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(11)2人のオオカミ
しおりを挟む銀髪の男が、ダントンの頭を掴んで窓ガラスにたたきつけた。板張りのテラスにつながる、大きな窓が粉々に割れる。恐怖から、反射的にルチアは叫んだ。それと同時に、彼は後頭部がざわざわする感覚がした。それは今日、食器屋の前を通ったときの状態と似ている。自分の中の「ゴールドリップだった誰か」の記憶が騒いでいる気がした。
(僕はこの人を知ってるの…?)
いつもなら記憶がパチンッと風船のように弾けて、何かを思い出す。王都を訪れたときは、食器屋の店長と話したり、お客に接客をする場面が見えた。
だけど、今は何も見えない。ガラスの破片にまみれたダントンが横たわり、その様子を場違いなほど爽やかな笑顔で見下ろしている男を見つめるしかできなかった。
「ルチア! 大丈夫!?」
マントで家に戻ってきたジュナチが彼に抱き着く。必死の形相で、ルチアに怪我がないか確認している。薄いセーターは傷1つなかった。うなずいたルチアは、なんとか今の状況を説明しようと外を指す。
「ダントンがあの男に…こ、殺されちゃうんじゃ…」
言葉が整理できなくて、唇が震える。ジュナチはバッと勢いよく、テラスから続く芝生が広がる庭を見る。
「なんで、なんでパースさん…」
ルチアはその名前を聞いて、ジュナチが前に話していた人物だと理解した。「優しい人」というポジティブな言葉で紹介された人物が、今ダントンの腹を蹴った。
「…!?」
ジュナチが庭に飛び出そうとするのを、ルチアは腕を掴んで引き留めた。争いに巻き込まれない最善の方法は、距離を置くことだ。ジュナチを行かせないように細い腕を自分のほうへ引き寄せる。
「ダメ、絶対に行っちゃダメよ」
肩に手をまわして落ち着かせるために静な声で言っても、ジュナチは聞かなかった。体をもがいてルチアの言葉を拒否する。
「だって、ダントンが!」
涙をためた目を見て心が痛くなる。だけど、ルチアは力を込めた。マホウビト同士の激しい戦いに近寄れば、ナシノビトはあっけなく命がなくなる。
≪来るな…≫
ジュナチたちの耳に、魔法を使って囁いたダントンの声が聞こえた。そう言われても、何もせずに見ているなんてジュナチにはできない。だけど、考えても考えても混乱した頭では彼を助ける方法が見つからなかった。
「ダントン!」
必死に名前を叫ぶしかできない。
芝生の上に寝転ぶダントンの呼吸は浅く、ぱっくり割れた額のせいで、顔が赤く染まっていく。それを見ていたパースは、汚れた彼から少し距離を取った。なぜか、立ち上がる時間を与えようとしている。
「マントの中にこんな美しい場所があるなんて、面白いですね」
遠くの海を眺めて、踊るように両手を広げた。その笑顔は心から楽しそうだった。
「………、」
ゆっくりと起き上がり膝をついたダントンはちらりとリビングにいるジュナチを見た。彼女が自分たちから遠くにいるか、確認をしている。決して巻き込みたくなかった。
「他を見る余裕はないでしょう、バカですね」
呆れるようにパースが言えば、
「…るせ、」
いつもどおり生意気な言葉が返ってきて、ふっと鼻で笑った。ふらふらと立ち上がったダントンの重心は低く、攻撃の構えはすでに整っている。
「思ったより早く立ち上がりましたね、偉い偉い」
「………、」
ダントンは黙ったまま、作戦を考えていた。目の前で余裕そうに立つパースは構えてもいないが、攻撃しても稽古のように簡単にかわされて終いだろう。かといって逃げることも叶わない。街中でやられたように、後ろをついてくるのは簡単に予想できる。
(だったら、どうにかして殴る)
作戦を考えようにも出てこない。ならば、力技しかないと結論付けて、地面を蹴った。
「愚直で呆れますよ」
囁いたパースは、こう続けた。
「これは稽古じゃないんです」
その言葉にダントンはひっかかる。確かに、今自分がわけも分からず巻き込まれているのは「死闘」であり、稽古ではない。しかしなぜか、「稽古中は魔法は使わない」というルールが微妙に適応されている。移動や浮遊魔法を使っても、攻撃魔法には一度もお互い頼らなかった。
