20 / 389
第三話 欠落の二年間
第三話 三
しおりを挟む
「雪……」
まだ夜明けの遠い濃紺の闇の中に、白い雪片がふわふわと舞い散る。霊符を書くために禊ぎをする必要があるが、極寒の中の沐浴は想像するだけで身体が震えた。それでもあかりを想えばこそ、嫌だとは一切思わなかった。結月は足を止めることなく、屋敷にある禊ぎの場へと向かう。
沐浴後に、清めた仕事着である白の上衣と青の袴に着替える。袴に雄大に泳ぐ青い刺繡の龍を見ると、さらに気が引き締まる思いがした。
まずは墨を溶くための清明水を謹製する。汲んできた清水三升に日本酒五合と粗塩ひとつまみを加えて、「斗歩恵身忌為、祓い給え、清め給え」を八回唱えて完成だ。
謹製した清明水と筆、墨、青い和紙など諸道具を携えて青柳を祀る部屋に入った結月は、早朝の祈祷を済ませてから、霊符の作成を始めた。
青柳の神棚とは別に、南に祀る鎮宅霊符神の尊像の前で二度拝してから「遠去場他多、儀屋多万名家之木夜露丹」と二度唱える。そして二度拝した後、焼香し、両手を胸に充てて、立ち上がった。
「一心奉請、東神青柳、北辰妙見、真武神仙、韓壇関公、劉進平先生、漢孝文皇帝、霊符天神神、急急如律令」
勧請文を三度唱えると、次に鎮宅霊符神に捧げた八種の供物を普印で加持した。
「黍稷香しきにあらず、明徳惟れ馨し、沼沚之草、蘋蘩之菜、礼奠薄しといえども、志の敦厚なるを以て、昭かに之を尚享す」
唱えた後、さらに神酒を八葉印で加持する。
「此酒妙味、遍満虚空、祭諸神等、祭諸霊等、天福皆来、地福円満」
三度唱えて、柏手二回の後「大なる哉、乾なる哉、乾元亨利貞」と誦し、歯を八度叩いて鳴らした。それから結月は胸いっぱいに息を吸い込むと「乾元亨利貞」を百二十回唱えた。一切調子を乱すことなく唱え終えると、予め用意していた扇子を手にする。
「心上護神、三元加持、胸霧自消、心月澄明、大願成就、上天妙果」
これを三度誦してから瞑目し、静かな心の中に、青い光が月光のようにして天から降り注いでくる様を想像し、その光を一息で飲み込むようにした。それと同時に、その気を筆に吹き入れるよう強く念じて、青い生漉きの和紙に筆を走らせる。青い光の粒が厳かに光り輝いた。
丁寧に書き上げた数枚の霊符を壇上に置き、「乾元亨利貞」を心中で八度唱えて、霊符に対して刀印を構えた。
「青柳、白古、朱咲、玄舞、空陳、南寿、北斗、三体、玉女」
四縦五横に九字を切って、青い光がようやく収まり、符が完成する。
結月は詰めていた息を一度吐き出すと、諸道具とともに持ってきていた以前に作成した霊符の束を側に取り寄せた。先ほど書き上げたばかりの霊符も青柳の神棚の前に並べ置くと、霊符の効力を高めるために青柳と霊符神に祈るように三度奏上した。
「ここに七十二道の霊符神は、身上に具足し、青柳結月を守護し給え。夫れ神は万物に妙にして変化に通ずるものなり。天道を立て、是を陰陽と謂い、地道を立て、是を柔剛と謂い、人道を立て、是を仁義と謂う。三才兼ねて之を両つにす。故に六画卦を成す。天地位を定む。山沢気を通じ、雷風相薄り、水火相撃つ。八卦相錯って往を推し、来を知る者は、神なり。乾を奎と曰う。坎を虚と曰う。艮を斗と曰う。震を房と曰う。巽を角と曰う。離を星と曰う。坤を井と曰う。兌を昴と曰う。天地吉凶、神に非ずんば、知ること無し。故に八珍・八財・八菓・珍華・異香・美酒・甘肴を備え、やく祭を陳ぶ。仰ぎ冀くば、今日の祈主青柳結月、福寿増長、除災与楽、心中善願、決定成就、決定円満」
奏上の声が届いたかのように霊符がぱっと一瞬だけ青く光る。結月はそれを見届けてから、休む間もなく片付けを始めた。
縁側に出たら、室内に差し込んでいた日の出の光よりもずっと眩しいそれに、目が痛くなった。雪は降り積もるほど降らなかったようだが、冬の早朝の寒さははやり身体を芯から冷やす。
「あかり……」
太陽の光に、結月はあかりの笑顔を重ねた。そして、彼女はこの光を見られているだろうかと、苦手な寒さに体調を崩してはいないかと遠く心で呼びかけた。
しんとした中庭は、静寂を貫いた。
