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第二章

19、エリペールの悩み

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 パトリスの研究室を後にする。
 身内かもしれないと言われ、驚きすぎて声も出ず、全てエリペールに任せてしまった。
 概ね考えていることは似ていて、気持ちを代弁してくれたと感謝している。

 僕と姉が似ていると言われても、パトリスとは全く似ていない。
 そう言った点も含めて信憑性を持たせるには不十分な気もした。
 例えパトリスの言うことが正しかったとして、奴隷商に売り飛ばした人が母親とも言い切れない。別の誰かかもしれない。生きているかも知り得ない。

 そんな人の息子かもしれないと考えた時、嬉しいとは到底思えなかった。
 愛されて身籠ったのではないか、頸を噛まれて、確固たる絆を結んだ。
 なのに番が他の人と結婚したら、子供は不要としか思えなかったのか。
 だとすれば理不尽に生まれ、理不尽な生活を送ってきた僕が可哀想すぎる。
 
 事情を知ったところで力になってあげられない。
 パトリスにとってはかけがえのない肉親だろうが、身勝手な行動で十年以上も閉じ込められていたのだ。

 時間が経つほどに、悶々と考えすぎるようになっていた。
 奴隷商で育った時間を思い出になどできない。両親からの愛情をたっぷりと注がれるべき時期に、ひとりぼっちで小さな窓から見える空を眺めて過ごしたのだ。
 パトリスと身内であるかどうかよりも、トラウマが勝ってしまう。
 
 それからは研究室へは通わなくなってしまった。
 親切にしてくれたのは嬉しかったし、書庫で本を読む時間はとても贅沢だと感じるほど好きだった。
 パトリスを恨んではいない。
 ただ気まずいだけた。

 少し間を置いてから訪ねよう。
 そう思っているうちにどんどん足は遠退き、まともに話もしないまま学校を卒業を迎え、疎遠になっていく。
 
 エリペールはあれ以来、パトリスの話題は意識的に避けていた。
 パトリスも余程必要な時くらいにしか話しかけてこなくなったが、特に嫌がらせをしたり、成績に影響が及ぶこともなかった。———むしろしっかりと評価してくれ、エリペールは主席で卒業を迎えた———

 あの日、部屋を出る間際に「話を聞いてくれただけも有難い。誰かに私の真実を話したのは初めてだ。いきなり身の上話など聞かせてしまい、すまない。忘れてくれ」目を伏せ、寂しそうに言っていたを思い出す。パトリスは僕のことを甥のように思い、接してくれていたのだろう。
 
 真っ向否定しなくとも、もう少し冷静に対応できたかもしれないが、しかし安易に認めていい内容でもない。
 パトリスとて、自分の勘を裏付ける何かが欲しい。僅かな情報でもなんでもいい、細く細く見えた希望の光を広げたい一心だったに違いない。

 卒業式の日に見かけたパトリスは少し痩せてしまった。落ち込んでいることだろう。

 そしてもう一つ気掛かりになっている問題がある。
 このところ物思いに耽けてはため息を吐いているエリペールだ。
 ため息の原因を訊いてもいいのかどうか、しばらく悩んで様子を伺っていたが、日に日に憂いは増していく。

「リリアンさんは、何か知っていますか?」
「それが何も仰ってくれないのですよ。マリユスさんには話していると思ってました」
「あんなに落ち込むエリペール様は初めてですし、普段ならなんでも話してくださるのですが……」
 あぁ、また大きく息を吐いた。ため息は今日だけで三〇回は超えている。
 リリアンと顔を見合わせる。
「今日はスッキリとミントティーなど、良さそうですね」
「お願いします。僕から話しかけてみます」

 デスクに向かってゴーティエから頼まれた仕事の書類を作っているのだが、こんなにも進んでいないのも初めて見る光景だ。
 病気だろうか。そう思えば顔色が悪い気がする。
 何かあってからでは遅い。付き人失格である。
 ぎゅっと手を握り締め、一歩近づいた。