それに、ハッとダントンは気づく。ボロボロになった自分がそのルールを律儀に守る必要はなかった。頭のどこかでは、パースに遠慮をしていたのかもしれない。
「———ウラァッ!」
振り上げた拳を、思い切り顔に当てようとしてもパースはするりとそれを避ける。その動きを予想して、彼の顔、胸、足元に爆ぜる炎を打ち込んだ。当たれば確実に火傷と裂傷のダメージを与えられる魔法だった。
パースはよろけるように後ろへ下がり、
「熱いですね」
そう軽く言ってダントンを見た。どこにも怪我はなく、汚れさえない。
ダントンが舌打ちをしてもう一度地面を蹴ろうと構える。
「攻撃魔法はアリにしますか。せっかくやめておいてあげたのに」
やれやれと頭をゆるく振るパースのしぐさにカチンときて、ダントンは吠える。
「今まで加減してくれてありがとうってか? 加減も何もねーだろうが! バカスカ殴りやがって…!」
「それは、しかたないんですよ」
余裕だらけで笑うパースの様子に、なおダントンの感情は高ぶった。
「———っおら!」
怒りのせいか、爆ぜる炎が大きくなったが、パースが魔法で編み出した水の塊が現れる。炎は包まれ、跡形もなく消えた。
(全身マルコゲになるくらいの、もっとデッケェ炎を作ってやる)
そう安直に考えたダントンは、ひとまず距離を取ろうと地面を蹴って後ろに下がろうとした。瞬間、上から重く何かがのしかかり、地面に両ヒザをついた。
「潰れて、終わりです」
パースの魔法で、空気の塊がダントンを地面に押し込んでいく。
(風を固めた…!?)
風を操る魔法は一般的だが、重さを変える魔法はこの世界のマホウビトでも数えるほどしか使えないと言われる。それを、パースは簡単にやってのけた。
(こいつ、なんだよ…!)
しゃべることもできず、両手をつけば地面に両指がめり込む。ポキンポキンと指が折れる音が響く。重さはどんどん増していき、胸も腹も地面について、背中の骨がきしんでいる。逃げるためにどうしたらいいのか、ダントンは鈍くなった思考で考える。
「ジュナチさんと一緒にいる人が、君をそそのかしたんでしょうか? 君に彼の匂いが付いていますね」
その言葉に、ドクンと心臓がはねた。「彼」が、ルチアを指しているのはすぐ理解できた。そして、ダントンはパースの関心事を自分に戻さなければいけないと強く思った。ルチア、いやゴールドリップは、ジュナチがなによりも大事にしているものだから。
ソファーの裏に隠れていたジュナチたちは、背もたれから頭を半分出して、ダントンとパースの戦いを見ていた。ダントンが劣勢だとわかり、ルチアは提案をする。
「ジュナチ、マントを使って逃げましょう」
彼女は頭を横に振って、拒否した。
「絶対にありえない。だったら、ルチアだけ安全な場所にいて」
「それこそ、ありえないわ」
ひそひそと話す2人は、真剣な顔で見つめ合っていた。キイはルチアの頭の上で、その会話に参加するように静かにしている。
「私ね、考えがあるの」
ジュナチは自分のポーチをゆっくりと開けた。中の魔法道具を確認する。
「パースさんは、自分で弱点を言ったんだ。どうにかできると思う」
ジュナチはルチアをまっすぐ見る。
「私は外に行くよ」
その真剣な表情に飲まれそうになるが、ルチアは行かせたくなかった。今すぐにでも彼女を別の場所に移したかった。彼女が無事であることが、なによりも大事だ。
「だったら、その考えてること、僕にやらせてちょうだい」
これ以上の妥協点はないと、強く言う。
体がつぶれかけているダントンは魔法を使って、パースに言葉を送る。
≪…ジュナチと一緒にいる奴じゃない、別の奴だ≫
ウソをつらつらと伝える。
≪そいつが、オレの生まれた場所を教えてくれた≫
その言葉は、訓練所でパースに言われた言葉を引用したものだった。
―――誰に会ったか、教えてください。その人から「王とゴールドリップのつながり」を探るように言われたなら、なぜキミが選ばれたのかもネ
―――キミはもしかしてその人から、ご自身の「出生」について教えてもらいましたか?
