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夕焼けをビルの向こうに見やり、道子と紗絵にはまた明日と手を振って、私は陽が落ち切る前に家へと辿りついた。
「ただいまぁ」
玄関へ向けて何の気なしに出した声に返ってきたのは、意外な声だった。
「お帰り和葉、遅かったね」
「お姉ちゃん!」
階段を降りながらそう言葉を返してきたのは、姉の久喜子だった。
「どうしたの?」
「いや、大した用じゃないんだけどさ、ちょっと着替えが足りなくなったから、服取りに来たんだ」
そう笑いながら、姉は肩から提げていたボストンバッグをベシベシと叩いた。
3つ年上の姉、久喜子は、大学進学を機に家を出て一人暮らしを始めた。大学の近くにアパートを借り、気ままに暮らしているらしいが、正直私は羨ましくて仕方が無い。
親の目から離れて自分だけの空間が持てるなんて、その他にどんな大変な事があるのか想像もつかないが、17歳の女の子にしてみれば、その事実だけで充分魅力的なのだ。
一人暮らしを始めてから実家に寄る事はほとんど無い姉が家にいると言うのは、姉が家を出てからまだそれ程経っていないにも関わらず、奇妙な新鮮さを感じた。
「それより和葉、どっか寄り道してきたの?」
「うん、友達とちょっと」
「もう高校生だから、あんまり五月蠅い事は言わないけど、お母さん達心配するから、連絡くらいは入れてあげなよ」
「分かったわよ。それで、お母さんは?」
「ああ、ちょっと買い物に出てる。すぐ戻ってくると思うけど、私はもう行くね」
そう言って私の横を通り過ぎていく瞬間、微かに香ったフルーティな匂いが、彼女が大人の女性である事を私に教えてくれた。
「お姉ちゃん、香水つけてるの?」
「ああ、うん。ちょっとだけね」
「いいなぁ~」
「今持ってるから、和葉にもつけてあげようか?」
「本当!?」
私は大喜びで姉に近づいていく。餌に釣られる従順な妹だと言われても、今この瞬間なら何の反論も出来ない。
「はい、手首出して」
言われた通りにすると、私の手首に数滴、懐から出した可愛らしいボトルから香水を垂らしてくれる。それを手首でこすり合わせ、首元になすりつける。
私の身体を、爽やかな匂いが包み込む錯覚。
たったこれだけで、少しだけ大人に近づいたような気になるから不思議だ。
「これなんて言う香水?」
「ん~? 分からない。彼氏に貰った時に、ラベル剥がしちゃったから」
「お姉ちゃん、彼氏出来たの!?」
あまりに私が大きい声を出したからか、驚いたような顔をした姉はこちらに向けて、口の前に人差し指を立てながら、小さくシーッと言った。
「うん、この間ね。まだ母さん達には内緒にしてて、五月蠅いから」
「うん! ねえ、どんな人?」
「別に、普通の人だよ? まぁ強いて言えば、バンドでベースを弾いてる人」
「音楽やってるんだ! いいなぁ、格好いいなぁ。いつから付き合ってるの?」
「まだそんなでもないよ。3か月くらいかな?」
その時、姉の携帯電話から着メロが零れ落ちた。
「はい、もしもし。ああ、ごめん、すぐ行くよ」
姉は口早にそう告げ、電話をポケットに戻すと、私に向き直り、迎えが来たから行くね、と笑った。
「彼氏?」
「うん、まぁね。じゃあ、母さん帰ってきたらよろしく言っておいて」
姉はそう言うと、私に背中を向けて家を後にした。
私はすぐに2階の自分の部屋へと上って行き、窓を開けて外を見下ろした。
先程までの夕焼け模様はそこには無く、外はすっかり夜の闇に包まれていた。
玄関の先に、一台の軽自動車が止まっている。
その運転席の男性に話しかける姉の姿を確認し、あの人がお姉ちゃんの彼氏だな、と心の中でにやりと笑う。
姉はそのまま助手席へと乗り込み、次の瞬間には車は何事も無く走り去って行ってしまった。
「いいなぁ、彼氏~」
同じ家で育った姉が、家を出た途端に大人の階段を上って行くのが、嬉しくもあり、何だか悔しくもあった。
姉のくれた香水の香りが鼻を擽る。先程までの自分を思い返し、自分が必死に爪先立ちをしている子供のような気持ちになり、一つため息を吐いた。
