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第一章
6、少しずつ
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ラングロワ公爵家へ来てからはとにかく忙しく、あっという間に月日が流れていく。
一日毎の目標やスケジュールが決まっていて、勉強と食事の時くらいしか座りもできないほどだった。
檻の中にいた時はただ膝を抱え、思考回路は停止しているも同然。時間が経つなど意識もしたことがなかった。
ここに来てすぐの頃は奴隷商で住んでいた時と比べることが多々あったが、今では思い出す時間も減ってきた。
今日は乗馬、今日はピアノ。今日は歴史……。
それに沢山いる従者の名前も覚えなくてはならなかった。———これに関しては未だに覚えきれないでいる———とにかく目まぐるしく過ぎる日々に翻弄されっぱなしなのだ。
夕食を食べ終わる頃にはへとへとで、エリペールからベッドに誘われるのを心待ちにしている自分がいる。早くあのふわふわのマットに体を沈めたい。
目が虚になり、口数が減ってくると、僕が意識するより先にエリペールが気遣ってくれる。
「さぁ、マリユスのために早めに寝るとしよう」
字の多い絵本を閉じると、リリアンに本棚に戻しておくよう頼む。
添い寝係として雇われたにも関わらず、こうなっては僕の方が幼な子のようで情けない。
ブランディーヌは、自分の息子より八歳も年が上にも関わらず、一切の教育を受けたことのない僕に根気よくマナーも勉強も教えてくれた。
おかげで少しずつ食事も零さず汚さず食べられるようになってきた。
ディディエが帰った後は、エリペールが文字を習い始めた頃に読んでいた絵本を読む。ブランディーヌは自身の書斎にある本を読めるようになることを目標にしなさいと言ってくれた。
「教育を受けるのは子供の義務よ。奴隷だった頃なんてもう関係ないわ。遠慮せずに励みなさい。貴方は賢い子よ」
そんな風に言われ、胸の奥がゾワゾワとしてくすぐったくなる。
生まれてから一度も親に抱かれた記憶もなく、顔すらも知らない。
あの石積みの塔の中での全てが当たり前であり、自分にとっての普通だった。他の奴隷だって待遇は同じだ。餓死だって珍しくなくある。
毎日が死と隣り合わせ。隣の檻から力尽きた子供が運び出されるのを目の当たりにしても、可哀想とも寂しいとも思わなかった。怖くもなかった。なんとも思わなかった。
そのくらい無感情であった。
しかし貴族階級の暮らしには理解し難い事実だと面と向かって言われた時、自分がいかに異常な環境で育ったのかを思い知らされた。
ブランディーヌが家族も同然だと言ってくれたのも、家族の温かさを体感させてあげたいと思ってくれたのかもしれない。
「本当に天と地がひっくり返ったみたいだ」
空を見上げて呟く。
石積みの塔の小窓から見えていた空は、実際には果てしなく広かった。
花やハーブは風に乗って甘く爽やかな香りを運んでくれる。
バルコニーから庭を覗けば、居合わせた従者が手を振って声をかけてくれた。照れ臭くて反応に困り、その度胸の奥がゾワゾワとしてくすぐったく感じた。
「マリユス、きたまえ。ティータイムにしよう」
リリアンと共に部屋に帰ってきたエリペールが満面の笑みを向ける。
「はい」急いで部屋へ入るとエリペールはじっと僕の顔を見詰めてきた。
どうしたのかと思いきや「もう少し笑うといい。せっかくキレイな顔をしているのだから」揶揄うでもなく真面目にそう言われたことに、喉が詰まって咽せてしまった。
「僕がキレイなはずありません」
「そんなことはない。マリユスはキレイだ。オメガには美しい人が多いとお母様がおっしゃっていた。アルファやベータにはない、はかなさを持ち合わせた人が多いのだと。まさしくその通りだな」
エリペールからはオメガに対する不信感や嫌悪感は感じられなかった。もとい、母であるブランディーヌの影響なのかもしれないが。