なぜかパースは、ダントンがゴールドリップと国王の関係を探る理由を「誰かから自分の出生について聞いたせい」という妙な考えを持っている。それを思い出した。
ダントンの言葉を聞くと同時に、パースは魔法を消した。ダントンの体を押さえつけるものがなくなった。
「誰に、なんと言われましたか…?」
パースがゆっくりと探るように聞く。近寄って、ダントンの顔を覗き込もうとした瞬間、地面を思い切り蹴った足がパースの首をめがける。
ゴキュン、
その足は簡単に掴まれ、そしてパースは顔色一つ変えずにそれを折った。
「…ッう゛ぁ!!」
「騙されちゃいましたネ」
次の瞬間、横たわるダントンの鼻と口を透明の水の塊が覆う。それを払おうとするが、不可能だった。もがくダントンをじっとパースは真顔で見つめていた。
「落ちてッ!」
突然、後ろから聞こえた男の声とともに、パースの真上から一筋の閃光が落ちた。彼は浮遊魔法で素早く避けて、声がしたほうを見れば、テラスに2人の影があった。雷の石をいくつも持つルチアの横に、険しい顔をしたジュナチがいる。親指にはめた筒をまっすぐに前へ構えていた。
「発射っ!!」
パースに向かってドン!と何かが放たれる音が聞こえたが、筒からはなにも飛び出してこなかった。
「…あれ?」
筒の中身を確認するように覗き見るジュナチとルチアが顔を見合わせる。
「儀式の邪魔しちゃダメですよ」
パースは忠告するように言って、2人に近づこうとした。が、
「…ッ」
平衡感覚がつかめなくなった。地面に膝をつきそうになるのをこらえて、ジュナチを睨む。
「今のは?」
体が揺れて、くらくらしたパースを見たジュナチはニヤリと笑った。
「動物撃退用の『臭い筒』だよ」
私有地等に紛れ込んだ動物を、傷つけずに追い払う魔法道具だった。それから放たれる空気砲には、敏感すぎる動物の鼻でしか感知できない匂いが含まれる。ジュナチの思惑では、鼻がいいパースが「臭い臭い」と慌てるだろうと思ったのだが、想像以上に彼は敏感だったようだ。匂いにやられ、体の状態がおかしくなっている。
「うう…ううう…」
左右に揺れる険しい顔のパースへ、悪いことをしたとジュナチは申し訳ない気持ちになる。だけど、その足元で倒れているダントンを見て、考えを改めた。
「下がって」
パースを睨む彼女の前に出たルチアは、雷の石を握り直した。ジュナチを説得しきれなかったために、彼は一緒に外へ出てパースと対峙していた。今度こそ攻撃を当てなければ、マホウビトの戦いの場に入り込んだ自分もジュナチも危険なことがわかっている。
雷の石を投げて、願う。
「落ちて!」
目の前で、落雷に飲まれるパースの姿を見ながら、ルチアの後頭部が誰かに触れられるような感覚がし続けた。落ち着かなくてソワソワする。
パースがゆっくりと倒れると、ダントンの顔から水の塊が消えた。
「気絶した!」
「さすがね、ジュナチの作戦のおかげよ」
ジュナチは飛び跳ねて喜んだ。ルチアは笑顔になって、ちらりと彼女の笑顔を確認した。だけど気を緩めることはなく、すぐにパースのほうを向く。
「っ、ハアッ! ハアッ!」
やっと息を吸えるようになったダントンは必死に空気をかき集めながら、横たわるパースを睨んだ。両手をついて、なんとか体を起こす。パースからは浅い呼吸音が聞こえるが、その音は人間が無意識に吐く息とは違うように感じた。
(本当に、意識がないのか…?)
