」とはやし立てることは彼女の得意技だ。誰も私のことなど本気で可愛いと言わない。誰の言葉も信じていない。「可愛い」の数だけ「似合っていない」と言われた気にさえなっていた。指先で輪を描くと、毛先が割れているのに気がついた。髪の毛が綺麗なのが自慢だったんだけれどな。せめてもの武器がこんなじゃ、何のために生きているのかわからない。絶望にも似た溜息が零れた。陰気な女だ。
蛍光灯が毛先を透かす。枝分かれした先をつまんでゆっくり手前に引いた。細い髪がふたつに割れる。途中でぷつりと切れた。支えのなくなった右手の先を伝う線にはもう興味を無くして、手を離した。
窓の外はもう明るい。眠らない街。そんなものは比喩だけで充分だ。窓の外で煌めくネオンが消えていく。交代の合図だ。健全な街へと姿を変えていく。どちらがこの街の本当の姿なのだろう。どちらも本当で、どちらも違う。それでも見慣れた不健全な夜が私にとっては真実だ。
この街はどこまでも明るくて、どこまでも汚い。外から眺めているだけではわからなかった。だから、私もその光に憧れた。街灯に群がる虫けらと何も変わらない。光に近づくほど危険な火遊びが待っている。一歩間違えれば待っているのは「死」かもしれない。それでも私はもうここでしか生きる術を知らない。
携帯電話が小さく振動する。
SNSアプリの通知が液晶に浮かんだ。「ダイチ」からのメッセージだった。見なければよかったと後悔した。好きだったはずの男。好きで居続けたかった男。嫌いになりきれない男。
『明日、会える?』
通知と共に表示された言葉に思わず画面を閉じる。そこに愛はない。
彼の『会いたい』アピールはセックスアピールだということを私は学んだ。身体だけで繋がって、心は私に向かない。本当の意味での繋がりを、持つことはできない。虚しい行為だ。彼を愛していた私は、触れることができるならなんだっていいと彼の申し出に応えた。触れる度に膨らむのは愛情ではなく虚しさだけ。彼にとって私は都合のいい女であることに気がつきながらも、認めたくなかった。好きだった。どんな行為だとしても、好意は得られない。身体も心も満たされないままに関係を続けて何年だったのだろう。彼だって本当は私以外の女を抱きたいはずなのに、今日もまた、手軽な女で妥協しようとしている。
会いたくない。
仕事で見知らぬ男の接待をしているほうがずっといい。通知は私の意思に反して、ダイチからのものばかり連なっていく。
『いいよ』
これ以上考えることが面倒になって誘いに乗ってしまう。
液晶を閉じると黒い画面に自分の顔が映り込んだ。死神のような酷い顔。こんな顔で、好きだった男に抱かれようというのだから笑えてしまう。好き「だった」のか、今も彼を好きなのかさえわからない。未練がなかったら身体を重ねようと思わないだろう。きっとまだどこかで私は期待しているのだ。彼に愛されるという可能性に夢を見ている。
「……馬鹿な子」
瞼を閉じたら、何もかもなくなってしまえばいい。見ていたものが全て消え去って、私ひとりだけになってしまえばいい。そんなこと、叶わない。わかっている。終点のアナウンスが私を引き戻した。こんな目覚め、夢がない。目覚めの合図はキスにして。そんなのは御伽噺だけのお約束だ。私が生きているのは、御伽噺の世界じゃない。液晶に浮かぶ会話は私の言葉で止まっていた。
すっかり青く染まった空が憎らしくて、地面を見て歩く。歩いても歩いてもこの空から逃れることができないのだということに軽く絶望した。早く帰りたい。空の見えない建物の中に逃げ込みたい。駆け足で辿りついたマンションのエントランス。これから出勤するのであろうサラリーマンとすれ違った。通勤鞄に弁当用の小さな保冷バッグで両手が塞がっていたので、押戸になっているエントランスドアを開けてあげると、忙しない動きでお辞儀をして出て行った。合鍵かパスワード入力をしないと開かない内側の扉。先のサラリーマンが外出するタイミングで滑り込もうと思っていたが、手を差し伸べている間にすっかり閉じてしまっていた。仕方なくバッグから鍵を取り出す。
「あら、おはようございます」
鍵穴に差し込む前に自動ドアが開いた。
「おはよう、ございます」二度目の会釈。
手持無沙汰になった鍵を手の中に隠すようにして握り、愛想笑いを向ける。時代遅れのソバージュ、目元に出来たソバカス。ひと昔前のアメリカの子供みたいな風貌をしている女が微笑み返す。いつ見ても年齢不詳の彼女を横目にやっとの思いでドアの向こうへと足を踏み入れる。
踵の禿げたピンヒールを脱ぐ頃にはようやく眠気が襲ってきて、何をするわけでもなくベッドに倒れ込んだ。ベッドの上に投げ出した携帯電話の液晶が光る。携帯電話を裏返して、光を隠した。目が覚めたら確認すればいい。急ぎの連絡など私には来ない。微睡む私には思考の余地など残されていない。
ああ、そうだ。化粧を落とさないと。
メイク落としシートに手を伸ばすのと、瞼が落ちるのとどちらが先だろう。
今日は、瞼の勝ちだ。
化粧をして、可愛い服に着替える。鏡の中の私は全く可愛くない。こんなの洋服が可哀想だ。垂れ目の下の黒子なんていつできたのだろう。狙っているみたいで嫌だ。よく見たら、できものになっているだけだった。もっと嫌だ。必死になってコンシーラーで誤魔化す。傷口に悪影響だとはわかっている。その手を止めることはできなかった。結果的に厚塗りになってしまって余計に目立ってしまった。
ぽってりとした唇もセクシーと褒められたものだけれど、すっかり乾燥して荒れてしまっている。おまけにつけ慣れているはずのつけまつげが重くて瞼が上手く上がらない。これがないと人前に出られないのに。今日は右目だけうまく二重にならなかった。左の目は疲れから三重になってしまっている。どちらにしても最悪だ。
向かいの席で揺られる高校生のカップルを見ない振りをして、携帯電話に目線を落とした。SNSの通知はいまだ二桁に留まっている。その中にダイチからのものはない。会いたいと言ったのは彼のほうなのに、連絡をするのは私から。私が会いたがっているみたいだ。
『最寄りについたら連絡して』
少しして、既読の文字だけが浮かび上がる。返事はない。そのままSNSのアプリケーションを閉じる。通知は十件増えていた。
帰宅ラッシュの人込みに逆らいながら、電車を降りる。肩がぶつかって悪態を吐かれることにも慣れてしまった。人の視線をくぐり抜けながら、駅を抜け出した。誰も私のことなんて見てもいないし、興味すら抱かない。そんなことわかっているのに、視線を気にしてしまう。なんて矛盾なのだろうか。私はいつだって矛盾だらけだ。人と話すことがあまり得意なわけではない。それなのに働いているのは会話をすることが業務の八割を占めるガールズバー。自分のためではないのにお洒落をして可愛く着飾るのに、お金をかければかけるほど鏡の中の私はみすぼらしくなっていく。
『改札の前で待ってる』
バスターミナル前の信号を背にダイチは立っていた。黒のパーカーを着た彼は夜を身に纏っているようだった。街頭の灯りが彼を消してしまう。私は少し傷む足を無視してヒールを鳴らす。彼との身長を、距離を、埋めるように、私はヒールのある靴を履くのだ。彼は顔もあげずに「やっと来たか」と言った。私でなかったらどうするの。
「……お待たせ」
私の顔も見ないで歩き出す。今日の私は可愛くないから好都合だ。でも、私を認識しようとしない彼の行動に悲しくないと言ったら嘘になる。このスカート、可愛いでしょう。今日のためにお気に入りを箪笥の奥から引っ張り出してきたの。紺色に黄色の花柄。春らしいでしょ。私によく似合っているでしょ。アピールポイントを並べて飲み込んだ。ダイチは私に興味がない。今日の相手は私でなくてもいいのだ。まだ明るいはずの空は雲に覆われていて、太陽は見えない。身体を重ねることができたら、誰だっていい。いつかの本命のための練習台。彼が過去に放った言葉を思い出した。私は彼の特別じゃない。
好きなひとの特別になれない私は、誰の特別になれるのだろう。私はなんのために日々を浪費しているのだろう。会話も交わさずに先を歩く彼の背中を追いかけた。
斜め後ろから見上げた彼の左耳にピアスの数が増えていることに気がついた。以前会ったときよりもふたつ多い耳元の煌めき。彼がその数だけ女性に振られたのだということを察した。未練を刻むように彼はピアスを開ける。私は彼の未練には一生なれない。消えない傷となって、その身体に証を残すことができる、彼に愛された顔も知らない女を羨ましいと思った。恋多き彼は何度本当の恋に出会ってきたのだろうか。私との行為に恋と名前をつけないのはどうして? セックスはデートとは違うから? 「彼女」にしたこと、全部私でしているくせに。
部屋へと続く薄暗い廊下を歩く。この扉を開けたらまた、私は感情の伴わない行為に溺れる。唇が触れ合うことに気がついたときには、私はもう「私」としてその場所にいる理由を失っていた。今日は何を練習するの?
