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第一章 カーヴァネス編

外伝 幸福の王子(グラン視点)

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 父に付き合ってヴァチカン公国から帰宅した夜、屋敷はバタバタとしていた。

「なんだあ?」

 公爵子息にはふさわしくない荒ぶった口調はアルビオンスラングのイントネーションが抜けず、親父殿には嫌がられている。

「息をしていない!」

「水を!」

「医師を!早く!」

 見慣れない屋敷に、身なりのいい見慣れない黒い毛の子どもだ。

 使用人は家長不在の中でグランに目を向け、グランはちょい長旅の疲れが癒えぬまま、黒い毛の子どもに向き合った。

 仰向けに寝かされた子どもは真っ青な顔をしてヒュウヒュウと吸うような素振りをしていたが、それを横にする。

「俺の声に合わせて、息をしろ。無理にしなくてもいい。過呼吸で死ぬこたあない」

 吸って吐いて吸って吐いて…こんな簡単なことも、ストレスやトラブルで呼吸なんてすぐにできなくなる。

 グランは息を吹き返したように呼吸をする子どもを見下ろし、

 誰だ、これは?

と自問自答した。








 誰かが歌を歌っている。

 あたたかく優しい声だが、聞き覚えのないイントネーション…。

 歌声を聞きながら、デュークは自分が眠っていたことに気づいた。

 歌は知らない国の曲で、声はややハスキーな女性のそれで、デュークは歌う女性のすぐ横に横たわっている。

「目が覚めたかい?呼吸は楽かい?」

 アルビオン訛りの強いガリア語は、先程の心地よい響きとは違い荒々しく感じる。

 デュークは目を開けた。

 聞き覚えのない歌を歌っていたのは、信じられないほど青銀の長い豊かな髪を流した、上背のある青白い女で、リビアの水タバコをふかしている。

 その煙をデュークに向けない配慮はあるらしく、女は胸が見えそうなほど開いた扇情的なドレスを着て、寝台の横にあるリビア風の猫足テーブルでカードをめくっていた。

「リビア風が珍しいかい?あの人…旦那がね、とりあえず気を遣ってくれているんだよ。あたしはリビア生まれのアルビオンの元奴隷さ」

 まるで蛇のように縦に見える瞳孔で笑う青白い女は、

「過換気症候群で死ぬことはないらしいけれど、あんたストレス喘息を持ってるみたい。グランが言っていた。あんたのストレス…」

 女がカードをデュークに差し出した。

 腹が膨れた女が描かれたカードだ。

「…へえ…母親かい?」

 それがマダム・レイラとの出会いだった。





 代々王宮医師であるエバンズ公爵は古くはオーロリオン軍の医師ミゲルの血を引く直系で、デュークは黒髪故に、エバンズ公爵の家に預けられた。

 程良い軟禁扱いだ。

 デュークは顔を洗い、口の中が気持ち悪くて、水を含むと再び吐く。

 吐くだけ吐くと少しスッキリして、アルビオン式洗面台から下がる。

 ホーロー洗面器と鏡のセットの中で見える己の顔は惨めで黒色の髪が不吉でたまらないでいた。

「おいで。スープくらい食べられるかい?」

 吐いた胃の中はひっくり返りそうになっていたが、居候の身には頷くしかない。

「ありがとうございます」

「部屋で悪いね」

「いえ…」

 貴族は自室では食事を取らず、食事の部屋を別に設けている。

 だがデュークは王宮でも二階の自室と隣の書庫のみにしか行くことを禁止されていたから、寝台のある部屋で食事を取るのは慣れていた。

 レイラが手ずからよそったスープ皿のスープは不思議な香りがして、デュークは眉をひそめる。

「まずいかい?薬餌だよ。しっかり飲みな」

 言われて顔に出てしまった自分の未熟さに恥じた。

「全部飲んだら皿を下げるからね」

 使用人はこの部屋に入れないようで、デュークは苦手な青臭い香りに苦しみつつ全部嚥下してレイラに頭を下げる。

「頑張ったね。さあ、少し横におなりな」

 寝台に連れていかれ、デュークはまるで小さな子どもみたいに毛布で包まれると、レイラが再び歌い始めた。

「その歌は…」

「リビアの子守唄さ。あたしはリビアの小さな国の生まれさ。これでも王女だったんだ。笑えるだろう?」

 デュークは笑いも疑いもせず、再び目を閉じてしまった。





 レイラが部屋を出ると、壁にもたれかかるグランが待っていて、

「全部飲んだか?」

と、似たような顔で聞いてくる。

「直接見に来れば良かっただろう?どうしてあたしに…」

「レイラならいなせるだろ、あいつ。寂しそうな顔をしてる」

「あたしを頼らないでおくれ。でもあの子に必要なのは、母親マミじゃない、経験だよ」

 母親にピン…っ額を人差し指で突かれ 、グランがむっとした。

「俺にどうしろと?」

「来週から士官学校だろ、連れて行きな」

「えーっ!」

「声が大きい。ごらん」

 レイラはカードをグランの前に突き出す。

「最後のカードは世界。あの子に世界を見せてやんなさい」

 世界の意味は様々だが、グランは眉をひそめた。

「レイラ…まさか、親父を焚きつけたのはレイラじゃないだろうな」

 レイラはグランと同じ顔を、クスリと歪める。

 笑い顔は似ていないな…とグランは思うのだが。

「あたしはただ占っただけ。そしてこの国で一番不幸な子を幸福にすることが、この国が豊かにするってね」

 それを元老院である父に話し、父は女王に進言した…と言うわけで…。

「あんたの占いがローゼルエルデを動かしているなんて…思いたくないな」

 しかも…毎回毎回何気なく的中しているのだから恐ろしい。

 青人繁殖を諦めた親父殿も、レイラの価値を占いに感じているらしく、一応『愛妾』としてレイラを屋敷に置いているのはそのためだ。

「あんたにも占いを教えてあげようか?あたしの子だもの、筋はいい筈よ」

「俺は医術の方が興味あるね」

 グランはとりあえずレイラと一緒にデュークの眠る部屋へ入る。

 黒髪の小さな子どもは、ひどく痩せて色白く、食が細いせいか筋肉も薄い。

「この子に愛を与えてくれる人は別にいるんだよ」

 グランはレイラのカードを一瞥し、訳がわからないと肩をすくめる。

 レイラがデュークの眠る寝台の横に座り、低い柔らかな声で子守唄を歌い始めた。

 グランには聞き覚えのある滅びた南の国の子守唄は優しくて…悲しい。

 国で一番不幸な子どもは黒髪であるが故に疎まれる女王の長子。

 こいつが一番幸福になる…?

 無理だろ。

 でも、レイラが…お袋マミがそう言うなら、そうかもしれない。

 グランはそう思った。
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