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第1章 始まりの章

1話 日常との乖離<挿>

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「さぁ、もっと近くに……。もっと近くに来なさいっ、……はぁ、はぁ、力のない者は生き残れない弱肉強食のいい時代だねぇ、はぁはぁ……」


 恰幅の良い男から生えたブヨブヨとした腕に抱き締められている1人の少女。
 抱かれたままに、少女は眉一つ動かさないまま男の背中に指先を立てていた。


「続きは?」


 淡泊に少女は催促する。
 男の声とは、真夏と真冬以上の温度差があるものの男は気にも留めていない。


「……はぁ、はぁ、もっと、もっと獣的に、ビィギィヤアアッ!?」


 少女の指先が、下手くそにマニキュアを塗りたくったような血色に染まった。
 その指先が暗闇の中で妖しく光り、ズジャズジャッ、と∞を描いて赤い肉団子を二個作りあげる。
 肥えた中年男、その死体の出来上がりだった。


「――しかし豚だ。それもまるまるに肥えた豚だ」


 市民党議員・かねたる、テレビでの露出が極端に多い男だ。
 トップアイドルよりもワイドショーを賑わせている、幼稚園児でも顔くらいは知っている超が付くほどの有名人である。
 少女の目の前に転がっているのは、そんな男の出来たてほやほやの死体だった。


「……仕留めた」


 最先端のテクノロジーが詰まっているらしい無線デバイスに告げる。
 いつもと同じで返事はない。
 伝わった。こっちもそれだけが分かれば良い。


 昔から悪徳政治家の汚職は絶えない。
 耳にたこが出来るくらいに聞かされていた。
 徹底的なすりこみ教育。そう思うくらいに子守歌は政治家の悪口だった。


 それもあってこの組織に入る前から、その汚れ具合は知っていた。
 しかし今ほど荒んだ時代、過去にはないだろう。


(……私のような子供の手さえ借りたいのだから)


 少女の名は加瀬ナツキ、法では裁けぬ悪を消す、そんな忍び衆の末裔である。
 暗殺依頼の完遂は、今宵で3度目となる。


『弱肉強食のいい時代だね。もっと、もっと獣的な時代ニビィギィヤッ!?』


 この言葉を最後に、市民党議員・かねたるはホテルの一室で息絶えた。


「弱肉強食、……ね。より強い力に葬り葬られたのなら本望よね? ……んっ」


 男の腕ほどの太さしかない、ピンッ、と引き締まったナツキの太もも。
 そこに、ぽつんと一滴(ひとしずく)の雨でも漏ったかのようなコインサイズの血痕を見つけて、暗殺少女はポケットティッシュで拭き取りそのまま燃やした。


 ぼわっ……、と視力が殆ど役に立たないまっ暗な空間に光が灯り、それが証拠とともに次第に小さくなっていく。
 そんな中でのことだった。


「シュパンッ!! ……て、すごい早業での証拠隠滅ねぇ~ん♪」


 低い声を無理やり高くしたような不気味な声と一緒に、油みたいに粘つく気配がねっとり背中に染みてきた。と同時に、ナツキはクルクルンッと空中で二回転して背中の悪寒から離れ、最低限の挙動で振り向いた。


 悪寒の正体は、黒装束に包まれても筋骨隆々な骨格を隠せない人影だった。
 ナツキと比べて一回り以上も大きな影は、男と見て間違えないだろう。


「政治家~、それも大物を狙っての犯行~。もっとごつい子を想像していたんだけどぉ~? それがまさか小学生くらいの女の子なんてびっくりねぇ~♪」


 声は男だが言葉遣いは女、というよりもオネエだった。


「小学生じゃない。これでも一応高校生、……だっ!」


 気にしている低身長を馬鹿にされて、ナツキは影から影へと飛び越えた。
 影と影のあいだを自由に行き来出来る影遁えいとんの術である。


 黒装束のオネエが素人ではないにしても、術の存在が知られていなければ一撃で葬り去れる必殺の術だ。
 くノ一少女は影から現れるなり、逆手に持ったクナイで迷い無しに斬り上げた。


 ガキィイイイイイイイイイイインッ!!!


 金属を叩いたような甲高い音が響いて、ナツキは眉間を僅かに狭めた。
 オネエの首元には、挙動に支障が出そうなくらいに頑丈な防具が仕込まれていた。
 まるで鋼鉄製のコルセットだった。


 それに、オネエは懐に飛び込んだにもかかわらず、驚いた様子さえなかった。
 持ち合わせている術を知っていて、あえて防具で受け止めたようにである。
 それでもフードは切り裂けた。


「お前は、……かねたるの、秘書」


 顔まで斬り裂いた、と見間違えてしまうほど見事に割れたケツあごが、裂いたフードから現れた。ついさっき始末したかねたる、その秘書でしかない男だった。
 テレビで見かけたことさえ殆どない。
 任務を請け負ったからこそ覚えた顔だった。


「あらぁ、バレちゃったかしらぁ♪ でもー、あなたもよっ♪」


 オネエの人差し指と親指の間に摘ままれている一本の長い髪の毛が、キラリンッと月明かりを跳ね返していた。


(私の髪の毛――。ふん。……それだけじゃ、……何も出来やしない)


