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9章 再
5 正しい死
しおりを挟む今度は、霧島が千逸の腕を引く番であった。
ふたりは研究所を出るや否や駆け出した。千逸は鋭く輝く朝日に目を細めながら、疑問を浮かべたまま霧島の後ろをついてくる。
朝の、まだ冷たい空気がそこにあるなか。それをまとうように無人の大学構内を突き進むのは、気持ちが良かった。
――成功したあとも、きっとこうして走ったに違いない。
霧島にその記憶は残っていなかったが、そう思えた。
死んで会えなくなると覚悟していた彼と、これからも一緒にいられることがわかり、きっと嬉しかったはず。
不意に後ろを振り向くと、視線の先の千逸もどこか懐かしむように微笑んでいた。
その姿を見て霧島は思う。
――初の素体交換のときは、とにかく焦っていたんだ。
唐突に訪れた空山の死の危険に動揺し、身をすり減らして研究に取り組んでいた毎日。
だから、あのときは冷静な判断ができなかった。当時はまだ大学生であり、その後死ぬまでの時間がある程度保証されていることに、気付けなかった。
いまはそれとはまるで状況が違った――もちろんいい意味で。
時間は限りなく無限に存在し、隣にはあの頃と変わらずに光を放つ千逸がいる。
霧島は、少し前の――千逸に出会う前の自分の無気力さを思い出して小さく笑った。
――俺にも、むかしと同じ希望に進む力がまだ残っていてよかった。
そう思いながら、学校の連なるあいだを走り続けた。
プラントの外へと続く扉を出ると、そこは照明で明るく灯されていた。
右手のエレベーターも起動しており、霧島は迷うことなくそこへ乗り込み、千逸もそれに従った。
上昇を続ける静かな空間のなかで、不意に千逸は呟く。
「先輩……あなたは」
その目にはかすかな光が灯っていた。
どうやら、霧島の思考を読んだらしい。霧島が微笑みを向けると、彼はその後考え込むように腕を組んで俯いた。
上昇を続けていたエレベーターが減速して止まり、ふたりは管理プラント「みくら」上部の管制室へ辿り着いた。
扉が開いた瞬間、霧島を迎えたのは部屋の奥一面に広がるあの鮮烈な青だった。
先程浴びたまやかしの朝日とは違う、本物の太陽が燦然と輝いていた。その下には遥か彼方まで続く緑があり、その光景は、まるで霧島を誘うかのように煌めいて見えた。
霧島がごくりと唾を飲んだとき、千逸が後ろから声をかける。
「先輩。ここを起動していいんですよね?」
そのことばにはっとし頷くと、千逸は部屋の片隅へ移動し壁の中の何かを触りはじめた。すると直後にモニターが起動し、機材が通電しはじめた。
「千逸、ありがとう」
「これくらい序の口です。さあ、次は俺は何をしたらいいんですか?」
千逸がそう言ったとき時には、すでに霧島の手は動いていた。
端末のひとつにに腰掛け、現れたキーボードを叩きコンソールを呼び出す。そしてモニターを起動すると同時に、とあるシステムが生きているか確認する。
――観測用のガイガーカウンターがあるはずだ。それがまだ生きていれば……。
それを見ていた千逸も途中から隣に腰掛け、別の端末を操作し始めた。そして、
「……先輩。ありました。このプラントの四つはすでに死んでいましたが、ここから五キロほどの位置の測定用に設置したふたつは……どうやらまだ生きているみたいです」
そのことばに霧島は一安心したものの、完全に安堵できた訳ではなかった。
あとひとつ大切な確認が残っていた。
「千逸。……数値は?」
すると、ややあって千逸は淡々とした顔で呟くように言った。
「線量は……自然放射線よりは高いですが、防護服で外に出れるくらいです。……そうか、長めの核種も気づかないうちに半減期を迎えていたんですね」
そのことばに霧島はようやく胸を撫で下ろした。
「……………そうか。よかった」
「先輩、あなたは――」
光に輝く瞳を向ける千逸に、霧島は言う。
「千逸。……お前に、俺から願いがあるんだ。俺とまた一緒に、魂を生み出す研究を始めないか?」
その霧島のことばに、千逸の表情は大きく変わりはしなかった。ただその目の開き方から、驚いていることは明らかだった。
霧島は続ける。
「世界に散った放射性物質はすでに半減期を迎えている。だから防護服を身に着ければドームの外にも出れるし、すこしずつ活動範囲を広げていけば、いつか世界に残された実験施設も使えるかもしれない」
それはこれまで実現できなかった、魂の粒子そのものの研究が再び可能となることを意味した。特に、プラント外に放棄されたままになっている大規模放射光施設は、粒子を生み出すために最低限必要であった。
「――千逸。素体交換を成功させた俺たちなら、どこまでも行けるさ。そしてきっと魂も生み出せる。だから……俺は霧島至旺として。お前は空山千逸として。この世界で俺達にできることをやって、最後に自分として死ぬ権利を得よう。人が増えれば、俺たちが生き続ける意味はなくなる。それでようやくお役御免だ」
自分として、自分のままで死にたい。
そんな自分の願いを口にしたあとで、霧島は千逸がぽかんとしていることに気づいた。
「……千逸?」
そう声をかけると、千逸はなぜかにやりと笑った。それは新しい挑戦を突きつけられた、科学者の顔であった。
「……まったく。俺はもう言ったじゃないですか。先輩の隣で生きていければいいって。それなのに、まさか素体交換のとき以上に大変な目標を作ってくれるなんて……まったく、思ってもいなかったですよ」
「ははは」
霧島が軽く笑うと、千逸は真剣な眼差しになって言う。
「……先輩。先輩がやろうとしていることは、なかなか大変なことです。実は俺も途中までやろうとして諦めました。ネックだったのは、実際に施設まで辿り着いたあと、機材を扱うために必要となる大勢の人手と専門家の存在です」
あたらしく粒子を生み出すためには、確実にふたりでは足りないことはすでに明らかであった。
それをわかっている上で、千逸は微笑みながら続ける。
「――だけど、これからは先輩がいると思ったら、どうにかなる気がしてきました。先輩なら……きっとこの世界でもいろいろな人に声をかけて、協力してくれる人を見つけるでしょう」
もちろん、という顔で霧島も返す。
「ああ。そうさ。それが俺の役目だったからな」
「それに時間も……嫌になるくらいたくさんあります。だからすこしずつ進めていきましょう。……今度は、途中で青春も挟みながら」
「そうだな。とびっきりのやつを頼む」
そう言った霧島の視線の先には、窓辺に佇む千逸の笑顔があった。
――この世界で、彼とならば。長い年月をかけて、すこしずつ目標に近づいていくことができるだろう。
そしていつか、自分たちは本当の魂の自由を取り戻せるに違いない。
霧島はそう思いながら、微笑みを浮かべた。
その視線の先には、鮮やかに彩られた本物の空と緑が、遠くどこまでも続いていた。
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