開店前の店の扉を開ければ店長が一足早く店内の清掃をしていた。簡単に挨拶を済ませて更衣室へと向かう。もうこの店の制服も年齢的に厳しい。若い女の子が日々やってきては入れ替わっていくのに、私はいつまで此処に居続けるのだろう。男の人の接待をすることがメインの仕事ではないのに、この場所をキャバクラと勘違いをしている男がこの世の中には多すぎる。普段会社で偉ぶっているハゲ親父が、ガールズバーでも偉ぶっているだなんてダサすぎて笑っちゃう。せめてキャバクラでやってくれればいいのに。対面じゃなく、隣で寄り添って猫撫で声で良い気持ちにしてくれる派手なお姉さんの方がお似合いよ。しかし、彼らにはそんなところに行くお金もないのかもしれない。そう思うと余計に同情の気持ちが湧いた。私なんかに同情されるなんてね。
「アキちゃん、今日も初めの時間は外でキャッチお願いね」
更衣室の扉をノックする音に続いて店長の低い声が聞こえてきた。そろそろ風も冷たくなってきたというのに膝上十センチのスカート姿で声かけをしなければいけない。業務前から気分は最悪だった。気の抜けた声で「はあい」と返事をして私は立て看板に手を伸ばした。
ピンク色が目に悪い看板に黄色の文字で書かれた「一時間二千円」の文字。お前の価値はそんなものだと笑われているようだった。それなのに、悲しくも腹立たしくもならない自分に呆れてしまった。時給の方がほんの少し安いのだけれど。
気がつけば店内には女の子が集まってきていた。今日は六人、少し多い方だ。間延びした声で私に手を振るのは、半年前に此処に入ってきたばかりの学生で、ついこの間二十一歳になった女の子。今日のピアスはちょっとゴツめのフープピアス。どうせ今の彼氏の趣味なのだろう。「かれぴにプレゼントしてもらったんですよお」と間抜けな声で自慢しているのが聞こえていた。彼女は恋人に愛されているのだろうか。
彼女が入店してから自慢された男は三人目になる。彼女が飽き性なのか、飽きられやすいのかは知ら
ないが、こんな短期間で男をとっかえひっかえするなんて良い身分だ。今の恋人の写真を先日見たが暫くは忘れられそうにない。鼻ピアスをして入れ墨の入ったパンチのある男が横に並んでいたのを覚えている。その前の男は五発くらい殴られた後のような顔のした男だった。毎度のことだが男の趣味を疑ってしまう。それでも彼女には自分自身を愛してくれるひとがいるのだ。それだけで少し羨ましいと感じてしまう自分に虚しくなった。通算何人目かわからない男の趣味に染められて派手に容姿を変えていく彼女は、唯一変わらないねっとりとした話し方で私に問いかける。
「アキさん、今日もキャッチですかあ」
「そうよ。ほら、私って声がよく通るでしょ」
少しだけかすれた声で答える。説得力はなかった。
「ふーん、まあ外寒いんでミユじゃなくてよかったあ。頑張ってくださあい」
ツインテールを揺らしながらミユは別の店員の元へと去って行く。立て看板に似たピンク色の髪の毛が揺れる度にキツイ香水の香りが辺りに舞う。脚の付け根が見えそうなぎりぎりのラインで彼女のスカートが揺らめいた。またスカートを短くしたようだ。もう少しでパンツが見えてしまいそう。男はああいうので昂るのかもしれないけれど、私から言わせたら下品なだけだ。汚らわしいとすら思った。露出でしか男を振り向かせられない女。対して私は脚を開いても意中の男を射止められない女だ。圧倒的に私の負けだろう。ここは風俗ではないのだ。心ない「頑張れ」の言葉に心を重くしながら看板を片手に店の扉に手をかけた。
一層深くなった空の色。店の看板や電灯の光が強く感じる。歩行者の話し声に混じって、ノイズ交じりの音声が聞こえてきた。安物のマイクの音だ。ガビガビとした音で紡がれる言葉は何を語っているのかわからない。若い男の声であることは辛うじてわかった。拡声器を使ってキャッチをする新しい店が出てきたのかと思ったが、よく聞くとその音は歌になっているらしい。ならば、新しい路上パフォーマーだろう。
名前も知らぬ新人パフォーマーは不慣れな様子でギターを弾く。上手いのか下手なのかすらよくわからなかった。駅前だというのに足を止めるひとは殆どいない。辛うじて見えた彼の脇に立てかけてある手書きの看板には九州の田舎からやってきたようなことが書いてあった。同じ看板でも彼の脇の看板の方が少しだけ魅力的だった。製作費用はきっとこのピンクの看板の方が何倍もかかっていることだろう。ださい立て看板だが、業者に委託して製作してもらったものだ。しかし、価値があるのはどちらだろうかと言われたら答えられる自信がなかった。あんなの、その辺のホームセンターで飼ってきたベニヤ板にマジックで文言を書きなぐっただけだ。それなのに、その看板はほんの少しだが私の胸を動かした。
彼は歌で成功することを夢見て、海を渡ってやってきたのだろう。この街に来れば、夢に近づくことができると信じている。だからはるばるここまで来たのだ。仮に私がここではないどこかで生を受けたとしたら、夢のためにこの場所にやってきただろうか。たまたま都会に生まれたからこの地で生きているだけだ。生まれ落ちた時点で勝ち組だった。夢を抱く彼らにとって、私は都会に生まれただけで恵まれている。それなのに、全てゴミ箱に捨ててこの場所に立っているのは誰だろう。紛れもない私のことだ。目の前にあるのは夢ではなく、価値のないピンク色の板看板。その前で少しばかり性的に見せようとするコスプレ衣装を身に纏いながら、私は一体なんのために生きているのだろう。
歪な音声の中で紡がれる中身のないラブソング。辛うじて聞き取れた「好きだったあなた」という歌詞に、失恋ソングということは推測できた。何を歌っているのか、誰のために歌っているのかなんてわからない。愛しているという言葉の中身のなさはそのまま私の人生と一緒だった。普段なら聞こえてくるはずのくだらない話をしながら飲み屋街へと消えていくサラリーマンや大学生らしき男女の集団の下品な笑い声が一切聞こえない。数多のひとが私の前を通りすぎていくのに、彼のへたくそな歌でしか私の鼓膜を揺らすことができなかった。
「アキさん、交代です」
何時間こうして立っていたのだろう。女の子の声がして振り返る。同じ制服を着た後輩が私を見上げていた。時計を見ると、彼が歌いだしてから三十分しか経っていなかった。静かだった世界に音が戻ってくる。聞き慣れた学生の酔っぱらった声とそれを取り巻く女の甲高い声。いつもなら気に障る声なのに、何故だか少し安心した。
ベッドの中で快楽を拾うのは苦痛だった。私に触れるダイチの手。骨ばっていて、大きな手。お父さんとは違う、肉付きの薄い手。この手に触れたかった。好きだった。高校で初めて彼に出会ってから、ずっと好きだった。どこを好きになったのかも思い出せない。人殺しのような切れ長の瞳に殺されたのは私だ。通った鼻筋はやはり綺麗だなとか、少し乱れた歯並びはやんちゃに見えてかわいいなと私は彼の顔を見上げる。私の初めて、全てダイチにあげたのに、彼は何も私にくれない。ダイチに脚を開く前に付き合った男の子は勿論いたのに、取っておいたのだ。本当に好きだったのは、いつだってダイチだった。忘れようとして、逃げようとして他の男の子を好きと錯覚しようとして、できなかった。この温度に包まれていないと私は満足できない。ああ、私はずっとダイチのことを好きなのだ。愛してくれないことをわかっているのに、期待してしまう。その度に傷ついてきたのに。嘘だっていい。「好き」の一言を聞いてみたかった。彼を受け入れたまま、伝えてはいけない言葉を脳内で反芻する。間違ったふりをして伝えてしまおうか。彼はどんな顔をするのだろう。「俺も」なんて言うだろうか。それとも、もう抱いてなんてくれないかな。
「ね、まだ終わらないで」
催促するように手を伸ばした。過去の感情にしてしまいたい。この行為が終わったあとでも遅くないでしょう。そう思って何度目の夜だろう。彼は手を取る代わりに私の腰を少し強く掴んだ。このままどうか、殺してほしい。彼から伝わる熱も全て嘘だと言って。もう夢なんか見たくない。私自身にも、彼にも。
近くて遠い彼の熱を胎内に感じながら、目を閉じた。
「今日はいないんだ」
相変わらず私の仕事はキャッチばかりで、店内でお酒を振る舞うことは少なかった。テーブル越しの会話でも、やたらと手を触ってくる客もいる。湿った分厚い手。爪の長さは決まって不揃いで、少し黒ずんでいる。何を触って生きてきたのか問うてみたくなる。店内にいても、厭らしい目線を感じながら張りつけた笑顔で接客をしなければいけないのだと思うと、この制服が気温に対して少し薄いことくらい些細なことだった。
路上パフォーマーはその日によって入れ替わる。昨日は閉店時刻になってもパフォーマーは誰一人現れなかった。パフォーマンスに足を止めた客に声をかけるのが一番楽だ。都合のよく彼らの活動を利用することもできなくて、少し声を張る。普段出さない声を出したら、裏返ってしまった。誤魔化すように咳払いをして、髪をいじった。最近は彼らのパフォーマンスを暇つぶしに眺めるのがブームだっただけに寂しい思いだった。
先週は若い女の子によるジャグリングと空き缶ドラムのお兄さん。この前の上京ボーイはこの間見た以来見ていない。この街ではひとが集まらないと場所を変えたのだろうか。変える必要があるのは機材だろうけれど。
「お兄さん、一時間二千円で飲んでいかない?」
忘れかけていた営業スマイルでノルマのように目の前を通りすぎていくひとに声をかける。今日はまだ成果なし。私が声をかけなくても入るひとは入るし、入らないひとは入らないのだ。
「おにいさ……」
重そうにギターを背負ったイモっぽい青年が目の前を横切った。キャッチをかけようとしてその手を引く。あの青年だった。
初めて近くで見た彼の顔は少しだけダイチに似ていた。面長の顔に開かれた切れ長の瞳が私を捉える。息が止まりそうになった。目が合う前に必死に見なかった振りをする。振り返りかけた彼を無視して他の男に声をかけた。気のせいだったと彼は思えばいい。それとも、キャッチの女にも見向きされないと傷つくだろうか。横目で彼の歩む先をみる。偶然通りかかったのではない。今日のパフォーマーは彼だった。