 サウスポーと脱力とを行き来する軽やかなステップを踏みつつ、ナツキは次の一手を考える。


「風魔の忍者。あ! 女の子だからくノ一ねぇ~♪」


 摘まんだ髪の毛を、シュルンッとそうめんでも吸い上げるように含むなり、確かにそう言われた。
 動揺から僅かに足取りを乱されてしまう。


「やっぱり。……確かぁ~、ナツキちゃんっていったかしらねぇ? 一番下のお嬢ちゃんまで借り出されるなんて、風魔も大変ねぇ。人手不足丸わかりっ……」


(……なんか、色々バレてる。……こいつも忍者か)


                  ※


 ――つい先週、おじいちゃんとの間で小遣いを値上げるための交渉が行われた。


「おじいちゃん。小遣い増やして。一ヶ月の小遣いが国の定める最低賃金を下回っているのはおかしい。違法」


「ならんっ!!」


「じゃ、バイトする」


「仕事ならいくらでもやるわ~い」


「学生のうちは忍者が絡む仕事はしない」


「月初めの小遣いを増やすだけではない。――手伝いをする度に二乗じゃ」


(二乗って……正気?)


 一ヶ月の小遣いは500円だった。
 友だちにも言えない、知られる訳にもいかない金額である。
 月初めに投げ付けられて、キャッチして終わり。
 間違えようもなく、確認の必要もないワンコイン。


 しかし、二乗となると250000円。
 それから先が500円の三乗になるのか、それとも250000の二乗になるのかは分からない。聞く必要も無いくらいにどっちに転がっても良い。
 はっきり言って恐ろしい金額だ。


 しかしそれでも忍者が相手となると、一生分の小遣いをまとめてもらわないと割に合わない。前倒しして使っておかないと割に合わない。
 命を落としかねないのだ。忍者を相手にするとはそういうことだ。


 オネエは身のこなしだけでもはっきり分かる忍者だった。
 つまりはナツキの同業者である。


 政治家の暗殺。はっきりいって、この時点で小遣いの値上げでは割に合わない。

 有名どころの風魔忍軍の息女である以上、忍びの道への入道は避けて通れない。
 それを分かっていても、せめて高校、出来れば大学を卒業するまで普通の女の子をしていたかった。


                  ※


「どこの誰かは知らないけど、正体を知られた以上生きては帰さないから」


 ナツキはクナイを逆手に構え直した。


「ずいっぶんわっるい台詞吐き慣れてるわねぇナツキちゃん。サマになってるわ!」


「悪党三人も殺したんだから、いやでも悪党の仲間入りだ」


 影から影への転移による奇襲は、見事なまでに失敗した。
 毎度愛用しているクナイは、より強度の高い防具に防がれた。


(でも、……これは防げない)


 話も途中――。
 前触れ無く、ナツキはオネエの背後の影へと飛んだ。
 忍べないなら忍ばない。
 忍び隠れるつもり一切無しに、ナツキは大太刀振るいながら姿を見せる。


 ジュブァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアンッ!



 オネエの武骨な腕がクルクルと舞いながら、スィートルームを血で汚す。
 落下し終える前に追い打ち掛けようと距離を詰めた。
 んっ……。
 しかし、突然ナツキはバックステップで距離を取る。
 視界の縁が僅かに滲んだのだ。


(毒……、か ――それでも腕を奪った。忍びが相手なら十分な戦果)


 ――勝負はついた。


 グチャッ! ビルからトマトが落下したような汚い音と一緒に腕が床を汚した。


「あっらぁ……。右手がなくなっちゃったわね。風魔にすごい子がいるって聞いてたけど、一番下の子だったんだぁ。ほんと危なかったわぁ」


(腕を飛ばされて危なかったって……。なんて危ない奴だ。――これだから忍者は相手にしたくない)


「毒でも盛ったの? 太ももに垂らした血にでも忍ばせていたの? すぐに拭き取って燃やしたおかげで効きが弱いわね。お前は致命傷みたいだけど」


 転がったままのオネエ腕を、ブンッと振るった刀の先で指差して言った。


「そうねぇ、その腕は使い物にならないわ。この場は逃げた方がいいようね」


 前腕をまるまる失ったというのに掠り傷くらいにしか思っていない、そんな飄々とした態度だった。
 だらだら流れる血をそのまま、現れたであろう天井にフックを引っ掛けている。


「あら? 追いかけてこないのかしらぁ」


「どうせ、おまえは死ぬからね」


「あら。優しいのねぇ。んふふ♪ ――また明日ね。ナツキちゃん」


 残された手首から飛び出たワイヤーフックがギュインッ! と戻る反動を利用して、オネエは天井へと消えていった。


(……なにがまた明日だ)


 どこの忍軍に属する忍者なのかさえ分からなかった。
 出来ることならばこの手でトドメを刺してしまいたかった。
 死に姿を目蓋焼きつけてから眠りにつきたかった。


 しかし、太ももから入りこんできた毒は、正直そんなに弱い毒ではなかった。
 深追いすべきじゃない。そう身体が判断する程にだ。
 相手が手負いの輩だとしてもだ。


 それに今夜は今までの任務とは比較にならない大物政治家を消したばかり。
 ホテルの外ではパトカーの音もうるさいし、人目は避けた方が良いだろう。
 仲間を呼んでいたとしてもなんら不思議ではない。
 それにあの怪我だ。すぐに野垂れ死ぬだろう。


 その判断から、ナツキは不安材料を残しつつも自分に言いきかせて、深追いすることなく人知れず殺人現場を後にするのであった。


 ――また明日ねナツキちゃん。オネエに言い残されたこの日が、現世と淫獄の境目となることを、オネエの台詞が苦し紛れの捨て台詞でなかったことを、このときのナツキが知る由はなかった。

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