まだ夜明けの遠い濃紺の闇の中に、白い雪片がふわふわと舞い散る。霊符を書くために禊ぎをする必要があるが、極寒の中の沐浴は想像するだけで身体が震えた。それでもあかりを想えばこそ、嫌だとは一切思わなかった。結月は足を止めることなく、屋敷にある禊ぎの場へと向かう。
沐浴後に、清めた仕事着である白の上衣と青の袴に着替える。袴に雄大に泳ぐ青い刺繡の龍を見ると、さらに気が引き締まる思いがした。
まずは墨を溶くための清明水を謹製する。汲んできた清水三升に日本酒五合と粗塩ひとつまみを加えて、「斗歩恵身忌為、祓い給え、清め給え」を八回唱えて完成だ。
謹製した清明水と筆、墨、青い和紙など諸道具を携えて青柳を祀る部屋に入った結月は、早朝の祈祷を済ませてから、霊符の作成を始めた。
青柳の神棚とは別に、南に祀る鎮宅霊符神の尊像の前で二度拝してから「遠去場他多、儀屋多万名家之木夜露丹」と二度唱える。そして二度拝した後、焼香し、両手を胸に充てて、立ち上がった。
「一心奉請、東神青柳、北辰妙見、真武神仙、韓壇関公、劉進平先生、漢孝文皇帝、霊符天神神、急急如律令」
勧請文を三度唱えると、次に鎮宅霊符神に捧げた八種の供物を普印で加持した。
「黍稷香しきにあらず、明徳惟れ馨し、沼沚之草、蘋蘩之菜、礼奠薄しといえども、志の敦厚なるを以て、昭かに之を尚享す」
唱えた後、さらに神酒を八葉印で加持する。
「此酒妙味、遍満虚空、祭諸神等、祭諸霊等、天福皆来、地福円満」
三度唱えて、柏手二回の後「大なる哉、乾なる哉、乾元亨利貞」と誦し、歯を八度叩いて鳴らした。それから結月は胸いっぱいに息を吸い込むと「乾元亨利貞」を百二十回唱えた。一切調子を乱すことなく唱え終えると、予め用意していた扇子を手にする。
「心上護神、三元加持、胸霧自消、心月澄明、大願成就、上天妙果」
これを三度誦してから瞑目し、静かな心の中に、青い光が月光のようにして天から降り注いでくる様を想像し、その光を一息で飲み込むようにした。それと同時に、その気を筆に吹き入れるよう強く念じて、青い生漉きの和紙に筆を走らせる。青い光の粒が厳かに光り輝いた。
丁寧に書き上げた数枚の霊符を壇上に置き、「乾元亨利貞」を心中で八度唱えて、霊符に対して刀印を構えた。
「青柳、白古、朱咲、玄舞、空陳、南寿、北斗、三体、玉女」
四縦五横に九字を切って、青い光がようやく収まり、符が完成する。
結月は詰めていた息を一度吐き出すと、諸道具とともに持ってきていた以前に作成した霊符の束を側に取り寄せた。先ほど書き上げたばかりの霊符も青柳の神棚の前に並べ置くと、霊符の効力を高めるために青柳と霊符神に祈るように三度奏上した。
「ここに七十二道の霊符神は、身上に具足し、青柳結月を守護し給え。夫れ神は万物に妙にして変化に通ずるものなり。天道を立て、是を陰陽と謂い、地道を立て、是を柔剛と謂い、人道を立て、是を仁義と謂う。三才兼ねて之を両つにす。故に六画卦を成す。天地位を定む。山沢気を通じ、雷風相薄り、水火相撃つ。八卦相錯って往を推し、来を知る者は、神なり。乾を奎と曰う。坎を虚と曰う。艮を斗と曰う。震を房と曰う。巽を角と曰う。離を星と曰う。坤を井と曰う。兌を昴と曰う。天地吉凶、神に非ずんば、知ること無し。故に八珍・八財・八菓・珍華・異香・美酒・甘肴を備え、やく祭を陳ぶ。仰ぎ冀くば、今日の祈主青柳結月、福寿増長、除災与楽、心中善願、決定成就、決定円満」
奏上の声が届いたかのように霊符がぱっと一瞬だけ青く光る。結月はそれを見届けてから、休む間もなく片付けを始めた。
縁側に出たら、室内に差し込んでいた日の出の光よりもずっと眩しいそれに、目が痛くなった。雪は降り積もるほど降らなかったようだが、冬の早朝の寒さははやり身体を芯から冷やす。
「あかり……」
太陽の光に、結月はあかりの笑顔を重ねた。そして、彼女はこの光を見られているだろうかと、苦手な寒さに体調を崩してはいないかと遠く心で呼びかけた。
しんとした中庭は、静寂を貫いた。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説