相変わらず手際が悪い。何度目かわからない雑音混じりのトークをBGMにしながら夜の街を眺める。何度も聞いていると耳が慣れてきたのか言っていることが解読できるようになってきた。名前はユウというらしい。彼が話すのは地元の話と曲を作った時の恋人の話。同じ内容の話を同じ言葉で繰り返す。話の内容を殆ど覚えてしまった。次に話し出すのは初めて恋人から作ってもらった料理の話。ほら、言った通りだ。でも何回聞いても彼女に作ってもらったという料理名が聞き取れない。「か」から始まるのだろうということは分かった。その料理にはマカロニが使われているらしい。彼女がマカロニをお湯に溶かして無くしたくだりを聞きながらどんな料理なのかと毎度疑問を抱く。そもそもマカロニはお湯に溶けることはない。どうやったら消えてなくなるのだろうか。
手料理を最後に作ったのはいつだっただろう。それも恋人に振る舞う料理だ。高校生? その時は放課後デートしかしたことがなかった。目の下の黒子が色っぽい少し童顔の同級生で、バスケ部の彼の部活が終わるのを教室で携帯をいじりながら待っていた。あの時間は余計なことを考える必要がなくて、一番幸せだったように思う。しかし彼と共にいた時間を思い出せない。
その次の恋人は高校を卒業してから友人に誘われていった合コンで知りあった新米板前の男の子。料理を作ったら何を言われるか。それが気になって結局一度も作らなかったし、作る気も起きなかった。
その次に恋人ができたときには私はもうガールズバーに勤めていた。他の男に媚を売るのが腹立たしいとかなんとかいってすぐに険悪な雰囲気になって別れたから、大したデートもしていない。出会ったのはそのガールズバーだったのだけれど。媚を売ったらころりと落ちた男だ。その程度の器だったのだろうと今なら思う。
過去の恋愛を振り返って、溜息が出た。そこに私の幸せは転がっていない。いつだって、私の心の中にはダイチが残っていて、消えてくれなかった。彼をかき消すように色んな男と関係を持った。それなのにまた戻ってきてしまうのだ。そんなことをしても、彼の心は私のものにならないと知っているのに。
なんだか急にユウのことが羨ましくなった。失恋ソングと歌いながらも、愛して、愛されて、納得した上での別れの歌だ。決別のための歌ではない。過去を懐かしみながら写真を見返すような気持ちで歌っている歌だ。私にはできない行為だ。ぼんやりと見つめていたパフォーマンス。視線の先でギターをかき鳴らすユウと目があった気がして、思わず視界から彼を殺した。
「若い子いっぱいいるけど、飲んでいかない?」
無理をしてでも声を張る。自分の声で全て塗り替えてしまわなきゃ。あの音を聞いていたらおかしくなりそうだった。近くを通ったサラリーマンにわざとなれなれしく声をかける。迷惑そうにサラリーマンは眉を顰めて、こちらを見ないように足早に去って行った。キャッチの仕事すらまともにできない。店内にいたって居場所はないのに。でも、この仕事を辞めたところで私は何処に行けるの。欲に塗れて、塗れきれなくて、中途半端で生きている私に何ができるというのだ。それに、今更日の当たる仕事なんてできない。何年この場所で腐っていると思っているのだ。
「……私、なにしてんだろ」
夢を見ていたのは、小学生の頃の私だ。
私は、アイドルになりたかった。
歌の練習をしたり、可愛くなろうと化粧を覚えたりした。お母さんの鏡台に置いてあった赤いリップを勝手に使って怒られた。魔法の道具だと思っていた。化粧をすれば、私も可愛くなれる。なりたい自分になれると思った。
憧れたアイドルはテレビの向こうで愛を振りまくお姫さま。そんな女の子になりたかった。慣れると思っていた。だって、両親は私をお姫さまのように可愛がって育ててくれたから。そのせいで勘違いをしていたのだ。私は美少女でもなければ、お姫さまでもない。
そうはいってもただの漠然とした夢にすぎなかった。誰に話すわけでもなく、胸の中に仕舞っていただけの夢。オーディションのチラシを眺めては知らないふりをして素通りした。年齢を重ねて、アイドルになれるような若い女の子ではなくなった。子供が描く夢をおとなになる直前まで引きずって、そのまま捨てた。気がついたらその夢もゴミに姿を変えてしまっていた。現実味のある夢を上手いこと扱うこともできずに気がつけば若さを売ることでしか生きる術を見出すことができなかった。愛を振りまくおとなにはなれた。その愛は仮初だけれど。だから、私自身も本物の愛を貰えなくなってしまった。それにもう、若さも売りつくしてしまった。
ここに居続けるのも、アイドルのように可愛らしい衣服を身につけることができるからなのかもしれない。こんな堕ちたアイドル、誰も愛さない。見向きもしない。
私はあの青年に憧れている。
その事実が恥ずかしい。そしてとても情けない。何歳なのかわからないが、成人をしてそこそこだろう。あの年齢で、夢を叶えるために目に見える努力をしている。自分を信じて、その道を進むためにがむしゃらになれる彼が、私には輝いて見える。だからもう見たくない。彼の姿を、音を知るたびに、自分が惨めに思えてくる。彼の光が私の影を色濃く映す。もうやめてくれ。此処に来ないでくれ。我が儘な思いが渦巻いて、溢れだしそうだった。
相変わらず少し派手な化粧は自分を引き立たせるためではなく、夜の街に負けないための武装だし、己を着飾る制服は男性の欲を煽って来客を増やすためのもの。不格好にならないようにと整えたスタイルは、気がつけばただやつれて痩せ細っただけのみっともない身体だ。私自身のために努力をしていたのはもう何年前の話なのだろう。一体何にがむしゃらになればいいのかなんてわからない。この仕事をする前の生活は、もう思い出せない。
三十歳も手前になって、今になって夢を持つことなど無謀だ。夢を追いかけるのは若さがないと耐えられない。認めてくれない。この世の中は若くて綺麗な女の子にしか興味がないのだ。価値があるのは二十代前半まで。四捨五入して三十に変わってしまえばさようならだ。私は夢に本気になれなかった事実を十字架に変えて死んでいく。この店も既に世代交代が始まっている。私の明日はないかもしれない。いつクビを切られてもおかしくないのだ。ガールズバーの女の子は若いのが売りなのだから。
十メートル先でギターをかき鳴らす青年と目が合ったような気がした。彼の瞳がとても力強くて少しだけ怖くなった。鏡の中の私はいつだって死んだ瞳をしていた。現実だってろくに見られない女に夢の中なんて泳げっこない。
「もう、無理なんだなあ」
声に出したら、自分の中に何も残っていないことに気がついて、自然と涙が頬を流れていた。
何のために生きてきたのだろう。何もかも中途半端、何も為すことなく今日まで日々を浪費してきた。低賃金で男を悦ばせては愛のないセックスに溺れている。何かに必死になったことなどない。私の中は空っぽだ。気がついたら、看板を置いていた。影に居るのは嫌だった。一歩、踏み出す。人の波は私を拒む。それでも進まなければいけない。コスプレまがいの格好で街を歩きたくなんてなかった。数メートルだとしても地獄だ。そう思っていた。店の前でなければ、途端に異質な存在になり下がる。肌寒いのは、気温のせいか、人の視線のせいか。そんなことどうだっていい。頬を濡らす涙もそのままに観客のいないライブ会場へと向かう。
目を閉じたまま歌い続けるユウの前に来てしまった。紡がれる言葉は、近づいたほうがよくわかった。下手くそでありふれたラブソング、そう思っていた歌を彼は歌っている。目の前に観客がいることをわかっているのだろうか。観客と呼べる人は私以外誰もいなかった。私のためだけのライブ会場。彼のためだけの観客。都合のいい解釈で私はラブソングを聞く。私のこと歌っているなんて思わない。確実に知らない誰かに捧げる歌。それなのに、どうしてこんなにも苦しくなるのだろう。私、気持ち悪い。
彼が歌い終わると同時に私は手を叩いた。精一杯の賛辞だった。本来であれば、お金を置いて行くべきなのだろうけれど、財布は店の更衣室の中だった。ユウは驚いた顔で私をみた。目を開けたらコスプレ女が拍手を送っている。おまけにその女は泣いているのだ。驚きを通り越して恐怖かもしれない。
「あ、えと……ありがとう、ございます」
動揺した声で、彼はお礼の言葉を告げた。歯切れの悪い彼の声。その声を聞いてやっと、自分がここにいることを現実として飲み込んだ。ユウが困ったように笑っている。私に目線が注がれている。ダイチによく似た瞳で、私を見ている。目線が交わった。現実と思うには、時間がかかった。声が出なかった。先ほどのまでの自分と、今の自分が違う人間であるような気がした。思うように自分の身体を動かすことができなかった。何か言わなきゃ。ユウが何かを言いたげに口を開く。お願い、何も言わないで。
マイクを外して、彼は私だけに聞こえる声で「お店の、方ですよね」と問いかけた。
「惨めでしょ」笑えていたかどうかはわからなかった。
後から思えば、もっといい返事があったはずだった。
当然のように彼は否定するような言葉を並べる。折角の言葉を、私は覚えていない。
「いつも、あそこに立ってますよね」
「来ちゃダメだよ」
ユウは私が来た道を指さす。あの場所に夢はない。変わってほしくない。私のエゴが、彼の言葉を遮った。ユウが笑う。
「変なの。客引き、しないんですね」
「してほしかった?」ユウは小さく首を振った。「されたらどうしようかと思って」
私がなかったことにしたユウへの客引きを、彼はちゃんと受けていた。私の視線がすぐに他の男性へと動いたので、ほっとして少し駆け足にその場を去ったのだという。
「だって、俺。持ち合わせもないし」
