ステレオタイプ ーどこにもいない、普通の私

泣村健汰

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8 二学期

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 8 二学期

「和葉! いい加減に起きなさい!」
「うぅ~……」

 階下から、母の呆れたような怒号が響く。
 今日は8月32日。
 まだまだ夏休みは終わっていない。なので、早く起きる必要なんて全く、これっぽっちも無い。
 そんな妄想を何度頭の中で巡らせても、昨日の内にえいやと8月のカレンダーを破り捨てた事実は動かない。

 ――学校行きたくな~い……。

 布団を頭からすっぽりとかぶったまま、思わず登校拒否をおこしたくなるのは、休み明けの気だるさの所為ばかりではない。
 あの日、夜空の絢爛舞踏が終息を見せてすぐ、玲央君はぷいと顔を背けると、一人でさっさと境内へと戻って行ってしまった。
 好意的な解釈をすれば、照れ隠しの為の行動かもしれない。
 だけどもそれは、ゆっくりと気持ちの整理を付けてから、自分の都合のいい方向へとねじ曲げた、ただの理想論だ。
 冷静に考えてみれば、我がまま極まりなかった私に、苛ついた末の行動だろう。
 そして私も、足早に去っていく彼の後ろ姿を見て、ああ、嫌われてしまったかもしれない、と言う思いに、心を囚われてしまっていた。
 謝る事も、声を掛ける事も出来ず、暗闇の中で一人取り残されないように、彼の背中をとぼとぼとついて行くのが、あの時私に出来た精一杯だったのだ。

 ――やっちゃった、かな……。

 みんなと合流した後、祐一君と何気ない会話をする玲央君を見ているだけで、胸が締め付けられるような気持ちになった。
 どうだった、と道子がこっそり聞いて来た時にも、笑って首を振る事しか出来なかった。
 その後、残りの宿題を片付ける為一度だけ集まった時にも、私は玲央君と必要最低限の会話しか交わせなかった。

『友野、この漢字の意味、イか?』
『あ、そこはウだよ』
『ん、サンキュ』
『玲央君、ここ、x=3でいいんだよね?』
『そう、yは7』

 基本、これだけである。
 会話のキャッチボールと呼ぶには、些か程度が低すぎるだろう。投げるのも受けるのも下手な二人が、おっかなびっくりボールをパスし合っているような物だ。端から見ている方がハラハラするだろう。と言う事を考えると、あの時周りに居た三人に申し訳無くなる。
 時折盛り上がる周囲の会話に話を合わせる事は出来ても、私と玲央君との間には、妙にぎこちない空気が漂ったままだった。
 これを進展と呼ぶのならば、その進み方は不格好な千鳥足もいいところである。自分でさえ何処に向かうか分からないランダムウォークを自覚してしまっては、次の一歩を踏み出すのが怖くなるのは当然のことだ。
 その次の一歩で、道を踏み外さないとも限らないのだから……。
 丸写し効果で宿題はすっかり片付き、登校への準備は整っても、心持ちは一向に回復しないまま今日を迎えてしまった。

「はぁ……」

 玲央君の顔を見たくない。
 いや、違う。
 玲央君と、上手く会話を出来ない事を、再認識するのが怖いのだ。

「和葉!」
「起きてるー! 今行くからー!!」

 再び轟いた母の声にそう答える。
 母の雷を避ける為もあるが、どの道いつまでも、ふとつむりに徹している事は出来ない。
 布団に籠ったまま事態が好転するのなら、何の苦労も無い。布団に籠って出来る事なんて、それこそ後転と前転位なものかもしれない。
 もぞもぞと布団から抜けだし、階段を下りて母に挨拶をする。

