流浪の果ての花園

萩原伸一

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第一章 果てしない旅

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 二ヶ月後、雪姫は右門に嫁いできた。この頃には雪のお腹の膨らみが少し目だち、式は身内だけで行われた。家老職を賜る者の娘の婚礼には、異例のことだった。数ヵ月後に男児が生まれ、又三郎と名付けられた。
 こうして又三郎の波乱に富んだ人生は、生まれる前から始まっていた。
 深窓に育った雪姫だが、下級武士の妻女の役に驚くほど早く順応し、人も羨む貞淑で賢母な妻を貫いていた。

 赤石は右門の優れた応用力に気ずき、藩の普請奉行の配下に入れた。右門はすぐ頭角を現し、技術面での責任者となり部下を持つ事を許されたため、右門は釣り仲間の浪人の倅、伝八朗を部下に迎えた。伝八朗の父は、夢だった倅の仕官が叶い安心したのか、先日この世を去り、伝八郎は病身の母と二人で暮らしている。
 仕官して家を開けることが多くなった伝八郎は、病気がちな母を一人残すことが気がかりだったが、雪様が良く母を見舞ってくれた。

 その頃、分家の国光君の狂気じみた挑発が又始り、お家騒動が再燃していた。伝八郎は恩人である右門夫妻の、今に至った経緯は知っていたので心配だった。ある日、何か不吉な予感がして、伝八朗が右門の家を覗きに行くと、予感は当たった。

「助けて!誰か助けて!」

 家の中から必死で助けを呼ぶ、雪様の声が聞こえた。驚いて家に飛び込むと、五歳に成った又三郎を庇い、必死に二人の賊に小太刀で立ち向かう雪様の姿が映った。伝八朗は間髪いれず、いきなり賊の背後から斬りつけ、一瞬にして二人を斬って捨てた。賊の倒れるのを見届けた雪も崩れるように倒れた。慌てて抱き起こした伝八朗は、斬り刻まれた雪姫の無残な顔を見て、良くぞ此処まで又三郎を守り、持ち堪えた、と思うほどだった。

「又三郎は、又三郎は無事ですか伝八郎。又三郎を頼みます・・・」
「又三郎様は無事です。気をお確かに。こ奴等は何者です」
「く、国光君の・・手の、もの・・・ーー」

 これが又三郎の母、雪姫の最後の言葉だった。伝八朗は悔しかった。もう一瞬早く自分が駆けつけていたらと思うと、悔しくて堪らなかった。貧しい浪人の家に生まれ、物乞いの様な身形で育った伝八朗は、これまで女性に想いを寄せたことは一度も無かった。伝八郎にとって雪姫は大恩人の妻女であり、初めて密かに想いを寄せた憧れの、手の届かぬ人だった。雪の無残な屍を抱きしめ、伝八朗は二度と、自分にはこの人の他に心を奪われる人は現われないだろうと思った。

 一方右門は、工事現場で悲報を聞き、我が家に向かって走っていた。玄関を入り、仏間に入ると、雪が無残な姿で寝かされていた。顔に、見覚えのある伝八朗の手ぬぐいが掛けられ、取除くと、雪は顔にも多数の向かい傷を負っていて、思わず眼をそらした。

 又三郎は何処に!相手は又三郎も狙っている。相手は、ご家老を攻め倦み、手を引かせようと娘の雪や、又三郎を狙っている。伝八朗の手ぬぐいが残されていたのだ。又三郎は伝八朗が連れて逃げてくれたと思うように努力して気を取り直した。
早く伝八朗に会い、又三郎の安否を聞きたいが、無残な雪の遺体を一人残すのも忍びない。

 そのころ伝八朗は家で気を揉んでいた。襲ったのは国光君の手先とわかっているが、恩人右門様に代わって雪様の無念を晴らすべきか迷っていた。右門様は代々浪人の自分を、取り立ててくれた恩人だ。雪様も病身の母の面倒を良く見て下された。警護の厚い国光君を斬る事は、右門様には無理だ。伝八朗は右門に代わり、国光君を斬って恩人の無念を晴らし、腹掻き切って死にたかった。だが自分には、病身の母上がいる。後に残る母に、惨い災いが及ぶかと思うと、決断の時は刻々と過ぎて行く。早く決行しなければ、又三郎様や右門様も危ない。そんな伝八朗の苦悩を見た母の佳子が気丈に言った。