困ったように笑う彼に私の全財産を分け与えたくなった。彼はきっと、お金があってもガールズバーなどという低俗な場所に足を踏み入れるような人間ではない。大衆居酒屋に行って、牛すじの煮込みをつつきながら、出汁巻玉子とほっきの並ぶテーブルを友人と囲んでビールを煽るのが似合う。そうであってほしい。
「こんな店、行くようになっちゃったらおしまいだよ」
制服のスカートの裾をいじる。タータンチェックの赤がくにゃりと歪んだ。どんな顔で私は彼と会話をしているのだろう。
「もう、歌わないんですか」
思い出したように私が彼に問いかけた。驚いたような顔をしてユウは私を見た。歌に興味がないと思われていたのだろうか。少しだけ焦ったような素振りを見せた。譜面台に乗せられたボロボロの大学ノートをペラペラとめくる。はらりと、手のひら大ほどの紙がノートから落ちていく。ユウは気がつかないままノートを眺めてはめくる手を止めない。
「何か、落ちましたよ」
私の言葉にやっと、手を止めたユウが紙を拾い上げた。写真のようだった。女の子とのツーショットのようだった。家族だろうか、それとも。
私の視線を咎めるように、ユウが私を見た。私はそれに興味はなかった。見られたくなかったものだと知った瞬間に興味が生まれてしまった。ユウのせいだ。
「あの、折角なんで一曲……」
ようやく、ページを見つけたらしいユウがギターを持ち直している。私には音の違いは分からないが、弦をはじいて何やらチューニングをしている。私以外に観客は増えていない。夢を追いかけて歌う彼に足を止めるのは、敏腕プロデューサーでも、拡散力の高いSNSユーザーでもない。ただのガールズバーの店員の女。一銭も持ち合わせていない、私は彼の稼ぎにも貢献できない。私しか聞いていないこの場所で、彼がこれ以上歌う必要があるのだろうか。
「やっぱ、いいよ」
「え?」
ギターに落としていた視線が上がる。呆けた顔。かまぼこのような形に彼の口が開いた。そのままゆっくりと切れ長の瞳が見開かれていく。
「だって、今。手持ちがないんだもの」
これ以上タダで聞くわけにはいかない。続けた言葉に遠慮するように彼が否定した。だから私は彼を否定した。対価を得ることを目的としないなら、ここで歌う必要はない。この街で歌う理由はない。それならば、早くここから出て行った方がいい。そうでないと、私と同じになってしまう。街に呑まれて影になる。誰かが光るために生きる、そんな存在に彼にはなってほしくなかった。
「ちょっと、待ってて」
ユウに背中を向ける。私のエゴにもう少しだけ付き合って。店から戻るまで、そこで待っていてほしい。好きだった男に顔が似ているからじゃない。私の夢を彼に重ねてしまっているわけでもない。理由は私にもよくわからなかった。触れてはいけないと思いながらも、触れたいと願ってしまう。人の波は大分穏やかになって、私を拒むものが無くなっていくように感じた。立て看板の隣には誰もいない。店の扉に手をかけようとして、勝手に開いた扉に顔をぶつけかけて、後ずさりをした。客が帰るところだった。前下がりボブの店員が猫撫で声で手を振る。思い出した様に私も手を振った。「アキさん、何してるんですか」低くなった声で私に問いかける。ブラウスのフリルを気にして、私のことは見ていない。のりが取れて、つけまつげが少し浮いている。変なの。
「私、ちょっと今日帰るわ」
「え?」
「だから、これ、お願いね。ナツミちゃん」
立て看板をトントン、と指で叩く。ナツミの背中を押して見せの外に置いて煙草とアルコール、香水の甘酸っぱい香りの混じった店内へ。決して良い香りではないのに、安心してしまう。ここが私の生きる場所。カラー蛍光灯が目に痛い。わざとらしい女の笑い声、酔いで何を話しているのかわからない男の声。これだけは不快だ。
「店長」
カウンターで注文の用紙とにらめっこしながらドリンクを作る店長に声をかける。気の抜けた返事。店長が私を認識するよりも早く、要件を伝えてしまう。「ごめんなさい、体調が悪くて。今日は帰ります」
一礼して、更衣室へと向かう。店長が私を止めたような気がしたが、よく聞こえなかった。更衣室の鍵をかけると、一気に身体が軽くなった。私を縛る制服を脱ぎ捨てて、オリーブ色のパンツに履き替える。降ろしていた髪を簡単にひとつにまとめる。少し濃く塗った口紅をティッシュで拭って、リップクリームで誤魔化した。まだ、ユウは待っているだろうか。ロッカーの鍵をポケットにねじ込んで、更衣室の扉を開ける。目の前に店長が立っていた。
「どういうつもりなの」
「すいません」
「体調、悪いなんて嘘でしょ」
「悪いですよ」
「ね、あの男に呼び出されたとかじゃないの」
あの男とは、ダイチのことだ。伊達に長いことこの店に居るわけじゃない。店長も知っている。数回、この店に来たことがあるのだ。私とセックスするまでの時間つぶしとして、だったが。店長に問われるがまま恋人でないと否定して、虚しくなったのは、忘れられない恋の証だったが、今ダイチは関係ない。
「もっと前向きな理由です」
「体調悪いことが?」
「……そうです」
溜息を吐いて、店長は私の肩に手を乗せる。「今日だけだからね」そのまま店内へと消えて行った。明日なんて言い訳をしよう。そんなこと、今考えなくていいか。
裏口の扉を開けると、人気のない裏通りに出る。にぎわう人の声が少し遠い。排気口の煙を避けながら人通りのある道へと向かう。ヒールを置いてきたから足が軽い。私はガールズバーの店員ではない。誰の視線も受けない。それだけで生きていると思えた。アイドルになりたかった癖に、世界のモブで幸せなのだ。もう私は雑踏でいい。
ユウは待っていた。ギターはすっかり片づけてしまっていて、店じまいをしていた。目の前にいる彼はパフォーマーの仮面を脱いでしまっていた。私は、パフォーマーとしての彼に用事があったのに、どうしてくれるの。そんなことは言えるはずもなく、携帯電話に目線を落としたままのユウに「お待たせ」と声をかけた。ユウは顔をあげて私を捉える。目が合って、一瞬、訝しむ様子を見せた。さっきまでとは真逆の格好だ。年齢相応の格好をしていれば、少しはまともな女に見えるでしょ。見えていてね。
「あ、さっきの……」
「待っていてくれてありがとう」
半分くらい、帰っていてくれないかと願った。店員とパフォーマーという壁を越えて何を話せばいいのかわからなかった。
「場所、変えない?」
「え」
「今日のライブ鑑賞代、払わせてよ」
喉を流れる液体がしゅわりと弾けて体内を刺激する。グラスを傾けたまましばらくそうしていると、世の中のことなどどうでもよくなっていく。舌の上に残る苦みと甘みを転がしながら、小さく溜息を吐いた。
「なんでも食べていいよ」
メニューを指して、私は目の前に座るユウに微笑んだ。遠慮する姿が可愛らしいと思った。歳は二十三だという。お酒の飲める年齢でよかった。未成年を連れ回す女にならなかったという点に於いても安心した。特別お洒落な場所ではない、普通の居酒屋に入って飲み物を注文した。運ばれてきたお通しと生ビール。重い音がしてグラスがぶつかった。衝撃で中身がグラスを伝って右手を濡らした。
「その、どうしてこんな」
「遠慮しないで」
ユウの言葉を遮って、メニューを押し付けた。諦めたように彼はメニューを受け取る。私はそれだけで満足して、またグラスの中身を煽った。困ったようにメニューをめくるユウを見つめる。伏し目でも、ダイチに似ている。性格は真逆なのに、こんなにも顔立ちが似ている。ツンとした口元が喋るときに横に開かれるのもそっくりだった。鼻の左脇に小さな黒子がある。ダイチにはない黒子だ。当然だ、ユウとダイチは別人なのだから。
「あ、俺……。なんか、顔についてますか」
「へ」
「その、凄い見てたから」
「あ、ああ。ごめん、ちょっと、知り合いに似てて」
「恋人ですか」
すぐに返事をすることができなかった私を見て、ユウが察したように「すいません」と小さく頭を下げた。
「違うの、気にしないで」
通りかかった店員に声をかける。ビールのお代わりと、出汁巻玉子、唐揚げとえいひれを頼む。ユウは壁に貼ってある手書きのおすすめメニューを指さす。懐かしのナポリタンと書かれた手書きメニュー。牛すじとほっきを頼む彼はここにはいなかった。大学生の選択肢にはないのかもしれない。
「いいじゃん」
店員を見送って、私はユウにからかうように笑いかけた。理想の中の彼とは違ったけれど、これはこれで嫌いじゃない。
「なんか、その渋いものが好きなんですね」
「おじさんぽいって思ったでしょ」
否定の仕草をとるのかと思ったが、彼は素直に頷いた。私は不貞腐れたふりをする。ユウは大学生らしいというか、少し調子のよい若者の受け答えをする男だと思った。悪い言い方をすればノリがチャラい。初めは警戒をしていた彼だったが、酒の力も手伝って、気がつけば同い年の友人のように距離を詰めていた。
「今更なんすけど、お名前、聞いてなかったですよね」
砕けた敬語で彼が問う。そういえば、名乗っていなかった。名前の知らない相手とそれなりの時間会話をしていたのだと思うと、彼のメンタリティに感心した。名前が必要な会話をしていなかっただけと言えばそれまでだ。もしくは、彼自身が気にしていなかったのかもしれない。私は少し考えて、彼の問いに答えた。
「ミサト」
アキとは答えなかった。店での名前を彼に教える必要はないと思った。店で彼には会わない。
「ミサト、さんっていうんですね。俺は」
「ユウ、じゃないの?」
改めて名乗ろうとする彼を遮って問いかける。照れたような困ったような顔でユウは目を伏せた。
「あ、それはなんというか、アーティスト名? で」
居酒屋のアンケート用紙を裏返す。備え付けられてあったボールペンでさらさらと漢字を書く。ふにゃりと歪んだ文字だった。お世辞にも綺麗とは言い難い。
「裕、って書くんです。本当の名前は『ゆたか』って言います」
「教えちゃっていいの?」
「いいんです」
裕は何杯目かのハイボールを傾ける。喉仏が数回上下した。ジョッキをテーブルに置いたときのごとん、という音がやけに大きく聞こえた。