奴隷商での番人たちの言い分だと、オメガはどこに行っても嫌われる存在でしかないとのことだった。だから親切に接してくれていることに、未だに慣れない。これが胸の奥のむず痒さの原因のような気がした。
罵倒される日々が身に馴染みすぎて、褒められた時になんと答えていいのか分からず黙り込んでしまう。こんな時でもエリペールは興味深そうな眸で僕の顔を覗き込むのだった。
「マリユスは困った時に耳をいじるのがクセだな」
「そう……ですか? 気付きませんでした」
「あぁ、私がほめたとき、必ず手が耳にふれている。自分でも気付いていないのなら、私が一番に見つけたということだ」
宝物を見つけたかのように瞳の潤いが増す。こんなことで……と思ってしまうが、そこまでじっくりと観察されていたことに喜びを感じている自分がいた。
「ほら、まただ」
クスクスとエリペールが笑う。
確かに僕は耳朶を弄っていた。
「本当ですね」自分の手の平を見る。
つられて笑ったと思ったが、「こういう時は笑えばいい」と言われ、出来ていなかったと自覚する。上手く笑うのは難しいと感じた。
エリペールはしっかりしていて少し大人ぶった幼児だと思っていたが、それだけではない。他の誰も気付いていないような細かな所にまで意識が向いている。
公爵子息らしいというか、アルファを匂わせるような紳士的な部分が垣間見れる。きっとエリペールはアルファだろうと密かに思った。
そうなれば、僕がそばにいられるのは永遠ではない。いつか離れなければならない時がくる。
———どうか、まだバース性が発症しませんように———そう、願ってしまった。
「ほら、マリユスも食べろ。お母様がもっと太らないといけないとおっしゃっていた」
小さな手でクッキーの乗った皿を差し出す。
香ばしい香りが鼻を掠め、口に入れるとホロリと砕け、法悦となる甘さが口腔に広がる。
エリペールのお気に入りの子のお菓子は度々ティータイムに出されているが、何度食べても飽きることはない。好きな菓子を食べている時もエリペールは笑っている。
実に表情豊かだと感心してしまう。
人がどんな時に笑って怒って泣くのか、今の僕にはまだ難しい。
一日毎の目標やスケジュールが決まっていて、勉強と食事の時くらいしか座りもできないほどだった。
檻の中にいた時はただ膝を抱え、思考回路は停止しているも同然。時間が経つなど意識もしたことがなかった。
ここに来てすぐの頃は奴隷商で住んでいた時と比べることが多々あったが、今では思い出す時間も減ってきた。
今日は乗馬、今日はピアノ。今日は歴史……。
それに沢山いる従者の名前も覚えなくてはならなかった。———これに関しては未だに覚えきれないでいる———とにかく目まぐるしく過ぎる日々に翻弄されっぱなしなのだ。
夕食を食べ終わる頃にはへとへとで、エリペールからベッドに誘われるのを心待ちにしている自分がいる。早くあのふわふわのマットに体を沈めたい。
目が虚になり、口数が減ってくると、僕が意識するより先にエリペールが気遣ってくれる。
「さぁ、マリユスのために早めに寝るとしよう」
字の多い絵本を閉じると、リリアンに本棚に戻しておくよう頼む。
添い寝係として雇われたにも関わらず、こうなっては僕の方が幼な子のようで情けない。
ブランディーヌは、自分の息子より八歳も年が上にも関わらず、一切の教育を受けたことのない僕に根気よくマナーも勉強も教えてくれた。
おかげで少しずつ食事も零さず汚さず食べられるようになってきた。
ディディエが帰った後は、エリペールが文字を習い始めた頃に読んでいた絵本を読む。ブランディーヌは自身の書斎にある本を読めるようになることを目標にしなさいと言ってくれた。
「教育を受けるのは子供の義務よ。奴隷だった頃なんてもう関係ないわ。遠慮せずに励みなさい。貴方は賢い子よ」
そんな風に言われ、胸の奥がゾワゾワとしてくすぐったくなる。
生まれてから一度も親に抱かれた記憶もなく、顔すらも知らない。
あの石積みの塔の中での全てが当たり前であり、自分にとっての普通だった。他の奴隷だって待遇は同じだ。餓死だって珍しくなくある。