そう思った瞬間に地面から姿が消え。そして、後ろから声が聞こえる。
「せっかくなんで、ジュナチさんにも協力してもらいましょう」
ダントンが振り返ると、パースが立っていた。その腕の中にジュナチが呆けた表情でいた。
「!?」
ルチアは、自分の後ろにいたはずのジュナチが、いつの間にか消えたことに目を見開く。彼女が敵の手中にいることが信じられなくて、頭が真っ白になった。
「だ、ダントン…」
傷だらけで痛々しいダントンを見ながら、ジュナチが震える。パースから殺気を感じていたせいだった。何が起きたのかわからず、声もうまく出せない。
「自分で弱点教えちゃうなんて、僕も平和ボケしてました。気を引き締めないと」
へらへらしているパースは、目の前に立つダントンにゆっくりと言う。
「見てください。あなたのせいで、ジュナチさんは終わりです」
パースは、ジュナチの首へ人差し指を勢いよく横に滑らせた。
「!!」
ジュナチの首にうっすらと赤い線が引かれ、つうと血が垂れた。
「ここを切り落とします」
宣言するようにパースが言うと同時に、ダントンは周りの声が聞こえなくなった。
ジュナチは大きく目を見開いた。
「キミは本当にジュナチさんが大好きなんですね」
パースの腕に抱かれながら、彼が話しかけている生き物を見つめる。そして、すぐにそれは視界から消え、景色が変わり、目の前にはルチアが立っていた。
「え?」
パースの腕の中から一瞬で移動したことを、すぐには理解できなかった。
「オオカミ…?」
驚いた顔をしているルチアは、ジュナチの後ろを見つめてつぶやいた。ハッとしてジュナチは振り返ると、後ろ姿しか見えなかったが、ダントンと同じ格好をした生き物がいた。顔は黒い毛に包まれて鋭い牙が大きな口からちらりと見えた。オオカミの顔を持つ生き物は、人間のように二足歩行であった。服からは長く黒い毛がはみ出て、鋭い爪がきらりと光る。尾てい骨から生えた大きな尻尾が、ゆらゆらと揺れている。
「儀式完了。これで一人前ですよ、よかったですね」
「グルルウウウゥゥゥゥ…」
唸り続ける、黒いオオカミを前にしても、パースは落ち着いていた。
「仕上げです。倒れるまで戦いましょう」
言いながら、頭を振った。
「!?」
ジュナチたちが目を丸くする。銀の毛の二足歩行のオオカミが、現れた。左耳はピンと立っているが、右耳は垂れて力がないようだった。
パースとダントンの姿が変わったことを受け入れられず、ジュナチは唖然としていた。隣にいるルチアが「ケダマ…」とつぶやいたのが、聞こえた。
姿が変わったパースは、いつもどおり呑気な口調で言う。
「じゃあ、いきますよ~」
親指から小指までひとつひとつポキポキと音を鳴らす。自分の体の変化を自覚するような動きだった。
「ふぅううう…」
ダントンは口からヨダレを垂らし、毛を逆立てながらパースを睨みつけていた。威嚇状態の彼を見て、パースは自分へ言い聞かせるようにつぶやいた。
「ぶっ潰す、ボクが勝つに決まってる」
稽古と同じようにダントンが自分めがけて駆けこんできた。パースも前へ走り出した。すさまじいスピードで、お互いが磁石のように強い力で引き寄せ合うように。
「止まれ! ケダマ!!」
遠くから声が聞こえるとパースの体がこわばり、踏み込んだ足をぐっと地面に押し込んで走るのをやめた。自分の思いがけない行動に、パースは動揺した。彼のその一瞬の隙をついて、目の前まで迫っていたダントンが大きく鋭い爪を振り上げる。
「!?」
確実にその爪はパースの顔から腹までをえぐるだろう。死、という言葉が彼の頭を横切ったと同時に、地面が大きく揺れる。
ドドドドドド…!!!