「まだ、俺はユウになりきれていないから」
無造作に置かれたままのボールペンに手を伸ばす。彼の名前が書かれた脇に私の名前を書く。文字を書くのは苦手だが、裕よりは綺麗な文字だと思う。書いた文字をボールペンで指すようにして彼に見せる。
「私の名前。
白んだ空が私にお休みを告げる。見慣れたはずの空の色も眩しくて目を細める。私にとっては今が夜だ。私が眠るとき、世界は目覚める。ひとりだけ取り残されてしまったみたい。
ホームのチャイムが鳴る。数人の男女が到着した電車に乗り込んだ。誰もが皆、なんだか疲れた顔をしている。この中の何人が幸せなのだろうか。不毛な疑問をかき消すように瞼を閉じた。眠くなんてならない。
長いこと伸ばしたままになっている髪の毛をいじる。すっかり色が抜けて茶色くなってしまった。この前染めたときは流行りのピンクブラウンなんかにして、周りの女の子には可愛らしいと評判だった。一体どれだけの言葉が本心だったのだろうか。そこに感情がなくても「可愛い」とはやし立てることは彼女の得意技だ。誰も私のことなど本気で可愛いと言わない。誰の言葉も信じていない。「可愛い」の数だけ「似合っていない」と言われた気にさえなっていた。指先で輪を描くと、毛先が割れているのに気がついた。髪の毛が綺麗なのが自慢だったんだけれどな。せめてもの武器がこんなじゃ、何のために生きているのかわからない。絶望にも似た溜息が零れた。陰気な女だ。
蛍光灯が毛先を透かす。枝分かれした先をつまんでゆっくり手前に引いた。細い髪がふたつに割れる。途中でぷつりと切れた。支えのなくなった右手の先を伝う線にはもう興味を無くして、手を離した。
窓の外はもう明るい。眠らない街。そんなものは比喩だけで充分だ。窓の外で煌めくネオンが消えていく。交代の合図だ。健全な街へと姿を変えていく。どちらがこの街の本当の姿なのだろう。どちらも本当で、どちらも違う。それでも見慣れた不健全な夜が私にとっては真実だ。
この街はどこまでも明るくて、どこまでも汚い。外から眺めているだけではわからなかった。だから、私もその光に憧れた。街灯に群がる虫けらと何も変わらない。光に近づくほど危険な火遊びが待っている。一歩間違えれば待っているのは「死」かもしれない。それでも私はもうここでしか生きる術を知らない。
携帯電話が小さく振動する。
SNSアプリの通知が液晶に浮かんだ。「ダイチ」からのメッセージだった。見なければよかったと後悔した。好きだったはずの男。好きで居続けたかった男。嫌いになりきれない男。
『明日、会える?』
通知と共に表示された言葉に思わず画面を閉じる。そこに愛はない。
彼の『会いたい』アピールはセックスアピールだということを私は学んだ。身体だけで繋がって、心は私に向かない。本当の意味での繋がりを、持つことはできない。虚しい行為だ。彼を愛していた私は、触れることができるならなんだっていいと彼の申し出に応えた。触れる度に膨らむのは愛情ではなく虚しさだけ。彼にとって私は都合のいい女であることに気がつきながらも、認めたくなかった。好きだった。どんな行為だとしても、好意は得られない。身体も心も満たされないままに関係を続けて何年だったのだろう。彼だって本当は私以外の女を抱きたいはずなのに、今日もまた、手軽な女で妥協しようとしている。
会いたくない。
仕事で見知らぬ男の接待をしているほうがずっといい。通知は私の意思に反して、ダイチからのものばかり連なっていく。
『いいよ』
これ以上考えることが面倒になって誘いに乗ってしまう。
液晶を閉じると黒い画面に自分の顔が映り込んだ。死神のような酷い顔。こんな顔で、好きだった男に抱かれようというのだから笑えてしまう。好き「だった」のか、今も彼を好きなのかさえわからない。未練がなかったら身体を重ねようと思わないだろう。きっとまだどこかで私は期待しているのだ。彼に愛されるという可能性に夢を見ている。
「……馬鹿な子」
瞼を閉じたら、何もかもなくなってしまえばいい。見ていたものが全て消え去って、私ひとりだけになってしまえばいい。そんなこと、叶わない。わかっている。終点のアナウンスが私を引き戻した。こんな目覚め、夢がない。目覚めの合図はキスにして。そんなのは御伽噺だけのお約束だ。私が生きているのは、御伽噺の世界じゃない。液晶に浮かぶ会話は私の言葉で止まっていた。
すっかり青く染まった空が憎らしくて、地面を見て歩く。歩いても歩いてもこの空から逃れることができないのだということに軽く絶望した。早く帰りたい。空の見えない建物の中に逃げ込みたい。駆け足で辿りついたマンションのエントランス。これから出勤するのであろうサラリーマンとすれ違った。通勤鞄に弁当用の小さな保冷バッグで両手が塞がっていたので、押戸になっているエントランスドアを開けてあげると、忙しない動きでお辞儀をして出て行った。合鍵かパスワード入力をしないと開かない内側の扉。先のサラリーマンが外出するタイミングで滑り込もうと思っていたが、手を差し伸べている間にすっかり閉じてしまっていた。仕方なくバッグから鍵を取り出す。
「あら、おはようございます」
鍵穴に差し込む前に自動ドアが開いた。
「おはよう、ございます」二度目の会釈。
手持無沙汰になった鍵を手の中に隠すようにして握り、愛想笑いを向ける。時代遅れのソバージュ、目元に出来たソバカス。ひと昔前のアメリカの子供みたいな風貌をしている女が微笑み返す。いつ見ても年齢不詳の彼女を横目にやっとの思いでドアの向こうへと足を踏み入れる。
踵の禿げたピンヒールを脱ぐ頃にはようやく眠気が襲ってきて、何をするわけでもなくベッドに倒れ込んだ。ベッドの上に投げ出した携帯電話の液晶が光る。携帯電話を裏返して、光を隠した。目が覚めたら確認すればいい。急ぎの連絡など私には来ない。微睡む私には思考の余地など残されていない。
ああ、そうだ。化粧を落とさないと。
メイク落としシートに手を伸ばすのと、瞼が落ちるのとどちらが先だろう。
今日は、瞼の勝ちだ。
化粧をして、可愛い服に着替える。鏡の中の私は全く可愛くない。こんなの洋服が可哀想だ。垂れ目の下の黒子なんていつできたのだろう。狙っているみたいで嫌だ。よく見たら、できものになっているだけだった。もっと嫌だ。必死になってコンシーラーで誤魔化す。傷口に悪影響だとはわかっている。その手を止めることはできなかった。結果的に厚塗りになってしまって余計に目立ってしまった。
ぽってりとした唇もセクシーと褒められたものだけれど、すっかり乾燥して荒れてしまっている。おまけにつけ慣れているはずのつけまつげが重くて瞼が上手く上がらない。これがないと人前に出られないのに。今日は右目だけうまく二重にならなかった。左の目は疲れから三重になってしまっている。どちらにしても最悪だ。
向かいの席で揺られる高校生のカップルを見ない振りをして、携帯電話に目線を落とした。SNSの通知はいまだ二桁に留まっている。その中にダイチからのものはない。会いたいと言ったのは彼のほうなのに、連絡をするのは私から。私が会いたがっているみたいだ。
『最寄りについたら連絡して』
少しして、既読の文字だけが浮かび上がる。返事はない。そのままSNSのアプリケーションを閉じる。通知は十件増えていた。
帰宅ラッシュの人込みに逆らいながら、電車を降りる。肩がぶつかって悪態を吐かれることにも慣れてしまった。人の視線をくぐり抜けながら、駅を抜け出した。誰も私のことなんて見てもいないし、興味すら抱かない。そんなことわかっているのに、視線を気にしてしまう。なんて矛盾なのだろうか。私はいつだって矛盾だらけだ。人と話すことがあまり得意なわけではない。それなのに働いているのは会話をすることが業務の八割を占めるガールズバー。自分のためではないのにお洒落をして可愛く着飾るのに、お金をかければかけるほど鏡の中の私はみすぼらしくなっていく。
『改札の前で待ってる』
バスターミナル前の信号を背にダイチは立っていた。黒のパーカーを着た彼は夜を身に纏っているようだった。街頭の灯りが彼を消してしまう。私は少し傷む足を無視してヒールを鳴らす。彼との身長を、距離を、埋めるように、私はヒールのある靴を履くのだ。彼は顔もあげずに「やっと来たか」と言った。私でなかったらどうするの。
「……お待たせ」
私の顔も見ないで歩き出す。今日の私は可愛くないから好都合だ。でも、私を認識しようとしない彼の行動に悲しくないと言ったら嘘になる。このスカート、可愛いでしょう。今日のためにお気に入りを箪笥の奥から引っ張り出してきたの。紺色に黄色の花柄。春らしいでしょ。私によく似合っているでしょ。アピールポイントを並べて飲み込んだ。ダイチは私に興味がない。今日の相手は私でなくてもいいのだ。まだ明るいはずの空は雲に覆われていて、太陽は見えない。身体を重ねることができたら、誰だっていい。いつかの本命のための練習台。彼が過去に放った言葉を思い出した。私は彼の特別じゃない。
好きなひとの特別になれない私は、誰の特別になれるのだろう。私はなんのために日々を浪費しているのだろう。会話も交わさずに先を歩く彼の背中を追いかけた。
斜め後ろから見上げた彼の左耳にピアスの数が増えていることに気がついた。以前会ったときよりもふたつ多い耳元の煌めき。彼がその数だけ女性に振られたのだということを察した。未練を刻むように彼はピアスを開ける。私は彼の未練には一生なれない。消えない傷となって、その身体に証を残すことができる、彼に愛された顔も知らない女を羨ましいと思った。恋多き彼は何度本当の恋に出会ってきたのだろうか。私との行為に恋と名前をつけないのはどうして? セックスはデートとは違うから? 「彼女」にしたこと、全部私でしているくせに。
部屋へと続く薄暗い廊下を歩く。この扉を開けたらまた、私は感情の伴わない行為に溺れる。唇が触れ合うことに気がついたときには、私はもう「私」としてその場所にいる理由を失っていた。今日は何を練習するの?
