【本編完結】朱咲舞う

南 鈴紀

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第一話 崩壊の雨音

第一話 一

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第一話 崩壊の雨音


 最後に太陽を見たのはいつだったか。厚い雲が空を覆うこと、ひと月以上。断続的に降る雨だったが、今日はいつものような小雨ではなく、地を打ち付けるような強い雨脚だった。
「あかり、大丈夫?」
 雨の音にかき消されそうなほど小さな声だったが、その凛とした澄んだ声ははっきりと呼びかけられた少女の耳に届いた。
 雨に濡れたせいか、それともひと月にも及ぶ戦いのせいか、やけに袂や袴の裾が重く感じられる。それでもあかりは気丈に振舞う。疲れや絶望に近い感情を振り払うように、強く頭を振った。巫女のように後ろで束ねた髪は長く、赤い毛先と滴が視界の端に飛び散った。
「私は大丈夫だよ」
 言葉の通り、大きな丸い瞳は赤くきらめいている。希望を信じている、力強い眼差しだ。
「でも、あかりは水、苦手だし……」
「心配してくれてありがとう。こんなときでも結月ゆづきは優しいね」
 あかりがふっと表情を和らげ微笑むと、相手の青年は虚を突かれたように目を丸くした。そうしていると変化に乏しい端正な顔もいくらか幼くなり、愛嬌さえあるように感じられる。
 白皙はくせきの肌、目にかかる前髪、長いまつ毛に、通った鼻梁、薄い唇、細い顎。纏う雰囲気は憂いを帯びて、儚げで、いっそ艶っぽい。うなじで結った綺麗な青い髪は肩から垂らしているが胸下まであり、それもまた女性のような繊細な美しさを醸していた。しかし、一見すると線は細いが、日頃の訓練や稽古もあって体格は男性的だ。あかりより一歳年上なだけだが、男女の差というべきか、あかりが軽く見上げるほどに身長もあった。
 青い瞳は、普段は凪いだ湖面のように穏やかで、月光を灯したように優しい。不器用な彼の言動以上に心の内をよく表すその瞳が、あかりは大好きだった。
 今だって優しい色は変わらない。あかりを心底から心配しているのが、言葉以上に伝わってきた。
 結月の思いを無下にするのは、本意ではない。できることなら今すぐ雨のしのげるところへ駆け込み、雨の滴を払いたかった。……こんな戦いなど早く終わらせて、温かい部屋で、幼なじみ四人でおしゃべりしたかった。
 迫りくる殺気に、甘い空想さえ打ち砕かれる。
「来た!」
 結月も同時に気づいたようだ。特に表情を変えずに、あかりに頷き返した。
「式神使いが二人に、式神が二体」
 右の袂から十数枚の霊符を取り出して、結月は前方をひたと見つめた。
除災与楽じょさいよらく身上護神しんじょうごしん急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう
 結月の静かな声に呼応して、左手に握る霊符のうちの二枚が青く発光した。光と符が空気に溶けるようにして消える。
 直後、殺気が姿となって現れた。
「見つけた! あの赤と青の袴……。間違いない、四家よんけ朱咲すざく青柳せいりゅうだ!」
「子どもだが、油断はできない。……行け、飛燕ひえん!」
 男の号令によって式神が突っ込んでくる。あとに続くように、もうひとりの男の式神である狼も襲い掛かる。
 燕はあかりを標的にした。
 狼の方は結月に向かっていったようだ。視界の端で青の光が閃くのだけがわかった。
 眼前から目を逸らさず、あかりはさっと宙に右手を滑らせた。瞬きの間もなく、その手に赤い光の粒子をまとった霊剣が現れる。粒子の霞の合間に白銀の刃がきらりと覗く。
「青柳、白古びゃっこ、朱咲、玄舞げんぶ空陳くうちん南寿なんじゅ北斗ほくと三体さんたい玉女ぎょくじょ
 九字に合わせて、足を引きずるように九歩、地面を踏みしめる。同時に、四縦五横に剣を振った。赤い光が弾け飛び、あかりの周囲でふわりふわりと舞い踊る。
 洗練された動きに隙はなく、謡うように九字を唱え、しなやかに舞う姿は神楽のようであって、鬼気迫る空気をまとい力強く霊剣を斬るように払う姿は剣舞のようでもあった。
「急々如律令!」
 目の前に迫る燕に向かって、霊剣を袈裟懸けに斬り下ろした。
 瞬間、燕は白い和紙に変じてしまった。
 飛燕を使役していた男が、焦ったように懐から小さな和紙を取り出そうとしたが、その前にあかりは男に向かって駆けて行く。速度を上昇させながら、即座に人を気絶させる遠当法とおあてほうを唱える。
安足遠あんたりをん即滅息そくめつそく平離乎平離びらりやびらり即滅名そくめつめい斬斬鬼命ざんざんきめい斬鬼精ざんきせい斬足火温ざんだりひをん志緩式神しかんしきじん新雲あたらうん遠是蘇をんぜそ斬斬平離ざんざんびらり阿吽あうん絶命ぜつめい即絶そくぜつうん斬斬足ざんざんだり
 あっという間に間合いに入れると、最後の一言とともに剣を振り払った。
斬足反ざんだりはん!」
 男は驚いた表情のまま、後ろに倒れこんだ。あかりの霊剣は邪気を払っただけなので、男に刀傷はない。むしろ心なしか穏やかな顔で気を失っていた。雨ざらしというのも気の毒に思えたので、霊剣を消したあかりは手近な軒下に男を引きずって運んでおいた。すると、決着がついた結月も気絶した男を肩で支えてやってきた。
「あかり、怪我はない?」
「うん。結月も大丈夫そうだね」
 結月はそっと男を横たえると、背後を振り返った。あかりもそちらを見ると、白い虎が猛速度でやってくるところだった。
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