「いいなぁ、彼氏……」
思わず、もう一度呟いていた。
「ただいまぁ」
玄関へ向けて何の気なしに出した声に返ってきたのは、意外な声だった。
「お帰り和葉、遅かったね」
「お姉ちゃん!」
階段を降りながらそう言葉を返してきたのは、姉の久喜子だった。
「どうしたの?」
「いや、大した用じゃないんだけどさ、ちょっと着替えが足りなくなったから、服取りに来たんだ」
そう笑いながら、姉は肩から提げていたボストンバッグをベシベシと叩いた。
3つ年上の姉、久喜子は、大学進学を機に家を出て一人暮らしを始めた。大学の近くにアパートを借り、気ままに暮らしているらしいが、正直私は羨ましくて仕方が無い。
親の目から離れて自分だけの空間が持てるなんて、その他にどんな大変な事があるのか想像もつかないが、17歳の女の子にしてみれば、その事実だけで充分魅力的なのだ。
一人暮らしを始めてから実家に寄る事はほとんど無い姉が家にいると言うのは、姉が家を出てからまだそれ程経っていないにも関わらず、奇妙な新鮮さを感じた。
「それより和葉、どっか寄り道してきたの?」
「うん、友達とちょっと」
「もう高校生だから、あんまり五月蠅い事は言わないけど、お母さん達心配するから、連絡くらいは入れてあげなよ」
「分かったわよ。それで、お母さんは?」
「ああ、ちょっと買い物に出てる。すぐ戻ってくると思うけど、私はもう行くね」
そう言って私の横を通り過ぎていく瞬間、微かに香ったフルーティな匂いが、彼女が大人の女性である事を私に教えてくれた。
「お姉ちゃん、香水つけてるの?」
「ああ、うん。ちょっとだけね」
「いいなぁ~」
「今持ってるから、和葉にもつけてあげようか?」
「本当!?」
私は大喜びで姉に近づいていく。餌に釣られる従順な妹だと言われても、今この瞬間なら何の反論も出来ない。
「はい、手首出して」
言われた通りにすると、私の手首に数滴、懐から出した可愛らしいボトルから香水を垂らしてくれる。それを手首でこすり合わせ、首元になすりつける。
私の身体を、爽やかな匂いが包み込む錯覚。
たったこれだけで、少しだけ大人に近づいたような気になるから不思議だ。
「これなんて言う香水?」
「ん~? 分からない。彼氏に貰った時に、ラベル剥がしちゃったから」
「お姉ちゃん、彼氏出来たの!?」
あまりに私が大きい声を出したからか、驚いたような顔をした姉はこちらに向けて、口の前に人差し指を立てながら、小さくシーッと言った。
「うん、この間ね。まだ母さん達には内緒にしてて、五月蠅いから」
「うん! ねえ、どんな人?」
「別に、普通の人だよ? まぁ強いて言えば、バンドでベースを弾いてる人」
「音楽やってるんだ! いいなぁ、格好いいなぁ。いつから付き合ってるの?」
「まだそんなでもないよ。3か月くらいかな?」
その時、姉の携帯電話から着メロが零れ落ちた。
「はい、もしもし。ああ、ごめん、すぐ行くよ」
姉は口早にそう告げ、電話をポケットに戻すと、私に向き直り、迎えが来たから行くね、と笑った。
「彼氏?」
「うん、まぁね。じゃあ、母さん帰ってきたらよろしく言っておいて」
姉はそう言うと、私に背中を向けて家を後にした。
私はすぐに2階の自分の部屋へと上って行き、窓を開けて外を見下ろした。
先程までの夕焼け模様はそこには無く、外はすっかり夜の闇に包まれていた。
玄関の先に、一台の軽自動車が止まっている。
その運転席の男性に話しかける姉の姿を確認し、あの人がお姉ちゃんの彼氏だな、と心の中でにやりと笑う。
姉はそのまま助手席へと乗り込み、次の瞬間には車は何事も無く走り去って行ってしまった。
「いいなぁ、彼氏~」
同じ家で育った姉が、家を出た途端に大人の階段を上って行くのが、嬉しくもあり、何だか悔しくもあった。
姉のくれた香水の香りが鼻を擽る。先程までの自分を思い返し、自分が必死に爪先立ちをしている子供のような気持ちになり、一つため息を吐いた。
「いいなぁ、彼氏……」
思わず、もう一度呟いていた。
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