開店前の店の扉を開ければ店長が一足早く店内の清掃をしていた。簡単に挨拶を済ませて更衣室へと向かう。もうこの店の制服も年齢的に厳しい。若い女の子が日々やってきては入れ替わっていくのに、私はいつまで此処に居続けるのだろう。男の人の接待をすることがメインの仕事ではないのに、この場所をキャバクラと勘違いをしている男がこの世の中には多すぎる。普段会社で偉ぶっているハゲ親父が、ガールズバーでも偉ぶっているだなんてダサすぎて笑っちゃう。せめてキャバクラでやってくれればいいのに。対面じゃなく、隣で寄り添って猫撫で声で良い気持ちにしてくれる派手なお姉さんの方がお似合いよ。しかし、彼らにはそんなところに行くお金もないのかもしれない。そう思うと余計に同情の気持ちが湧いた。私なんかに同情されるなんてね。
「アキちゃん、今日も初めの時間は外でキャッチお願いね」
更衣室の扉をノックする音に続いて店長の低い声が聞こえてきた。そろそろ風も冷たくなってきたというのに膝上十センチのスカート姿で声かけをしなければいけない。業務前から気分は最悪だった。気の抜けた声で「はあい」と返事をして私は立て看板に手を伸ばした。
ピンク色が目に悪い看板に黄色の文字で書かれた「一時間二千円」の文字。お前の価値はそんなものだと笑われているようだった。それなのに、悲しくも腹立たしくもならない自分に呆れてしまった。時給の方がほんの少し安いのだけれど。
気がつけば店内には女の子が集まってきていた。今日は六人、少し多い方だ。間延びした声で私に手を振るのは、半年前に此処に入ってきたばかりの学生で、ついこの間二十一歳になった女の子。今日のピアスはちょっとゴツめのフープピアス。どうせ今の彼氏の趣味なのだろう。「かれぴにプレゼントしてもらったんですよお」と間抜けな声で自慢しているのが聞こえていた。彼女は恋人に愛されているのだろうか。
彼女が入店してから自慢された男は三人目になる。彼女が飽き性なのか、飽きられやすいのかは知ら
ないが、こんな短期間で男をとっかえひっかえするなんて良い身分だ。今の恋人の写真を先日見たが暫くは忘れられそうにない。鼻ピアスをして入れ墨の入ったパンチのある男が横に並んでいたのを覚えている。その前の男は五発くらい殴られた後のような顔のした男だった。毎度のことだが男の趣味を疑ってしまう。それでも彼女には自分自身を愛してくれるひとがいるのだ。それだけで少し羨ましいと感じてしまう自分に虚しくなった。通算何人目かわからない男の趣味に染められて派手に容姿を変えていく彼女は、唯一変わらないねっとりとした話し方で私に問いかける。
「アキさん、今日もキャッチですかあ」
「そうよ。ほら、私って声がよく通るでしょ」
少しだけかすれた声で答える。説得力はなかった。
「ふーん、まあ外寒いんでミユじゃなくてよかったあ。頑張ってくださあい」
ツインテールを揺らしながらミユは別の店員の元へと去って行く。立て看板に似たピンク色の髪の毛が揺れる度にキツイ香水の香りが辺りに舞う。脚の付け根が見えそうなぎりぎりのラインで彼女のスカートが揺らめいた。またスカートを短くしたようだ。もう少しでパンツが見えてしまいそう。男はああいうので昂るのかもしれないけれど、私から言わせたら下品なだけだ。汚らわしいとすら思った。露出でしか男を振り向かせられない女。対して私は脚を開いても意中の男を射止められない女だ。圧倒的に私の負けだろう。ここは風俗ではないのだ。心ない「頑張れ」の言葉に心を重くしながら看板を片手に店の扉に手をかけた。
一層深くなった空の色。店の看板や電灯の光が強く感じる。歩行者の話し声に混じって、ノイズ交じりの音声が聞こえてきた。安物のマイクの音だ。ガビガビとした音で紡がれる言葉は何を語っているのかわからない。若い男の声であることは辛うじてわかった。拡声器を使ってキャッチをする新しい店が出てきたのかと思ったが、よく聞くとその音は歌になっているらしい。ならば、新しい路上パフォーマーだろう。
名前も知らぬ新人パフォーマーは不慣れな様子でギターを弾く。上手いのか下手なのかすらよくわからなかった。駅前だというのに足を止めるひとは殆どいない。辛うじて見えた彼の脇に立てかけてある手書きの看板には九州の田舎からやってきたようなことが書いてあった。同じ看板でも彼の脇の看板の方が少しだけ魅力的だった。製作費用はきっとこのピンクの看板の方が何倍もかかっていることだろう。ださい立て看板だが、業者に委託して製作してもらったものだ。しかし、価値があるのはどちらだろうかと言われたら答えられる自信がなかった。あんなの、その辺のホームセンターで飼ってきたベニヤ板にマジックで文言を書きなぐっただけだ。それなのに、その看板はほんの少しだが私の胸を動かした。
彼は歌で成功することを夢見て、海を渡ってやってきたのだろう。この街に来れば、夢に近づくことができると信じている。だからはるばるここまで来たのだ。仮に私がここではないどこかで生を受けたとしたら、夢のためにこの場所にやってきただろうか。たまたま都会に生まれたからこの地で生きているだけだ。生まれ落ちた時点で勝ち組だった。夢を抱く彼らにとって、私は都会に生まれただけで恵まれている。それなのに、全てゴミ箱に捨ててこの場所に立っているのは誰だろう。紛れもない私のことだ。目の前にあるのは夢ではなく、価値のないピンク色の板看板。その前で少しばかり性的に見せようとするコスプレ衣装を身に纏いながら、私は一体なんのために生きているのだろう。
歪な音声の中で紡がれる中身のないラブソング。辛うじて聞き取れた「好きだったあなた」という歌詞に、失恋ソングということは推測できた。何を歌っているのか、誰のために歌っているのかなんてわからない。愛しているという言葉の中身のなさはそのまま私の人生と一緒だった。普段なら聞こえてくるはずのくだらない話をしながら飲み屋街へと消えていくサラリーマンや大学生らしき男女の集団の下品な笑い声が一切聞こえない。数多のひとが私の前を通りすぎていくのに、彼のへたくそな歌でしか私の鼓膜を揺らすことができなかった。
「アキさん、交代です」
何時間こうして立っていたのだろう。女の子の声がして振り返る。同じ制服を着た後輩が私を見上げていた。時計を見ると、彼が歌いだしてから三十分しか経っていなかった。静かだった世界に音が戻ってくる。聞き慣れた学生の酔っぱらった声とそれを取り巻く女の甲高い声。いつもなら気に障る声なのに、何故だか少し安心した。
ベッドの中で快楽を拾うのは苦痛だった。私に触れるダイチの手。骨ばっていて、大きな手。お父さんとは違う、肉付きの薄い手。この手に触れたかった。好きだった。高校で初めて彼に出会ってから、ずっと好きだった。どこを好きになったのかも思い出せない。人殺しのような切れ長の瞳に殺されたのは私だ。通った鼻筋はやはり綺麗だなとか、少し乱れた歯並びはやんちゃに見えてかわいいなと私は彼の顔を見上げる。私の初めて、全てダイチにあげたのに、彼は何も私にくれない。ダイチに脚を開く前に付き合った男の子は勿論いたのに、取っておいたのだ。本当に好きだったのは、いつだってダイチだった。忘れようとして、逃げようとして他の男の子を好きと錯覚しようとして、できなかった。この温度に包まれていないと私は満足できない。ああ、私はずっとダイチのことを好きなのだ。愛してくれないことをわかっているのに、期待してしまう。その度に傷ついてきたのに。嘘だっていい。「好き」の一言を聞いてみたかった。彼を受け入れたまま、伝えてはいけない言葉を脳内で反芻する。間違ったふりをして伝えてしまおうか。彼はどんな顔をするのだろう。「俺も」なんて言うだろうか。それとも、もう抱いてなんてくれないかな。
「ね、まだ終わらないで」
催促するように手を伸ばした。過去の感情にしてしまいたい。この行為が終わったあとでも遅くないでしょう。そう思って何度目の夜だろう。彼は手を取る代わりに私の腰を少し強く掴んだ。このままどうか、殺してほしい。彼から伝わる熱も全て嘘だと言って。もう夢なんか見たくない。私自身にも、彼にも。
近くて遠い彼の熱を胎内に感じながら、目を閉じた。
「今日はいないんだ」
相変わらず私の仕事はキャッチばかりで、店内でお酒を振る舞うことは少なかった。テーブル越しの会話でも、やたらと手を触ってくる客もいる。湿った分厚い手。爪の長さは決まって不揃いで、少し黒ずんでいる。何を触って生きてきたのか問うてみたくなる。店内にいても、厭らしい目線を感じながら張りつけた笑顔で接客をしなければいけないのだと思うと、この制服が気温に対して少し薄いことくらい些細なことだった。
路上パフォーマーはその日によって入れ替わる。昨日は閉店時刻になってもパフォーマーは誰一人現れなかった。パフォーマンスに足を止めた客に声をかけるのが一番楽だ。都合のよく彼らの活動を利用することもできなくて、少し声を張る。普段出さない声を出したら、裏返ってしまった。誤魔化すように咳払いをして、髪をいじった。最近は彼らのパフォーマンスを暇つぶしに眺めるのがブームだっただけに寂しい思いだった。
先週は若い女の子によるジャグリングと空き缶ドラムのお兄さん。この前の上京ボーイはこの間見た以来見ていない。この街ではひとが集まらないと場所を変えたのだろうか。変える必要があるのは機材だろうけれど。
「お兄さん、一時間二千円で飲んでいかない?」
忘れかけていた営業スマイルでノルマのように目の前を通りすぎていくひとに声をかける。今日はまだ成果なし。私が声をかけなくても入るひとは入るし、入らないひとは入らないのだ。
「おにいさ……」
重そうにギターを背負ったイモっぽい青年が目の前を横切った。キャッチをかけようとしてその手を引く。あの青年だった。
初めて近くで見た彼の顔は少しだけダイチに似ていた。面長の顔に開かれた切れ長の瞳が私を捉える。息が止まりそうになった。目が合う前に必死に見なかった振りをする。振り返りかけた彼を無視して他の男に声をかけた。気のせいだったと彼は思えばいい。それとも、キャッチの女にも見向きされないと傷つくだろうか。横目で彼の歩む先をみる。偶然通りかかったのではない。今日のパフォーマーは彼だった。
