割れないしゃぼん玉

泣村健汰

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その8

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 湯波蕎麦に軽快な舌鼓を打ち終わった後は、暫し温泉街を散策した。途中三葉姉が目ざとく、もう一つの名物、柚子入りの温泉饅頭を見つけて三箱程買い込んだ。ホクホク顔の三葉姉とげんなり顔の純二兄。対照的な二人がおかしくて、僕と父さんとでこっそりと笑う。そうして温泉街を一回りした頃には、時計の短針はタイミングよく3時に差し掛かる頃合いだった。旅館へと戻り、チェックインを済ませると、純二兄は一仕事終えたかのように、大あくびを一つ噛み殺した。
 貞淑な所作の女将さんに案内された部屋は、『葉桜の間』と名付けられた、綺麗で上品な和室だった。窓の外に目をやれば、鬼怒川が一望出来る素敵な景観が広がっている。川の周囲を取り巻く木々には、青々とした葉が生い茂っており、女将さんの話によれば、今は青々としているそれらの木々は、秋には紅葉狩りの名所となって観光客の目を楽しませているのだと言う。
 成る程、また秋にも来たいと感じさせる、見事なセールストークだ。
 温泉は大浴場と露天風呂があり、清掃を行う夜中の2時から3時の間以外は、いつでも入浴が可能らしい。
 夕食は何時にいたしましょう、と女将さんに聞かれ、7時でいいわよね、と即答する三葉姉。つい先刻、湯波蕎麦を食べたばかりで、次の食事の時間などまるで浮かばない男性陣に対し、いくつもの別腹を巧みに使いこなす女性のタフさをまざまざと見せつける。
 朝食は朝の7時から9時の間、一階にあるレストランで、ビュッフェ形式との事。チェックアウトは10時までにお願いします、と一通りの連絡事項を済ませた女将さんは、人懐っこい笑みと、恭しいお辞儀を残り香に、葉桜の間を後にした。

「うっし、そんじゃ早速温泉に入って来ますか!」

 純二兄がこの旅行始まって以来一番の、威勢のいい声を出した。

「何よ、急に元気になっちゃって」
「ばっかやろう、これが一番の目的だろうが。お前みたいに、食べる事メインで来た訳じゃないんだよ」
「何言ってんのよ。食べる事も温泉も、私的にはどっちも甲乙つけがたいんだからね」
「お前だったら、温泉だって全部飲み干しちまうんじゃねぇのか?」
「それどう言う意味よ!」
「お~い、何してるんだ。ほら、先に行っちゃうぞ」

 僕達が声に振り向くと、一人でさっさと用意を済ませた父さんが、部屋の入り口に既に立っていた。どうやら、一番温泉を楽しみにしていたのは、他ならぬ父さんだったようである。

「父さん、浴衣に着替えないの?」
「そんなもん、持って行って風呂上がりに着替えて戻って来ればいいだろ?」

 至極尤もな意見に賛同し、早速僕らは浴衣とタオルと貴重品と軽い着替えだけを持って、温泉へと向かう事にした。
 脱衣所の手前で三葉姉と別れ、脱衣所で衣服を脱ぎ、浴場へと向かった。無論僕と純二兄で、父さんが滑ったり転んだりしないように、細心の注意を払う。
 身体を洗い、父さんの背中を流してから、三人で露天風呂へと足を向けた。
 足元からゆったりと湯船に浸かる父さんは、満足そうな声を漏らし、高く広がった青空に目を細めた。
 肩までお湯に浸かり眺めた空は、埼玉で見た時よりもずっと、清々しく見えた。露天風呂の開放感が、僕にそう見せたのだろうか。晴々とした空の下、ここ最近の心配事や疲労が、お湯に溶け流れて行くような心地良さだった。

「日の高い内から温泉に入れるなんて、最高の贅沢だなぁ」

 父さんの呟きを聞き、僕と純二兄は、こっそり目配せをして微笑みあった。

「来て良かったね、父さん」
「ああ、来て良かった」

 そこで父さんは空を仰ぎ見て、柔和に微笑んだ。そして、深く長く息を吐き出して、嬉しそうに呟いた。

「二人共、ありがとう。いい息子達を持って、父さんは幸せ者だ……」

 微笑む父さんの顔が、湯煙の所為か、瞬間的に滲んで見えた。瞳の奥が、じわりと熱を帯びる。
 そこで純二兄が突然、じゃぶじゃぶと温泉で顔を洗い始めた。洗った後は顔を両手でピシャリと叩き、ふぅ、と一つ息を吐く。

「あー、俺、ちょっとのぼせたっぽいなぁ。一回出るわ……。サウナにでも行って来る。伸五、父さんの事頼むな」
「うん、分かった。純二兄も、気をつけてね」

 そう言うと純二兄は顔を押さえたまま、そそくさと露天風呂を出て、一人大浴場へと戻って行った。お湯に浸かったばかりなのに、のぼせたと言いながら、逃げるようにサウナへと向かう純二兄。その姿はなんだか微笑ましく、寧ろ滑稽ですらあった。だけど僕でさえ、さっきの父さんの言葉には、思わず涙腺が緩みそうになってしまった程だ。純二兄が温泉で顔を洗い、のぼせたと言ってサウナへと向かった行為も、矛盾する事無く説明がつく事柄だった。
 父さんの言葉によって、今回の旅行に満足してくれた事を理解した。
 僕らが今回計画した親孝行は、無事に成功した事を理解した。
 その事実が、僕達の胸の奥底を歓喜で震わせたのだろう。その到着点が、純二兄のあの行動なのだろう。
 父さんの言葉を、後で三葉姉にも教えてあげよう。きっと、純二兄と同じような反応をする筈だ。正反対のようで、実はよく似ている二人だから。

「なぁ、伸五」

 純二兄の姿を目で追っていた僕は、呼びかけられて、すぐさま父さんに目線を戻した。

「何? 父さん」
「気持ちいいな」
「うん、気持ちいいね」

 そうして二人で、暫くの間、空を眺めていた。
 父さんはまるで、何処か僕とは違う景色を見ているかのように、目を細めながら微かに笑みを浮かべ、時折飛び交う鳥達を目で追いかけながら、鬼怒川と言う土地を堪能していた。
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