ステレオタイプ ーどこにもいない、普通の私

泣村健汰

文字の大きさ
上 下
3 / 86
1 始まりの音

1-3

しおりを挟む
 夕焼けをビルの向こうに見やり、道子と紗絵にはまた明日と手を振って、私は陽が落ち切る前に家へと辿りついた。

「ただいまぁ」

 玄関へ向けて何の気なしに出した声に返ってきたのは、意外な声だった。

「お帰り和葉、遅かったね」
「お姉ちゃん!」

 階段を降りながらそう言葉を返してきたのは、姉の久喜子だった。

「どうしたの?」
「いや、大した用じゃないんだけどさ、ちょっと着替えが足りなくなったから、服取りに来たんだ」

 そう笑いながら、姉は肩から提げていたボストンバッグをベシベシと叩いた。
 3つ年上の姉、久喜子は、大学進学を機に家を出て一人暮らしを始めた。大学の近くにアパートを借り、気ままに暮らしているらしいが、正直私は羨ましくて仕方が無い。
 親の目から離れて自分だけの空間が持てるなんて、その他にどんな大変な事があるのか想像もつかないが、17歳の女の子にしてみれば、その事実だけで充分魅力的なのだ。
 一人暮らしを始めてから実家に寄る事はほとんど無い姉が家にいると言うのは、姉が家を出てからまだそれ程経っていないにも関わらず、奇妙な新鮮さを感じた。

「それより和葉、どっか寄り道してきたの?」
「うん、友達とちょっと」
「もう高校生だから、あんまり五月蠅い事は言わないけど、お母さん達心配するから、連絡くらいは入れてあげなよ」
「分かったわよ。それで、お母さんは?」
「ああ、ちょっと買い物に出てる。すぐ戻ってくると思うけど、私はもう行くね」

 そう言って私の横を通り過ぎていく瞬間、微かに香ったフルーティな匂いが、彼女が大人の女性である事を私に教えてくれた。

「お姉ちゃん、香水つけてるの?」
「ああ、うん。ちょっとだけね」
「いいなぁ~」
「今持ってるから、和葉にもつけてあげようか?」
「本当!?」

 私は大喜びで姉に近づいていく。餌に釣られる従順な妹だと言われても、今この瞬間なら何の反論も出来ない。

「はい、手首出して」

 言われた通りにすると、私の手首に数滴、懐から出した可愛らしいボトルから香水を垂らしてくれる。それを手首でこすり合わせ、首元になすりつける。
 私の身体を、爽やかな匂いが包み込む錯覚。
 たったこれだけで、少しだけ大人に近づいたような気になるから不思議だ。

「これなんて言う香水?」
「ん~? 分からない。彼氏に貰った時に、ラベル剥がしちゃったから」
「お姉ちゃん、彼氏出来たの!?」

 あまりに私が大きい声を出したからか、驚いたような顔をした姉はこちらに向けて、口の前に人差し指を立てながら、小さくシーッと言った。

「うん、この間ね。まだ母さん達には内緒にしてて、五月蠅いから」
「うん! ねえ、どんな人?」
「別に、普通の人だよ? まぁ強いて言えば、バンドでベースを弾いてる人」
「音楽やってるんだ! いいなぁ、格好いいなぁ。いつから付き合ってるの?」
「まだそんなでもないよ。3か月くらいかな?」

 その時、姉の携帯電話から着メロが零れ落ちた。

「はい、もしもし。ああ、ごめん、すぐ行くよ」

 姉は口早にそう告げ、電話をポケットに戻すと、私に向き直り、迎えが来たから行くね、と笑った。

「彼氏?」
「うん、まぁね。じゃあ、母さん帰ってきたらよろしく言っておいて」

 姉はそう言うと、私に背中を向けて家を後にした。
 私はすぐに2階の自分の部屋へと上って行き、窓を開けて外を見下ろした。
 先程までの夕焼け模様はそこには無く、外はすっかり夜の闇に包まれていた。
 玄関の先に、一台の軽自動車が止まっている。
 その運転席の男性に話しかける姉の姿を確認し、あの人がお姉ちゃんの彼氏だな、と心の中でにやりと笑う。
 姉はそのまま助手席へと乗り込み、次の瞬間には車は何事も無く走り去って行ってしまった。

「いいなぁ、彼氏~」

 同じ家で育った姉が、家を出た途端に大人の階段を上って行くのが、嬉しくもあり、何だか悔しくもあった。
 姉のくれた香水の香りが鼻を擽る。先程までの自分を思い返し、自分が必死に爪先立ちをしている子供のような気持ちになり、一つため息を吐いた。

「いいなぁ、彼氏……」

 思わず、もう一度呟いていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜

月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。 だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。 「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。 私は心を捨てたのに。 あなたはいきなり許しを乞うてきた。 そして優しくしてくるようになった。 ーー私が想いを捨てた後で。 どうして今更なのですかーー。 *この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

睡蓮

樫野 珠代
恋愛
入社して3か月、いきなり異動を命じられたなぎさ。 そこにいたのは、出来れば会いたくなかった、会うなんて二度とないはずだった人。 どうしてこんな形の再会なの?

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

忙しい男

菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。 「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」 「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」 すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。 ※ハッピーエンドです かなりやきもきさせてしまうと思います。 どうか温かい目でみてやってくださいね。 ※本編完結しました(2019/07/15) スピンオフ &番外編 【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19) 改稿 (2020/01/01) 本編のみカクヨムさんでも公開しました。

最後の恋って、なに?~Happy wedding?~

氷萌
恋愛
彼との未来を本気で考えていた――― ブライダルプランナーとして日々仕事に追われていた“棗 瑠歌”は、2年という年月を共に過ごしてきた相手“鷹松 凪”から、ある日突然フラれてしまう。 それは同棲の話が出ていた矢先だった。 凪が傍にいて当たり前の生活になっていた結果、結婚の機を完全に逃してしまい更に彼は、同じ職場の年下と付き合った事を知りショックと動揺が大きくなった。 ヤケ酒に1人酔い潰れていたところ、偶然居合わせた上司で支配人“桐葉李月”に介抱されるのだが。 実は彼、厄介な事に大の女嫌いで―― 元彼を忘れたいアラサー女と、女嫌いを克服したい35歳の拗らせ男が織りなす、恋か戦いの物語―――――――

私の入る余地なんてないことはわかってる。だけど……。

さくしゃ
恋愛
キャロルは知っていた。 許嫁であるリオンと、親友のサンが互いを想い合っていることを。 幼い頃からずっと想ってきたリオン、失いたくない大切な親友であるサン。キャロルは苦悩の末に、リオンへの想いを封じ、身を引くと決めていた——はずだった。 (ああ、もう、) やり過ごせると思ってた。でも、そんなことを言われたら。 (ずるいよ……) リオンはサンのことだけを見ていると思っていた。けれど——違った。 こんな私なんかのことを。 友情と恋情の狭間で揺れ動くキャロル、リオン、サンの想い。 彼らが最後に選ぶ答えとは——?

処理中です...