相変わらず手際が悪い。何度目かわからない雑音混じりのトークをBGMにしながら夜の街を眺める。何度も聞いていると耳が慣れてきたのか言っていることが解読できるようになってきた。名前はユウというらしい。彼が話すのは地元の話と曲を作った時の恋人の話。同じ内容の話を同じ言葉で繰り返す。話の内容を殆ど覚えてしまった。次に話し出すのは初めて恋人から作ってもらった料理の話。ほら、言った通りだ。でも何回聞いても彼女に作ってもらったという料理名が聞き取れない。「か」から始まるのだろうということは分かった。その料理にはマカロニが使われているらしい。彼女がマカロニをお湯に溶かして無くしたくだりを聞きながらどんな料理なのかと毎度疑問を抱く。そもそもマカロニはお湯に溶けることはない。どうやったら消えてなくなるのだろうか。
手料理を最後に作ったのはいつだっただろう。それも恋人に振る舞う料理だ。高校生? その時は放課後デートしかしたことがなかった。目の下の黒子が色っぽい少し童顔の同級生で、バスケ部の彼の部活が終わるのを教室で携帯をいじりながら待っていた。あの時間は余計なことを考える必要がなくて、一番幸せだったように思う。しかし彼と共にいた時間を思い出せない。
その次の恋人は高校を卒業してから友人に誘われていった合コンで知りあった新米板前の男の子。料理を作ったら何を言われるか。それが気になって結局一度も作らなかったし、作る気も起きなかった。
その次に恋人ができたときには私はもうガールズバーに勤めていた。他の男に媚を売るのが腹立たしいとかなんとかいってすぐに険悪な雰囲気になって別れたから、大したデートもしていない。出会ったのはそのガールズバーだったのだけれど。媚を売ったらころりと落ちた男だ。その程度の器だったのだろうと今なら思う。
過去の恋愛を振り返って、溜息が出た。そこに私の幸せは転がっていない。いつだって、私の心の中にはダイチが残っていて、消えてくれなかった。彼をかき消すように色んな男と関係を持った。それなのにまた戻ってきてしまうのだ。そんなことをしても、彼の心は私のものにならないと知っているのに。
なんだか急にユウのことが羨ましくなった。失恋ソングと歌いながらも、愛して、愛されて、納得した上での別れの歌だ。決別のための歌ではない。過去を懐かしみながら写真を見返すような気持ちで歌っている歌だ。私にはできない行為だ。ぼんやりと見つめていたパフォーマンス。視線の先でギターをかき鳴らすユウと目があった気がして、思わず視界から彼を殺した。
「若い子いっぱいいるけど、飲んでいかない?」
無理をしてでも声を張る。自分の声で全て塗り替えてしまわなきゃ。あの音を聞いていたらおかしくなりそうだった。近くを通ったサラリーマンにわざとなれなれしく声をかける。迷惑そうにサラリーマンは眉を顰めて、こちらを見ないように足早に去って行った。キャッチの仕事すらまともにできない。店内にいたって居場所はないのに。でも、この仕事を辞めたところで私は何処に行けるの。欲に塗れて、塗れきれなくて、中途半端で生きている私に何ができるというのだ。それに、今更日の当たる仕事なんてできない。何年この場所で腐っていると思っているのだ。
「……私、なにしてんだろ」
夢を見ていたのは、小学生の頃の私だ。
私は、アイドルになりたかった。
歌の練習をしたり、可愛くなろうと化粧を覚えたりした。お母さんの鏡台に置いてあった赤いリップを勝手に使って怒られた。魔法の道具だと思っていた。化粧をすれば、私も可愛くなれる。なりたい自分になれると思った。
憧れたアイドルはテレビの向こうで愛を振りまくお姫さま。そんな女の子になりたかった。慣れると思っていた。だって、両親は私をお姫さまのように可愛がって育ててくれたから。そのせいで勘違いをしていたのだ。私は美少女でもなければ、お姫さまでもない。
そうはいってもただの漠然とした夢にすぎなかった。誰に話すわけでもなく、胸の中に仕舞っていただけの夢。オーディションのチラシを眺めては知らないふりをして素通りした。年齢を重ねて、アイドルになれるような若い女の子ではなくなった。子供が描く夢をおとなになる直前まで引きずって、そのまま捨てた。気がついたらその夢もゴミに姿を変えてしまっていた。現実味のある夢を上手いこと扱うこともできずに気がつけば若さを売ることでしか生きる術を見出すことができなかった。愛を振りまくおとなにはなれた。その愛は仮初だけれど。だから、私自身も本物の愛を貰えなくなってしまった。それにもう、若さも売りつくしてしまった。
ここに居続けるのも、アイドルのように可愛らしい衣服を身につけることができるからなのかもしれない。こんな堕ちたアイドル、誰も愛さない。見向きもしない。
私はあの青年に憧れている。
その事実が恥ずかしい。そしてとても情けない。何歳なのかわからないが、成人をしてそこそこだろう。あの年齢で、夢を叶えるために目に見える努力をしている。自分を信じて、その道を進むためにがむしゃらになれる彼が、私には輝いて見える。だからもう見たくない。彼の姿を、音を知るたびに、自分が惨めに思えてくる。彼の光が私の影を色濃く映す。もうやめてくれ。此処に来ないでくれ。我が儘な思いが渦巻いて、溢れだしそうだった。
相変わらず少し派手な化粧は自分を引き立たせるためではなく、夜の街に負けないための武装だし、己を着飾る制服は男性の欲を煽って来客を増やすためのもの。不格好にならないようにと整えたスタイルは、気がつけばただやつれて痩せ細っただけのみっともない身体だ。私自身のために努力をしていたのはもう何年前の話なのだろう。一体何にがむしゃらになればいいのかなんてわからない。この仕事をする前の生活は、もう思い出せない。
三十歳も手前になって、今になって夢を持つことなど無謀だ。夢を追いかけるのは若さがないと耐えられない。認めてくれない。この世の中は若くて綺麗な女の子にしか興味がないのだ。価値があるのは二十代前半まで。四捨五入して三十に変わってしまえばさようならだ。私は夢に本気になれなかった事実を十字架に変えて死んでいく。この店も既に世代交代が始まっている。私の明日はないかもしれない。いつクビを切られてもおかしくないのだ。ガールズバーの女の子は若いのが売りなのだから。
十メートル先でギターをかき鳴らす青年と目が合ったような気がした。彼の瞳がとても力強くて少しだけ怖くなった。鏡の中の私はいつだって死んだ瞳をしていた。現実だってろくに見られない女に夢の中なんて泳げっこない。
「もう、無理なんだなあ」
声に出したら、自分の中に何も残っていないことに気がついて、自然と涙が頬を流れていた。
何のために生きてきたのだろう。何もかも中途半端、何も為すことなく今日まで日々を浪費してきた。低賃金で男を悦ばせては愛のないセックスに溺れている。何かに必死になったことなどない。私の中は空っぽだ。気がついたら、看板を置いていた。影に居るのは嫌だった。一歩、踏み出す。人の波は私を拒む。それでも進まなければいけない。コスプレまがいの格好で街を歩きたくなんてなかった。数メートルだとしても地獄だ。そう思っていた。店の前でなければ、途端に異質な存在になり下がる。肌寒いのは、気温のせいか、人の視線のせいか。そんなことどうだっていい。頬を濡らす涙もそのままに観客のいないライブ会場へと向かう。
目を閉じたまま歌い続けるユウの前に来てしまった。紡がれる言葉は、近づいたほうがよくわかった。下手くそでありふれたラブソング、そう思っていた歌を彼は歌っている。目の前に観客がいることをわかっているのだろうか。観客と呼べる人は私以外誰もいなかった。私のためだけのライブ会場。彼のためだけの観客。都合のいい解釈で私はラブソングを聞く。私のこと歌っているなんて思わない。確実に知らない誰かに捧げる歌。それなのに、どうしてこんなにも苦しくなるのだろう。私、気持ち悪い。
彼が歌い終わると同時に私は手を叩いた。精一杯の賛辞だった。本来であれば、お金を置いて行くべきなのだろうけれど、財布は店の更衣室の中だった。ユウは驚いた顔で私をみた。目を開けたらコスプレ女が拍手を送っている。おまけにその女は泣いているのだ。驚きを通り越して恐怖かもしれない。
「あ、えと……ありがとう、ございます」
動揺した声で、彼はお礼の言葉を告げた。歯切れの悪い彼の声。その声を聞いてやっと、自分がここにいることを現実として飲み込んだ。ユウが困ったように笑っている。私に目線が注がれている。ダイチによく似た瞳で、私を見ている。目線が交わった。現実と思うには、時間がかかった。声が出なかった。先ほどのまでの自分と、今の自分が違う人間であるような気がした。思うように自分の身体を動かすことができなかった。何か言わなきゃ。ユウが何かを言いたげに口を開く。お願い、何も言わないで。
マイクを外して、彼は私だけに聞こえる声で「お店の、方ですよね」と問いかけた。
「惨めでしょ」笑えていたかどうかはわからなかった。
後から思えば、もっといい返事があったはずだった。
当然のように彼は否定するような言葉を並べる。折角の言葉を、私は覚えていない。
「いつも、あそこに立ってますよね」
「来ちゃダメだよ」
ユウは私が来た道を指さす。あの場所に夢はない。変わってほしくない。私のエゴが、彼の言葉を遮った。ユウが笑う。
「変なの。客引き、しないんですね」
「してほしかった?」ユウは小さく首を振った。「されたらどうしようかと思って」
私がなかったことにしたユウへの客引きを、彼はちゃんと受けていた。私の視線がすぐに他の男性へと動いたので、ほっとして少し駆け足にその場を去ったのだという。
「だって、俺。持ち合わせもないし」
困ったように笑う彼に私の全財産を分け与えたくなった。彼はきっと、お金があってもガールズバーなどという低俗な場所に足を踏み入れるような人間ではない。大衆居酒屋に行って、牛すじの煮込みをつつきながら、出汁巻玉子とほっきの並ぶテーブルを友人と囲んでビールを煽るのが似合う。そうであってほしい。
「こんな店、行くようになっちゃったらおしまいだよ」