地面から勢いよく生え出た何本ものつやつやした棒状のものが、ダントンとパースの体を押し上げ、彼らは宙に舞った。それは体へ何重にも巻きつき、パースは腕も足も動かせず、身動きが取れなくなった。あっけにとられながら、自分の体に触れるものが木の根っこだとわかる。キラキラとしたガラスのように見えるが、感触や香りが木のそれだった。
「グルアアアアア!!!」
パースと離れた場所で同じように拘束されているダントンは、体に触れるそれを食いちぎろうともがき、吠えている。ちぎられてもちぎられても、根は地面からどんどん伸びてきて、ダントンの体を抑え込み、最終的には顔以外を丸く包んだ。
「なんだこれ、生き物…なのか?」
パースはその様子を見て、呆気に取られていた。
「オバー様という、素晴らしい大木よ」
下から聞こえた声のほうを向けば、ルチアが睨みつけてきていた。パースは、偉そうに腰に手を当てて立っている彼を見て、首をひねる。
「キミは…?」
「あら、僕のことわからないの?」
その声が先ほど自分の動きを止めたものだと思い出し、舐めるようにルチアを見た。ジュナチの傍にいた男という以外、彼の情報を持ち合わせていなかった。
「ボクに命令できるのは、1人だけなんですが…」
そうつぶやいてから、まさかと思い直す。死んだ人間が存在するわけがないのに。
「ぐげぇ、ぐあああ…!」
ダントンは訳が分からない声を発しながら頭を振り回し、もがき続けていた。ジュナチは宙で囚われている彼へゆっくりと近づく。赤い唾液が滴ってる彼から目が離せなかった。彼がいなくなったらどうしよう、と不安な気持ちがいっぱいになる。
「ダントン…ダントン…」
暴れる彼を見上げながら、自然と名前を呼ぶ。彼を失いたくないと、目にたまっていた涙がぽろりとこぼれた。
「ぐぁ…?」
すると、騒いでいたダントンがジュナチを見たまま動かなくなった。真っ黒な大きな目がジュナチだけを観察していた。自分の声が届いたのだと思い、ジュナチは必死に語り掛ける。
「ダントン、そのままじゃ…ダメだよ、怪我してるよ…暴れないで…」
泣きながら伝えると、ダントンは急に全身の体の力を抜いたように、ぐったりとした。じわじわと全身を覆う毛が肌の中に吸われるように消え、ダントンは人間の姿に戻っていった。キイがおそるおそる彼の近くまで飛んでいく。彼の頭に乗って、すりすりと顔を押し付けた。
「オバー様、もう平気だから…」
ダントンが静かにつぶやくと、根が動きだし、ゆっくりと彼を地面に置いた。自由になったダントンは、ふらふらする体を支えながらどうにか胡坐をかいた。
「ダントン! ほら、緑の包帯だよ。動かないでね!」
ダントンに駆けよったジュナチは、ポーチから震える手で魔法道具を差し出す。それをダントンは奪って、何も言わずにジュナチを足の間へ引き寄せた。そのまま血が流れるジュナチの首に巻いた。
「私じゃないよ、ダントンが使わないと…!」
ジュナチが制する声を無視する。包帯が傷口を封じたのを確認してから、ダントンは片腕でジュナチをひょいと抱き上げた。ゆっくりとした足取りで家に向かって歩き出す。
「無理しちゃダメ! 手当てしないと!」
「頭に響くから、黙ってろ」
そう言われてジュナチは口をつぐんだ。彼の傷を思うと下手に暴れることもできず、じっとしながら横顔を見た。目は腫れて、傷だらけで、汚れているダントンはいつもと全く違う雰囲気だった。どこかの小説で読んだ「戦士」のようだと頭の片隅で思い、雄々しい彼の姿から目が離せなくなった。
見つめ合って数秒、ルチアはハアとため息をついた。
「オバー様、この人は大丈夫なので放していただけますか?」
