【本編完結】朱咲舞う

南 鈴紀

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第一話 崩壊の雨音

第一話 四

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 結月ゆづきたちの視線を一斉に受けて、あかりは一度まぶたを閉じる。次に目を開いたときには、まるで別人のようなあかりの姿があるのみだった。普段の天真爛漫さは影を潜め、先ほどの悲しみも打ち払った彼女はまさに鬼神が乗り移ったような神妙で威厳ある空気をまとっていた。
 あかりが宙に右手を払ったのを合図に、皆もそろって動き出す。三人の動く気配を感じながら、あかりは呼び出した霊剣を構えた。
(今日の旺方おうせいごんの方向だから、西)
 まずは西に向かって旺気を吸い、十二回歯を叩いて鳴らしながら、心の中で無事の邪気払い成功を祈念した。次に、西に背を向けて勧請呪かんじょうじゅを唱える。
「天地の父母たる六甲六旬十二時神りっこうろくじゅんじゅうにじしん青柳せいりゅう蓬星ほうせい天上玉女てんじょうぎょくじょ六戊ろくぼ・ 蔵形之神ぞうぎょうのかみ、我が母神たる朱咲すざくに願い奉る」
 あまねく神々に声が、祈りが届くように、一心に奏上する。
 朱咲家の一族は言霊を操る能力に長けている。そのため、ただの祝詞も朱咲の者が謡うことで絶大な威力を持つようになる。
 あかりの祈りの声に呼応するように、霊剣のまとう赤い光の粒子が輝きを増した。
 そこでようやく、あかりが動き始める。結界内を円を描くように、禹歩うほの足運びで一巡りしていく。
「玉女、白古びゃっこ、朱咲、勾陳こうちん玄舞げんぶ六合りくごう、六甲、六神りくじん、十二時神に乗り、我を喜ぶ者はさいわいし、我をにくむ者はつみせらる。百邪鬼賊、我に当うむか者は亡び、千万人中、我を見る者は喜ぶ」
 二周目からは霊剣も振った。しなやかに踊るように、猛々しく斬りつけるように、ひとつひとつの動作に気をこめていく。
「今日の禹歩、上は天罡てんこうに応じ、玉女傍らに侍り、下は不祥をく。万精を厭伏えんぷくし、向かう所わざわい無く、治す所の病はえ、攻むる所のものは開き、撃つ所のものは破し、求むる所のものは得、願う所のものはる。帝王・大臣・二千石の長吏、我を見て愛すること赤子の如し。今日、玉女大臣、我に随いて進まんことを請う」
 ぴたりと踏み出した位置に戻ってくると、次に東、南、西、北へ順に体を向けながら、各方位神の勧請を願う。
「東方諸神、功曹・太衝・天罡・青帝・甲乙こうおつ大神。南方諸神、太乙・勝先・小吉・赤帝・丙丁へいてい大神。西方諸神、伝送・従魁・白帝・庚申こうしん大神。北方諸神、登明とうみょう・神后・大吉・黒帝・壬癸じんき大神にも願い奉る」
 儀式も半ばに差し掛かったころ、すばるの強力な結界を潜り抜けて狐の式神があかりに突進してきた。祝詞奏上に集中しているあかりはそれには気づかない。
「ちっ、逃した!」
 秋之介あきのすけの舌打ちに反応して、結月ゆづきは振り返ることなく霊符を背後に放った。
雷火焼炎らいかしょうえん急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう
 狐に張り付いた霊符が青い光を放つと同時に、真っ赤な炎が燃えあがる。狐は白い和紙に戻り、端から炎にのまれて、やがて完全な灰になった。
「悪かった」
「いい。それより、前見て」
 きりなく式神が迫りくる。ほとんどが昴の結界に追い返されているが、ときおり放たれる強力な式神は結界を潜り抜けてしまう。あかりの儀式を邪魔させないよう、結月たちは必死に防衛する。
 その甲斐あって、あかりの儀式は滞りなく進み、|乾坤二儀交泰の呪文に入っていくところだった。再び円を描き、舞い踊る。
「乾尊燿霊、坤順内営、二儀交泰、六合利貞、配天享地、永寧粛清、応感玄黄、上衣下裳、震離艮巽、虎歩龍翔、今日行算、玉女侍傍、追吾者死、捕吾者亡、牽牛織女、化成江河、急々如律令」
 次いで玉女を勧請する呪文を唱える。
「艮上玉女、速来護我、無令邪鬼侵我。敵人莫見我。見者以為束柴。独開我門而閉他人門」
 疲労が祟り重たい身体も、雨に濡れて冷え切った指先やつま先も気力だけで動かし続ける。声が震えないように、己を𠮟咤した。
(朱咲様、どうかお力を……!)
 結界中にあかりの歌声が響き渡った。
「天神の母、玉女。南地の母、朱咲。我を護り、我をたすけよ。我につかえて行き、某郷里に至れ。杳杳冥冥、我を見、声を聞く者はなく、そのこころる鬼神なし。我を喜ぶ者は福し、我を悪む者は殃せらる。百邪鬼賊、我に当う者は亡び、千万人中、我を見る者は喜ぶ」
 唱え終わった直後、目を焼くような閃光が霊剣からあふれ出た。光の奔流が結界内を赤く染め上げる。
 襲い来る式神が怯んだように動きを止めるのを、結月たちは見逃さなかった。隙をついて、次々と無力化していく。
 あかりは結界の中央で霊剣を宙に突き出し、四縦五横の九字を切りながら、禹歩を踏んだ。
「青柳、白古、朱咲、玄舞、空陳くうちん南寿なんじゅ北斗ほくと三体さんたい、玉女」
 最後に気の全てを霊剣と言霊に注ぎこみ、大喝一声、「急々如律令!」と唱え、周囲を斬りはらうようにして剣を振りぬいた。あかりを中心に赤い光の輪が拡がっていく。
 波紋を描くように、近いところにいた式神から消滅していく。式神使いたちもばたばたと気絶して倒れていった。
 ある程度ことの成り行きを見守っていたあかりだったが、ふっと膝から力が抜けた。
「あかり!」
 結月が真っ先に駆け寄ってきた。人間姿に戻った秋之介と昴も身を翻す。どうやら邪気は一掃できたらしい。
「よく頑張ったな」
「これで形勢が逆転したかも。あかりちゃんのおかげだよ」
「ううん。三人が、護ってくれた、から」
 あかりが乱れる呼吸の合間に途切れ途切れ言う。四人は顔を見合わせて微笑んだ。
(これで、戦いは終わるはず……)
 静寂を支配するのは雨の音だけだ。戦いの気配は全く感じられなかった。
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