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 早く海星に会いたい。彼ならきっと慰めてくれるだろう。
 一人でいると気が狂いそうだった。叶翔の家は意識的に見ないよう、自分の足元だけを見て走る。

 約束の時間にはまだ早かったが、電車に飛び乗った。
 どうせ今の叶翔は何も聞き入れてくれない。伊央自身、どんな言葉をかければいいのか何も思い浮かばなかった。
 電車の中は空いていたが、扉のすぐ側に立ち、流れる景色をぼんやりと眺める。
 高校からたった二駅先なのに、窓の外に映る景色は全く知らない街並みだ。近場で最低限のことが出来る環境にいるせいか、わざわざ遠出をしてまで何かをしようという気が起こらない。海星と友達にならなければ、こうして普段行かない場所も知らないままだったに違いない。

 海星には、そちらに向かっているとはまだ連絡してなかった。
 駅に着いても今直ぐには会えないからだ。泣きすぎて酷い顔をしている。落ち着いてから連絡しようと、駅のベンチに腰をかけしばらく塞ぎ込む。周りの人に見られないように鞄を抱え込み、顔を埋めた。

 買った喧嘩とはいえ、伊央があんなにも興奮するのは人生で初めてだったと言っても過言ではない。叶翔に向かって叫んだり、反抗するような言葉も発したのは初めてのような気がする。時間差でものすごい疲労感に襲われていた。
 
 今頃、叶翔はどうしているだろうか。彼を怒らせたことが頭にこびり付いて離れない。さっきは勢いに任せて啖呵を切ったものの、時間が経てば全面的に自分が悪かったように思えてくる。それでも「ごめんなさい」の一言で解決できるとは到底思えなかった。
 叶翔がわざわざ海星の匂いを確認していたのも不思議ではあるが、それを責められるのはもっと意味が分からない。
 確かに今の状況で話し合いをしたところで、無駄なのだろう。それに、叶翔は今後顔も合わせてくれないと思った。伊央に対してあんなにも怒りをぶつけたのは、これが初めてだ。いつも笑って許してくれる。そんな叶翔に甘えていたと、今頃になって反省しても遅いのに……。

 気持ちを落ち着かせるためにここに居座っているというのに、むしろ朝を思い出すほど涙が滲む。今からでも謝りに行きたいが、伊央がそうしたところで叶翔が謝罪など望んでいないことくらい理解できる。かといって、このまま距離を置くのが正解とも思えず、問題は堂々巡りを繰り返すだけだった。

「伊央?」
 不意に名前を呼ばれて顔を上げる。そこにいたのは海星だった。そろそろ着く頃かと思い、早めに迎えに来たと言う。海星の姿を見た伊央は安心して、とうとう泣き出してしまった。
 海星は驚いて駆け寄る。
「え、っと……どうしたの? なんかあった?」
 しゃがみ込んで伊央の顔を覗き込む。不用意に体に触れないのも、好感が持てる。スキンシップの多い叶翔とは何もかもが正反対だ。

 伊央は、やはり叶翔とのことを全て話したいと思った。
「聞いてほしいことがあるから、早く二人になりたい」
 顔を伏せたまま伝える。膝に乗せた拳が震えていることに、海星も気付いているだろう。
 それでも優しい海星は、何も触れないでいてくれた。
「歩けそう? 直ぐに俺の家行く? 今日は誰もいないから」
 こくりと頷き、海星の家に移動した。

 海星の家は駅から程近く、庭付きの一軒家であった。今日は両親は旅行に行っていて、妹はテニス部の練習試合で夕方遅くまで帰らないのだと言った。
「テキトーに座ってて」と、海星の部屋に案内されると、冷蔵庫から冷えたペットボトルのお茶を持って来てくれた。
「ほら、目も冷やすといいよ」
「ありがとう」
 ベッドを背もたれがわりに、ラグの上に並んで座る。当たり前だが、ここは海星の匂いがする。太陽のように暖かく、名前の如く海のような爽やかな匂い。
 ここでこうしているだけで、深く呼吸ができるようになってくる。

「そうだ、動物セラピーするか」
 海星は立ち上がると愛犬のチワワを連れてきてくれた。黒と白のロングヘアーがかわいい小さなチワワが部屋に入ってくると、人見知りもせず伊央の膝に座った。
「ナナ、早速、伊央が気に入ったみたいだ」
「ナナっていうんだね」
「妹がつけた名前なんだ」
「いつから飼ってるの?」
「こいつは、妹がオメガって診断された時。スゲー落ち込んでてさ。親が少しでも元気になれるようにって。だから……それでも、もう三年目になるのか」
「妹さん、オメガなんだ」
 なんとなく、海星が伊央のオメガを敏感に勘付いたのも頷ける。妹さんはまだバース性を発症していないとはいえ、いつかは訪れる発情期に怯えているだろうとは、伊央も共感できる部分であった。

 それから、愛犬ナナに癒されつつ、海星と他愛無い会話をしながら過ごしていると、海星が「そろそろ何があったか話してくれる?」と話題を振ってきた。
 伊央は戸惑いつつも、順序立てて話していく。
 クラスメイトの叶翔とは幼馴染だということから始まり、自分が子供の頃から彼に対して恋心を募らせていること。しかし突然変異でオメガになった自分は、アルファの叶翔とは一緒にいられない。せめて抑制剤で管理できるようになるまではと思っていたが、今朝、伊央の制服から海星の匂いがするというやり取りから大喧嘩をしてしまった。そして家を飛び出してきたと。
 ここまで説明する間、海星は頷きながら真剣に聞いてくれていた。そして匂いを付けたことを謝った。

「海星君を責めてるんじゃないんだ。だから、謝らなないで。悲しいのはね、海星君はすぐに僕のオメガの匂いに気付いてくれたのに、叶翔は全く気付いて無いってことなんだ。毎日一緒にいるのに……今朝だって、海星君のアルファの匂いは分かったのに、僕のオメガの匂いは全く届いてなかった。それもショックで……」
 海星は伊央の話を聞いて少しの間考え込んだ。
 そして、「それって、もしかすると俺が伊央の運命の番……なのかな?」と呟いた。

「運命の番?」
「だって、それだけ近い距離にいて伊央の匂いに気付かないなんてありえない。入学式の日なんて前後で座っていたとはいえ、しっかりと距離があっただろ? それでも匂いの元が伊央だって分かるくらいしっかりと匂ってた。俺は自分のアルファ性に自覚症状があったから、隠れて市販の抑制剤を飲んでたんだ。だから当てられるほどではなかったんだけど」
「じゃあ、やっぱり叶翔と僕は結ばれることはないんだね」
 海星の話聞けば聞くほど、叶翔を想っていた時間が無駄だったように感じて悲しかった。
 口角は上げても、表情は強張ったままだ。

 そんな伊央に、海星は突然改まって向き直し「伊央」と名前を呼ぶ。
「どうしたの? 急に」
「あのさ、今日俺が伊央に言いたかったことを、こんなタイミングで言うのもどうかとは思うんだけど。———俺と、番にならない?」
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