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前編

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「クリスチアーヌ、今この時を持って君との婚約を破棄する!!」
 公爵令息リュシアン・ド・ガルニエはしっかりとした滑舌で断言した。
 泣き崩れるクリスチアーヌ。
「なぜ、何故ですの……リュシアン様……私はこんなにもあなたを愛しています。なのに……一体何が足りないと仰るのですか」
「君に足りないものなど、ありませんよ。クリスチアーヌ」
「ならば突然、婚約破棄など!! 私は納得できませんわ」
「聞き分けがないのはいけません。貴方にはきっと、私よりも相応しい方と出会えるはずです。さぁ、顔を上げて」
 リュシアンは優しい言葉をかけるが、クリスチアーヌに向ける眸は、血が通っていないのかと思うほど冷酷であった。
 しかしクリスチアーヌが婚約破棄された理由も公爵邸内部には知れ渡っていて、言い逃れは出来ないであろう。何せ、公爵家嫡男であるリュシアンの婚約者であるというにも関わらず、好みの使用人を片っ端から食い物にしていたのだ。クリスチアーヌと体の関係を持つと、今度は「貴方に襲われたとリュシアン様に言いつけるわよ」と更なる脅しでいいなりにさせられる。
 とある使用人が解雇を覚悟でリュシアンへ密告したのが事の発端であった。
 とはいえリュシアンにとっては格好のネタでしかない。元々、クリスチアーヌとの結婚を良く思っていなかったのだ。内密に調査をし、証拠を集め、今日この機会が設けられたという運びである。
「さぁ、クリスチアーヌをお見送りしてくれたまえ」
 数人の使用人に両脇を抱えられ起き上がらせようとしたところを、クリスチアーヌは「納得がいかない」と暴れ出した。

 かくして、その一部始終を傍観しているこの男……リュシアン公爵令息の背後に並ぶ使用人の一人。
 名前もない、ただのモブ。『モブA』とでも呼ぶしかない男は転生者であった。
 転生前は一応『高木直樹』という名前があったが、事故で他界……。その後、異世界に転生したものの、チート能力もない、悪役でもない、ただのモブに転生していたのだ。
(わぁ……生婚約破棄の瞬間、滾る~~)
 他人事とはいえ、前世では漫画やアニメでこの婚約破棄のシーンが大好きだったのを、転生した今でも覚えている。それを目の当たりにし、表面では冷静を装っているが心の中では感嘆の雄叫びを上げている。
 そしてこの世界は特に好きだった悪役令嬢ものの漫画の世界だったのだ。
 記憶しているストーリー展開では、この後、リュシアンは本当の婚約者と出会い、大恋愛の末結婚する。この二人を壁から見守りたいとまで思っていたモブAは、転生したのが公爵家の使用人で神に感謝するほど喜んでいた。

 が、ここから何を間違えたのかとんでもない展開へと発展する。
「私ほど公爵夫人として相応しい人間はいない」と騒ぎ、使用人を押し飛ばす。そしてリュシアンの元に走り寄ると「どうか考え直してください」と懇願し始めた。
(おかしいな。漫画だと高飛車に笑って『私を捨てて後悔なさるがいいわ』なんてリュシアンを睨みつけ、カーテシーをして自らの足でこの部屋から出たはずだ)
 モブAは、確かにリュシアンもクリスチアーヌも漫画そっくりの顔であることから、漫画の世界に転生したのは間違いないと信じて疑わない。
 けれどもここまで原作と違う展開になれば、最早全くの別作品だ。
 