ルチアがそう言うと、根っこは動き出す。ダントンよりもだいぶ雑に地面に落とされ、パースは受け身も取れなかった。バタッと大きな音を立てて、体全体で着地する。パースはルチアを見上げた。
「…今、大丈夫って言いました? ボクはダントンやジュナチさんにひどいことしたんですけどね。拘束を解くべきではないでしょ」
人間の姿に戻ったパースは、汚れた服のほこりを払って立ち上がりながら、注意するように言った。ルチアはその言葉を無視して、真顔で言い放つ。
「跪け」
「………、」
言われるままに片膝をついて、パースはルチアを見た。
「あれ?」
自分の体が勝手に動き出し、かなり驚いた様子だった。
「…キミって、どちら様です?」
答えが欲しいとパースは尋ねれば、
「まだわからないの。やっぱりケダマは、脳も毛がつまってる?」
ルチアは淡々と言った。目の前の相手は目を見開く。
(うまくいってるわね)
ルチアは不安しかなかったが、表には出さなかった。
先ほどパースがオオカミの姿になったときに、ふと誰かの記憶が頭に浮かんだ。誰かが、二足歩行の銀色のオオカミに様々な命令をしていた。彼は忠実にその命令を実行しているようだった。止まれと言えば歩きを止め、近くに来いと言えば近くに来た。そして、記憶の中の誰かは、彼を「ケダマ」と呼んでいたのだ。
今、その記憶の内容を真似ているだけだった。なぜ、彼がこれほどまでに自分の言うことを聞いてくれるのかは不明だったが、利用できるものは利用しようと考え、あたかも彼と知り合いであるかのように振舞った。
次に来る言葉は、思いがけなさ過ぎたが。
「まさか、陛下なんですか!?」
「はあ!?」
反射的に声を荒げて、ルチアは叫んだ。
「…へいか?」
遠くから聞こえたパースの声に、ジュナチはつぶやく。ダントンは無関心のようでリアクションをしなかった。リビングの奥にあるソファーに2人並んで腰かけて、ふうと息をついた。
「手当てを…、あれ?」
ジュナチはダントンに手を伸ばしたまま、固まった。頭から噴き出すように溢れていた血はいつの間にか止まって、ただ乾いた絵具のように頬や顎に張り付いているだけだった。妙な方向に曲がっていた指はすべて異常がない。緑の包帯を使ったとしても、こんなに早くは回復しないだろう。驚きながら、ダントンをじろじろと見ていると、
「寝る。いいか、絶対にパースに近寄るなよ」
そう一言だけ言って、彼は目を閉じた。すうすうと静かな寝息が部屋を包む。おだやかな寝顔に、ジュナチはさきほどの出来事が夢だったのではないかと思うほどだった。
(でも窓は壊れて、庭はぼこぼこ…)
地面から飛び出してきたたくさんの根により、穴だらけになった芝生を見る。いつの間にかオバー様の根は消えていた。庭の遠くで、パースは微動だにせず、ルチアは口を動かしているが何を話しているのか聞こえなかった。
「へいか」という言葉が気になって仕方がなかった。彼らの近くに行きたいとも思ったが、ダントンの顔を見ていると動くことができなかった。キイが膝に乗ってきて、小さく鳴いた。
「無事でよかったね」
自分に言い聞かせるように、ジュナチはささやいた。
砕け散ったガラスが日に当たって、部屋中が輝いていた。ジュナチは目に涙をためながらダントンの手に自分の手を乗せると、するりと握り返された。その柔らかい体温に安心して、涙がこぼれた。
つづく…
閲覧ありがとうございます。
次回は11月4日(来月の第1金曜日)の夜に更新します。
よろしくお願いします。
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