「エリペール様、珍しく仕事が難航しているようですので、リリアンさんがミントティーを淹れてくれるとのことですよ」
「……あぁ、そうか」

 やはり変だ。
 いつもなら、いい資料が見つかならいだとか、ゴーティエと意見が分かれていて困っているだとか、頭を抱えながらも、今、困っている内容を話してくれる。
 なのに今は僕の言葉すら頭に入っていないのか、曖昧な返事しか返ってこない。

「エリペール様、もしかして……」
 察したように間を置く。エリペールは羽ペンをペン立てにさすと、顔だけをこちらに向けた。
 本当に分かったのかと言いたそうな胡乱な眸をしている。
「お体が悪いのではありませんか?」

 エリペールはここ最近で一番大きなため息を吐く。
「……そうだな、私は病気かもしれない」
 今度は天井を見上げ、力無く言った。
「ど、ど、どこか苦しいのでしょうか? 体が熱いとか、痛いとか、どんな症状が出ていますか?」
 少しくらいなら図書館で読んだ医学書の知識があるし、卒業してからブランディーヌの書斎の本を読むのも許可が降りた。その中には薬草の本もあった事を覚えている。
 自分で治療までは出来ずとも、どんな対応を取るべきかくらいは分かるかもしれない。
 真剣な面持ちでエリペールの言葉を待つ。

 すると僕の手を引き寄せ、腰に腕を回した。
 薄い腹に額をつけ、ポツリと言う。
「バース性が発症しないのだ。もう、十九を過ぎ、やがて二十歳を迎える。ブリューノは高等部のうちに発症し、卒業とともに結婚した。周りのアルファの中で、私だけだ」
 
 見た目も中身からも強いアルファ性を感じる。
 そう言われてみればエリペールは体格にも恵まれ、ただでさえフェロモン撒き散らしているような色気もある。
 長い金髪の髪は艶やかで、引き締まった腰のラインや尻をみれば、オメガ出なくとも本能的に魅力を感じるというものだ。

 しかしこればかりは薬で何とかなるわけでもないし、近くにオメガがいても発症しないともなれば、まだ先のような気もする。
 
 エリペールの悩みが第二次性だなんて、意中の相手と何かあったのだろうか。
 知らない誰かに嫉妬してしまい、後悔すると分かっていても考えずにはいられない。
 僕のオメガ性がもっと強ければ、こんなにも悩ませずに済んだかもしれないのだ。
 けれどもエリペールのアルファ性が発症すれば、もう添い寝係としての役目は終わる。
 頭の中のどこかで、このまま二人ともがバースせいを発症しなければいいのに……なんて考えてしまう。

 ともあれここまで神妙に落ち込んでいるならば、励ますのが先決だ。
「あの、僕はもうすぐ二八歳になりますが、いまだにオメガを発症していません。育った環境のせいもあるかもしれませんが、きっと個人差はあるのではないでしょうか。一度、医務室に相談に行かれますか?」

 立派に成人した男でもバース性を発症していない。
 だから心配する必要はない。
 そう伝えたつもりが言葉足らずだったか、余計に不安を煽ったようだった。
 エリペールは抱きしめている腕に力を込め、さらに僕の体を引き寄せる。

「いい匂いはずっと感じているのだ。子供の頃から。あの頃はこの匂いが何なのか考えもしなかった。しかし今なら分かる。このいい匂いはマリユスのオメガのフェロモンだ」
「でも、僕はまだ……」
「だから、悩んでいるのではないか。これだけ一緒にいても、マリユスは私のフェロモンに当てられたりしない。ヒートを起こす予兆すらない。私にはアルファの素質がないのか」

 僕がヒートを起こせば隔離しなければならなくなる。
 奴隷と公爵子息が番になったり、そうでなくとも妊娠なんてしようものなら世間が何と言うだろうか。
 エリペールの番になりたくないわけではない。
 正直に言うと、そうなれば嬉しいと思う。
 けれどもボーティエやブランディーヌが許すとは思えない、オメガのフェロモンでエリペールを誘ったなどと言われようものなら、反論の余地もない。
 オメガのフェロモンとはそういうものだ。

 真剣に悩んでいるエリペールにかける正しい言葉が、見つからなかった。
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