 クリスチアーヌは最後まで傲慢で自信家な女性であった。リュシアンが好きなタイプでない。彼はもっと、か弱く守ってあげたい女性が好きなのだ。
 クリスチアーヌがリュシアンの手を取ろうとした時、パシリと弾く音と共に腕を振り上げた。一瞬の出来事だったがリュシアンがクリスチアーヌへ「私へ触れるな」と手を弾き飛ばしたのだ。
「リュシアン様……どうか、考えを改めてください……私は、私はリュシアン様なくては生きてはいけません」
 どんなに泣いて縋ってもリュシアンの気持ちは変わらない。すると突然、リュシアンがモブAの方を振り返り、大股で近づいて来た。
 何事かと怯え始める使用人たち。モブAも然り。まさか悪役令嬢クリスチアーヌの恋人になれとでも差し出されるのでは……と誰もが息を呑んだ。
 リュシアンはモブAの前で立ち止まると、躊躇うことなくその手を取った。
「え、俺……?」
「突然、すまない。一緒に来てくれ」
 リュシアンはクリスチアーヌに向けていた表情から一変し、愛おしいものを見るような柔らかな顔でモブAに話しかけた。
 わけも分からないまま、クリスチアーヌの前へ突き出される。
 モブAは彼女と体の関係など持ったことはないし、それどころか認知もされていないはずなのだ。何故、リュシアンに突然手を掴まれたのか、まるで考えが及ばない。
 困惑しているモブAには構わず、リュシアンはクリスチアーヌの目の前でモブAの肩を抱き寄せ、眦に鼻をすり寄せる。ゾクリとするほどくすぐったく、まるでリュシアンに可愛がられる小鳥にでもなった気分だ。
「クリスチアーヌ、君が私に隠れてしていた証拠を突きつけても婚約破棄に納得していただけないならば、私の秘めた想いを知って頂くしかない。私は、以前からこの使用人に心が揺らいでいたのだ」
「え?」
 モブAですら初耳であった。リュシアンが使用人の一人に好意を寄せている? しかもそれがモブAだと言うのか。モブA本人ですら頭の中で混乱していると言うのに、
「それは……どういう……リュシアン様、悪い冗談はおやめくださらない?」と、クリスチアーヌから睨まれる始末。それでもリュシアンは強気な姿勢を崩さなかった。
「冗談なんかではない。私は以前からこの使用人に惹かれていた。直接伝えたのは今日が初めてだけどね。しかしこの気持ちに偽りなどない。自分なりに真剣に考え、行き着いた答えなんだ。受け入れてくれるかい?」
 リュシアンはクリスチアーヌにではなくモブAに語りかけている。既にクリスチアーヌには興味の欠片もないようだ。
 クリスチアーヌが怒りに震えている。自分を捨てた男が、あろうことか使用人の、さらには名前も知らない同性に惹かれているだなんて、馬鹿にされているとしか捉えられないだろう。
 モブAは何となくクリスチアーヌが気の毒に感じてしまった。もっと高貴な人であれば諦めもついたかもしれない。なのに、こんな地味で目立たないモブ男に公爵家の後継者を横取りされたのだ。
(でも俺がアピールしたわけじゃないし、どうしようもないんだけど……)
 ここまでされてしまえば、流石のクリスチアーヌも開き直って立ち上がった。ここで原作通りの高飛車な笑い声が大広間に響き渡る。
 モブAもまさかリュシアンが本気で自分に惚れているだなんて思っていない。クリスチアーヌの一件が終われば、また元のモブAに戻れると思っていた。このまま穏便に終わって欲しい。そんな風に思っていた矢先、更なる事態へと物語が動き出す。

「お兄様、ちょっとお待ちください!!」
 突然、大広間に飛び込んできたのはリュシアンの二歳年下の弟、アルチュールだった。
「どうした、そんな大声をあげて」
「お兄様、酷いです。その使用人を最初に好きになったのは僕じゃないですか!! それを横取りするなんて」
 こうなってしまっては、もうモブAには成す術もない。自分が原因で兄弟喧嘩が勃発するなど、誰が想像するだろうか。ついさっきまで、掃除や洗濯をしていたただの使用人だ。何なら、ここに来たのだって、使用人仲間から婚約破棄が言い渡されると噂を聞き、半ば忍び込む形で紛れ込んだのだ。
「お兄様は、以前から僕が使用人に恋をしていると知っていたはずです。あなたが誰と結婚しようが、何も文句は言いません。ですがこの使用人だけは見逃すわけにはいかない!!」
「すまない。アルチュールから恋の相談を受けた時、まさか自分と同じ人だとは思わなかったのだ。散々応援していたが、ある時どうやらアルチュールと私は同じ使用人に恋愛感情を抱いていると気付いた。伝えなければいけないとは思っていたが、どうしてもタイミングがなく、言い出せなかった。本当は婚約破棄をする前に話がしたかった。本当だ、信じてくれ」
 
 二人の会話に、クリスチアーヌは呆れてカーテシーもせず出て行ってしまった。横目に見た彼女の表情は『無』であった。もう未練も後悔も何もないと、誰の目にも映っただろう。
 クリスチアーヌはこんな地獄絵図のような現場から立ち去れて清々しているかもしれない。そしてモブAは、これで婚約破棄が無事成立したことで、リュシアンとアルチュールの修羅場から解放されるだろうとホッとした。
 しかしそれは、全くの誤算だったのだ。演技かと思っていた二人のやりとりは本気だったと判明してしまう。
「どんなに言われても、お兄様に使用人を渡すつもりはありません!!」
「そこまで言うなら、私とて使用人を諦めるつもりはない。どちらがより使用人にふさわしいか、勝負で決めるというのはどうだ?」
「受けて立ちます。それで、勝負というのは?」
「キスだ」
「なっ……!! 本気で仰っているのですか、お兄様」
 アルチュールの言葉に、モブAも大いに頷いた。しかしリュシアンは「自信がないようだな」とアルチュールを煽り始める。それには黙っていられないアルチュールは売られた喧嘩を買った形で引き受けたのだった。
「どちらのキスが気持ちよかったかを勝負するということで構わないですか? お兄様」
「そうだ。では、私から……」
 不敵な笑みを浮かべると、リュシアンはモブAの唇を奪った……。
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