「おはよう」
「おはようじゃないわよ。本当に、全然起きて来ないんだから。遅れても知らないわよ」
「ん~」

 部屋の隅の時計を眺める。

 ――なんだ、まだ7時半をちょっと過ぎたところじゃない。

「まだ全然大丈夫だよ」
「休みボケしたまんまの顔で、何が大丈夫よ。さっさと顔洗ってらっしゃい」

 母に促され、寝ぼけ眼をくしくしとわざとらしく擦りながら、洗面所へと向かう。
 洗顔クリームを泡立てる私を、鏡の中の私がぼんやりと見つめている。
 目には力が無く、表情は酷くつまらなそうだ。お世辞にも魅力的とは言い難く、これと同じものが自分の顔にも貼りついているのだと考えると、何だかぞっとしない。
 ますます、玲央君に会いたくない気持ちが膨らんでいく。
 学校に来るように促した張本人とは思えない、無責任極まりない思考回路である。
 つまらない表情を顔から剥がし落とすように、洗顔クリームを広げた手で、ごしごしと顔を擦る。
 体温が上がる為か、ほんの少しだけ、目が冴えた。
 居間に戻ると、テーブルの上にトーストとハムエッグが用意されていた。

「宿題は終わったんでしょうね?」
「ん~、宿題は終わった」

 トーストの上にハムエッグを重ね、齧り付く。

「宿題は、って、他に何かあるの?」

 ――玲央君との関係修復における脳内会議の結論が、まだ出ていない……。

「地に落ちきった勉強への熱意の回復」
「そんなもん元々大してないでしょ?」

 実の娘に酷い言い草だ。
 だが、的どころか見事に正鵠を射ているので、何の反論も出来ない。
 ハムエッグトーストをもしゃもしゃと咀嚼しながら、砂糖を二つ溶かしたカフェオレを啜っていると、不意に玄関からチャイムが鳴り響いた。

「あら、こんな時間に誰かしら?」

 母が訝しげに玄関へと向かって行った。
 ドアを開けた音が聞こえた直後、名前を呼ばれた。

「ちょっと和葉ー!」
「な~に~?」
「お友達ー!」

 はて、お友達?

 ――まさか、玲央君?

 もしやと言う思いが脳裏に浮かんだが、直後、

「和葉ー、行くよー!」

 紗絵の声が居間に届いた。
 慌てて玄関へと向かうと、そこには制服姿の紗絵と道子の姿があった。

「ちょっとあんた、まだ着替えてないの? もう8時よ?」

 と、道子。

「え? どうしたの、二人とも?」
「ま、ちょっと思う所があってね。ほれ、待っててあげるから、早く準備する」

 紗絵がしっしっと、私を手で追い払いながら上から目線で告げる。
 突然何の前触れも無く家に現れたにしては、随分と不遜である。

「ほら、お友達待たせちゃ悪いでしょ、さっさと準備しておいで!」

 我援軍を得たり、とばかりに、嬉々とした母の指示が飛んでくる。

「二人とも、ちょっと待っててね」

 母の言葉はスルーして、二人にそう告げる。
 階段を上って行く最中、背中から楽しそうな母の声が聞こえてきた。

「本当にごめんねぇ、折角迎えに来て貰ったのに、待ってもらっちゃって。普段からどんくさい子だから、それなのに今日も、いっくら呼んでも全然起きて来なかったのよ、まったくしょうがないわよね~……」

 どうしてそんなにテンションが高いのか、母を小一時間問い詰めたいところだが、生憎今の私には一分の余裕も無い。連絡無しの来訪とは言え、折角迎えに来てくれた友人を待たせる事に心を痛めない程、私は不心得者では無い。
 母の言葉を華麗にスルーして、階段を駆け上がる。

「こんなんだから、年頃なのに彼氏の一人も出来ないのよね~」
「ちょっとお母さん! 余計な事言わなくていいの! 大きなお世話!」

 階段の上から母に向かって叫ぶ。
 スルーしようと努力した。だけど、母のその言葉はあまりにも聞き捨てならなかった。

「いいから、さっさと支度して来なさい!」

 打てば響くような切り返しの後すぐに、本当にごめんなさいねぇと、紗絵達への気遣いの言葉が微かに聞こえてくる。
 その気の遣いようを、ほんの少しだけでも娘に回して欲しいものだ。
 母の暴言の嵐を一刻でも早く防ぐべく、私は部屋へ駆け込み、大急ぎで登校準備を始めた。
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