制服のスカートの裾をいじる。タータンチェックの赤がくにゃりと歪んだ。どんな顔で私は彼と会話をしているのだろう。
「もう、歌わないんですか」
思い出したように私が彼に問いかけた。驚いたような顔をしてユウは私を見た。歌に興味がないと思われていたのだろうか。少しだけ焦ったような素振りを見せた。譜面台に乗せられたボロボロの大学ノートをペラペラとめくる。はらりと、手のひら大ほどの紙がノートから落ちていく。ユウは気がつかないままノートを眺めてはめくる手を止めない。
「何か、落ちましたよ」
私の言葉にやっと、手を止めたユウが紙を拾い上げた。写真のようだった。女の子とのツーショットのようだった。家族だろうか、それとも。
私の視線を咎めるように、ユウが私を見た。私はそれに興味はなかった。見られたくなかったものだと知った瞬間に興味が生まれてしまった。ユウのせいだ。
「あの、折角なんで一曲……」
ようやく、ページを見つけたらしいユウがギターを持ち直している。私には音の違いは分からないが、弦をはじいて何やらチューニングをしている。私以外に観客は増えていない。夢を追いかけて歌う彼に足を止めるのは、敏腕プロデューサーでも、拡散力の高いSNSユーザーでもない。ただのガールズバーの店員の女。一銭も持ち合わせていない、私は彼の稼ぎにも貢献できない。私しか聞いていないこの場所で、彼がこれ以上歌う必要があるのだろうか。
「やっぱ、いいよ」
「え?」
ギターに落としていた視線が上がる。呆けた顔。かまぼこのような形に彼の口が開いた。そのままゆっくりと切れ長の瞳が見開かれていく。
「だって、今。手持ちがないんだもの」
これ以上タダで聞くわけにはいかない。続けた言葉に遠慮するように彼が否定した。だから私は彼を否定した。対価を得ることを目的としないなら、ここで歌う必要はない。この街で歌う理由はない。それならば、早くここから出て行った方がいい。そうでないと、私と同じになってしまう。街に呑まれて影になる。誰かが光るために生きる、そんな存在に彼にはなってほしくなかった。
「ちょっと、待ってて」
ユウに背中を向ける。私のエゴにもう少しだけ付き合って。店から戻るまで、そこで待っていてほしい。好きだった男に顔が似ているからじゃない。私の夢を彼に重ねてしまっているわけでもない。理由は私にもよくわからなかった。触れてはいけないと思いながらも、触れたいと願ってしまう。人の波は大分穏やかになって、私を拒むものが無くなっていくように感じた。立て看板の隣には誰もいない。店の扉に手をかけようとして、勝手に開いた扉に顔をぶつけかけて、後ずさりをした。客が帰るところだった。前下がりボブの店員が猫撫で声で手を振る。思い出した様に私も手を振った。「アキさん、何してるんですか」低くなった声で私に問いかける。ブラウスのフリルを気にして、私のことは見ていない。のりが取れて、つけまつげが少し浮いている。変なの。
「私、ちょっと今日帰るわ」
「え?」
「だから、これ、お願いね。ナツミちゃん」
立て看板をトントン、と指で叩く。ナツミの背中を押して見せの外に置いて煙草とアルコール、香水の甘酸っぱい香りの混じった店内へ。決して良い香りではないのに、安心してしまう。ここが私の生きる場所。カラー蛍光灯が目に痛い。わざとらしい女の笑い声、酔いで何を話しているのかわからない男の声。これだけは不快だ。
「店長」
カウンターで注文の用紙とにらめっこしながらドリンクを作る店長に声をかける。気の抜けた返事。店長が私を認識するよりも早く、要件を伝えてしまう。「ごめんなさい、体調が悪くて。今日は帰ります」
一礼して、更衣室へと向かう。店長が私を止めたような気がしたが、よく聞こえなかった。更衣室の鍵をかけると、一気に身体が軽くなった。私を縛る制服を脱ぎ捨てて、オリーブ色のパンツに履き替える。降ろしていた髪を簡単にひとつにまとめる。少し濃く塗った口紅をティッシュで拭って、リップクリームで誤魔化した。まだ、ユウは待っているだろうか。ロッカーの鍵をポケットにねじ込んで、更衣室の扉を開ける。目の前に店長が立っていた。
「どういうつもりなの」
「すいません」
「体調、悪いなんて嘘でしょ」
「悪いですよ」
「ね、あの男に呼び出されたとかじゃないの」
あの男とは、ダイチのことだ。伊達に長いことこの店に居るわけじゃない。店長も知っている。数回、この店に来たことがあるのだ。私とセックスするまでの時間つぶしとして、だったが。店長に問われるがまま恋人でないと否定して、虚しくなったのは、忘れられない恋の証だったが、今ダイチは関係ない。
「もっと前向きな理由です」
「体調悪いことが?」
「……そうです」
溜息を吐いて、店長は私の肩に手を乗せる。「今日だけだからね」そのまま店内へと消えて行った。明日なんて言い訳をしよう。そんなこと、今考えなくていいか。
裏口の扉を開けると、人気のない裏通りに出る。にぎわう人の声が少し遠い。排気口の煙を避けながら人通りのある道へと向かう。ヒールを置いてきたから足が軽い。私はガールズバーの店員ではない。誰の視線も受けない。それだけで生きていると思えた。アイドルになりたかった癖に、世界のモブで幸せなのだ。もう私は雑踏でいい。
ユウは待っていた。ギターはすっかり片づけてしまっていて、店じまいをしていた。目の前にいる彼はパフォーマーの仮面を脱いでしまっていた。私は、パフォーマーとしての彼に用事があったのに、どうしてくれるの。そんなことは言えるはずもなく、携帯電話に目線を落としたままのユウに「お待たせ」と声をかけた。ユウは顔をあげて私を捉える。目が合って、一瞬、訝しむ様子を見せた。さっきまでとは真逆の格好だ。年齢相応の格好をしていれば、少しはまともな女に見えるでしょ。見えていてね。
「あ、さっきの……」
「待っていてくれてありがとう」
半分くらい、帰っていてくれないかと願った。店員とパフォーマーという壁を越えて何を話せばいいのかわからなかった。
「場所、変えない?」
「え」
「今日のライブ鑑賞代、払わせてよ」
喉を流れる液体がしゅわりと弾けて体内を刺激する。グラスを傾けたまましばらくそうしていると、世の中のことなどどうでもよくなっていく。舌の上に残る苦みと甘みを転がしながら、小さく溜息を吐いた。
「なんでも食べていいよ」
メニューを指して、私は目の前に座るユウに微笑んだ。遠慮する姿が可愛らしいと思った。歳は二十三だという。お酒の飲める年齢でよかった。未成年を連れ回す女にならなかったという点に於いても安心した。特別お洒落な場所ではない、普通の居酒屋に入って飲み物を注文した。運ばれてきたお通しと生ビール。重い音がしてグラスがぶつかった。衝撃で中身がグラスを伝って右手を濡らした。
「その、どうしてこんな」
「遠慮しないで」
ユウの言葉を遮って、メニューを押し付けた。諦めたように彼はメニューを受け取る。私はそれだけで満足して、またグラスの中身を煽った。困ったようにメニューをめくるユウを見つめる。伏し目でも、ダイチに似ている。性格は真逆なのに、こんなにも顔立ちが似ている。ツンとした口元が喋るときに横に開かれるのもそっくりだった。鼻の左脇に小さな黒子がある。ダイチにはない黒子だ。当然だ、ユウとダイチは別人なのだから。
「あ、俺……。なんか、顔についてますか」
「へ」
「その、凄い見てたから」
「あ、ああ。ごめん、ちょっと、知り合いに似てて」
「恋人ですか」
すぐに返事をすることができなかった私を見て、ユウが察したように「すいません」と小さく頭を下げた。
「違うの、気にしないで」
通りかかった店員に声をかける。ビールのお代わりと、出汁巻玉子、唐揚げとえいひれを頼む。ユウは壁に貼ってある手書きのおすすめメニューを指さす。懐かしのナポリタンと書かれた手書きメニュー。牛すじとほっきを頼む彼はここにはいなかった。大学生の選択肢にはないのかもしれない。
「いいじゃん」
店員を見送って、私はユウにからかうように笑いかけた。理想の中の彼とは違ったけれど、これはこれで嫌いじゃない。
「なんか、その渋いものが好きなんですね」
「おじさんぽいって思ったでしょ」
否定の仕草をとるのかと思ったが、彼は素直に頷いた。私は不貞腐れたふりをする。ユウは大学生らしいというか、少し調子のよい若者の受け答えをする男だと思った。悪い言い方をすればノリがチャラい。初めは警戒をしていた彼だったが、酒の力も手伝って、気がつけば同い年の友人のように距離を詰めていた。
「今更なんすけど、お名前、聞いてなかったですよね」
砕けた敬語で彼が問う。そういえば、名乗っていなかった。名前の知らない相手とそれなりの時間会話をしていたのだと思うと、彼のメンタリティに感心した。名前が必要な会話をしていなかっただけと言えばそれまでだ。もしくは、彼自身が気にしていなかったのかもしれない。私は少し考えて、彼の問いに答えた。
「ミサト」
アキとは答えなかった。店での名前を彼に教える必要はないと思った。店で彼には会わない。
「ミサト、さんっていうんですね。俺は」
「ユウ、じゃないの?」
改めて名乗ろうとする彼を遮って問いかける。照れたような困ったような顔でユウは目を伏せた。
「あ、それはなんというか、アーティスト名? で」
居酒屋のアンケート用紙を裏返す。備え付けられてあったボールペンでさらさらと漢字を書く。ふにゃりと歪んだ文字だった。お世辞にも綺麗とは言い難い。
「裕、って書くんです。本当の名前は『ゆたか』って言います」
「教えちゃっていいの?」
「いいんです」
裕は何杯目かのハイボールを傾ける。喉仏が数回上下した。ジョッキをテーブルに置いたときのごとん、という音がやけに大きく聞こえた。
「まだ、俺はユウになりきれていないから」
無造作に置かれたままのボールペンに手を伸ばす。彼の名前が書かれた脇に私の名前を書く。文字を書くのは苦手だが、裕よりは綺麗な文字だと思う。書いた文字をボールペンで指すようにして彼に見せる。
「私の名前。
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