「伝八郎、迷うことは無い。又三郎様を連れ、他国に逃れなさい」
「母上も来て下さい。ここに残れば母上に災いが及びます」
「病身の母に、それは叶いませぬ。母の事は心配無用、この様な事が起きるのは、母も右門殿も予期していました。その時が来れば右門様が、母が少しも苦しまぬ様、亡くなられた父上の所に連れて逝くと、約束して下さいました」
「・・母上が、そこまで決心されたのなら、私の腹は決まりました。五年前、佐脇十兵衛と言う剣客を父上が、お助けになりました。佐脇殿は恩返しにと、道場では学べぬ剣と兵法を、繰り返し私に授けて下さった。今こそ佐脇様から授けられた兵法を生かし、母上や右門さまが見ていて下さる内に国光君を討ち、雪様のご無念を晴らし、伝八朗は腹掻き斬って、果てます」
「伝八郎よく言った。だが腹を斬ることは許さぬ。たとえどの様な姑息な手を使ってでも、あの残忍な、人でなしの国光君を討ち漏らしては成らぬぞ。国光君を成敗し、又三郎様を連れ、逃れなさい」
「仰せに従います。私が国光君を成敗すれば、お家騒動は治まりますか」
「騒動は治まるだろう。だが分家は、ご子息が跡を継ぎ残る。狂気な分家の家来達や、深く事情を知らぬ家臣は、殿の弟君を斬ったお前や右門様を逆恨みし、国光君の仇と執拗に狙うだろう。お前は藩を救って恨まれて、馬鹿馬鹿しいだろうが、藩のために国光君を斬るのでは無い。恩ある右門様に代わって、雪姫様の無念を晴らすのだ。後悔してはならぬぞ」
「はい、日が暮れたらすぐ向山の我が家の小屋に行き、又三郎様を小屋に隠したのちに国光君を討って旅立ちます」

 伝八郎は母が、これほど強い人だと知らなかった。病身で優しく、花を愛し、人と争うことなど思いも寄らぬ母上が、これほど強い人とは。

「母上、私はこれから右門様に訳を話し、そのまま向山に参ります。事が終われば合図に向山の小屋に火を放ちます」

 そう言って立ち上がる伝八郎に母は、有るだけの金子と握り飯を持たせ、もう今生で会う事の無い倅に、「伝八郎さらばだ」と気丈に見送った。

 そのころ右門は、一人だけで雪の通夜をしていた。又三郎は伝八朗に匿われているだろうか。不安に耐えられず、伝八朗の家に行こうかと思った時、裏口で伝八朗の押し殺した声がした。

「伝八朗です。又三郎様も連れて参りました。相談が有ります」
「又三郎は無事か、良かった。だが又三郎はまた狙われる」
「それも心配ですが私は悔しくて、国光君をこの儘にして置くことは堪えられませぬ。国光君を斬り、貴方や母上を連れ、どこか知らない土地で静かに暮らせたらと願いましたが、病身の母に、それは叶いませぬ。私は今夜、国光君の屋敷に夜討ちをかけ、母上や貴方が見ていて下さる内に、雪姫様のご無念を晴らします」
「そうか、良く言ってくれた伝八郎。雪の仇は某が討たねばならぬ事だが、私では返り討ちになるのが関の山。手馴れのお主なら、それも叶うかも知れない。だが、たとえ主君に刃向かう国光君でも主君の弟だ。斬ればもう此の地では生きては行けぬが、お前一人なら江戸に行けば、何とか生きて行けるだろう。辛いがお主の母御は、私が連れて逝く。ただ、雪が命に代えて守った幼い又三郎を道連れにすることだけが不憫でならぬが、お前だけでも生き抜いてくれ。それが俺とお主の母御に残された、只一つの希望と意地だ」
「又三郎様も連れて参ります」

 それを聞いた右門の顔が一瞬輝いたが、

「それは無理だ。五歳の子供を連れての追われ旅なぞ無謀だ」
「いいえ、たとえ我が身が物乞いに成り下がっても、討っ手を返り討ちにしてでも、又三郎様が独り立ち出来る様になるまで、必ず私が守り抜きます」

 右門は、伝八郎の力強い言葉に、二人が斬り抜けるのも夢でない様な気がした。

「わかった、そうしてくれるか。これで思い残す事は無い。だが伝八郎、無事、国光君を討つ事が出来ても、子連れの追われ旅は武士にとって死ぬより辛い、屈辱な旅になるだろう」

 そして今度は又三郎に向かい、

「又三郎、今から父の言うことを良く聞くのだ。城から母を殺した奴等が、お前を殺しに来る。父は戦って死ぬ。お前は伝八朗が守ってくれる。すぐ伝八朗と旅に出るのだ。泣いてはならぬ」

 幼い又三郎にも父の様子から、どうしても避けられぬ危難が迫っている事を感じ取ったのか、嫌とは言わなかった。

「伝八朗、早く行け。事が済めば早く城下を離れるのだ」

 そう言って右門も、有るだけの金子を掻き集め右門に持たせた。

「決行は夜明け前になります、無事に本懐を遂げれば、向山の小屋に火を放します。僅かな間ですが、母上を頼みます」

 伝八郎は恩人の右門に別れを告げ、又三郎を背負うと、向山に向かった。

 今生の別れと二人を見送った右門は、伝八郎の母、佳子が一人でさぞ心細いだろうと、伝八郎の屋敷へ急いだ。
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