毎日が死と隣り合わせ。隣の檻から力尽きた子供が運び出されるのを目の当たりにしても、可哀想とも寂しいとも思わなかった。怖くもなかった。なんとも思わなかった。
そのくらい無感情であった。
しかし貴族階級の暮らしには理解し難い事実だと面と向かって言われた時、自分がいかに異常な環境で育ったのかを思い知らされた。
ブランディーヌが家族も同然だと言ってくれたのも、家族の温かさを体感させてあげたいと思ってくれたのかもしれない。
「本当に天と地がひっくり返ったみたいだ」
空を見上げて呟く。
石積みの塔の小窓から見えていた空は、実際には果てしなく広かった。
花やハーブは風に乗って甘く爽やかな香りを運んでくれる。
バルコニーから庭を覗けば、居合わせた従者が手を振って声をかけてくれた。照れ臭くて反応に困り、その度胸の奥がゾワゾワとしてくすぐったく感じた。
「マリユス、きたまえ。ティータイムにしよう」
リリアンと共に部屋に帰ってきたエリペールが満面の笑みを向ける。
「はい」急いで部屋へ入るとエリペールはじっと僕の顔を見詰めてきた。
どうしたのかと思いきや「もう少し笑うといい。せっかくキレイな顔をしているのだから」揶揄うでもなく真面目にそう言われたことに、喉が詰まって咽せてしまった。
「僕がキレイなはずありません」
「そんなことはない。マリユスはキレイだ。オメガには美しい人が多いとお母様がおっしゃっていた。アルファやベータにはない、はかなさを持ち合わせた人が多いのだと。まさしくその通りだな」
エリペールからはオメガに対する不信感や嫌悪感は感じられなかった。もとい、母であるブランディーヌの影響なのかもしれないが。
奴隷商での番人たちの言い分だと、オメガはどこに行っても嫌われる存在でしかないとのことだった。だから親切に接してくれていることに、未だに慣れない。これが胸の奥のむず痒さの原因のような気がした。
罵倒される日々が身に馴染みすぎて、褒められた時になんと答えていいのか分からず黙り込んでしまう。こんな時でもエリペールは興味深そうな眸で僕の顔を覗き込むのだった。
「マリユスは困った時に耳をいじるのがクセだな」
「そう……ですか? 気付きませんでした」
「あぁ、私がほめたとき、必ず手が耳にふれている。自分でも気付いていないのなら、私が一番に見つけたということだ」
宝物を見つけたかのように瞳の潤いが増す。こんなことで……と思ってしまうが、そこまでじっくりと観察されていたことに喜びを感じている自分がいた。
「ほら、まただ」
クスクスとエリペールが笑う。
確かに僕は耳朶を弄っていた。
「本当ですね」自分の手の平を見る。
つられて笑ったと思ったが、「こういう時は笑えばいい」と言われ、出来ていなかったと自覚する。上手く笑うのは難しいと感じた。
エリペールはしっかりしていて少し大人ぶった幼児だと思っていたが、それだけではない。他の誰も気付いていないような細かな所にまで意識が向いている。
公爵子息らしいというか、アルファを匂わせるような紳士的な部分が垣間見れる。きっとエリペールはアルファだろうと密かに思った。
そうなれば、僕がそばにいられるのは永遠ではない。いつか離れなければならない時がくる。
———どうか、まだバース性が発症しませんように———そう、願ってしまった。
「ほら、マリユスも食べろ。お母様がもっと太らないといけないとおっしゃっていた」
小さな手でクッキーの乗った皿を差し出す。
香ばしい香りが鼻を掠め、口に入れるとホロリと砕け、法悦となる甘さが口腔に広がる。
エリペールのお気に入りの子のお菓子は度々ティータイムに出されているが、何度食べても飽きることはない。好きな菓子を食べている時もエリペールは笑っている。
実に表情豊かだと感心してしまう。
人がどんな時に笑って怒って泣くのか、今の僕にはまだ難しい。
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