【完結】貧乏令嬢の野草による領地改革
うみの渚
ファンタジー
八歳の時に木から落ちて頭を打った衝撃で、前世の記憶が蘇った主人公。
優しい家族に恵まれたが、家はとても貧乏だった。
家族のためにと、前世の記憶を頼りに寂れた領地を皆に支えられて徐々に発展させていく。
主人公は、魔法・知識チートは持っていません。
加筆修正しました。
お手に取って頂けたら嬉しいです。
【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる
三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。
こんなはずじゃなかった!
異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。
珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に!
やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活!
右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり!
アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。

転生貴族の移動領地~家族から見捨てられた三子の俺、万能な【スライド】スキルで最強領地とともに旅をする~
名無し
ファンタジー
とある男爵の三子として転生した主人公スラン。美しい海辺の辺境で暮らしていたが、海賊やモンスターを寄せ付けなかった頼りの父が倒れ、意識不明に陥ってしまう。兄姉もまた、スランの得たスキル【スライド】が外れと見るや、彼を見捨ててライバル貴族に寝返る。だが、そこから【スライド】スキルの真価を知ったスランの逆襲が始まるのであった。

初夜に「君を愛するつもりはない」と夫から言われた妻のその後
澤谷弥(さわたに わたる)
ファンタジー
結婚式の日の夜。夫のイアンは妻のケイトに向かって「お前を愛するつもりはない」と言い放つ。
ケイトは知っていた。イアンには他に好きな女性がいるのだ。この結婚は家のため。そうわかっていたはずなのに――。
※短いお話です。
※恋愛要素が薄いのでファンタジーです。おまけ程度です。
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

魔法が使えない令嬢は住んでいた小屋が燃えたので家出します
怠惰るウェイブ
ファンタジー
グレイの世界は狭く暗く何よりも灰色だった。
本来なら領主令嬢となるはずの彼女は領主邸で住むことを許されず、ボロ小屋で暮らしていた。
彼女はある日、棚から落ちてきた一冊の本によって人生が変わることになる。
世界が色づき始めた頃、ある事件をきっかけに少女は旅をすることにした。
喋ることのできないグレイは旅を通して自身の世界を色付けていく。

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる