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9章 再

2 空山と千逸

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 月光があたりを優しく照らすなか。
 ほかに人間が存在しない寂れたプラントの、朽ちゆく建物のなかで。かつて仮眠用に用意していたソファの上に、ふたりは寄り添うように座っていた。
 およそ三百年前、コーヒーを手に語り合っていたその場所で。いまふたりは互いの気持ちと関係を確かめるように、身体を絡ませ座っていた。
「……夢みたいだ。こうして、ここで先輩と一緒にいられるなんて」
 感慨深い様子で呟く千逸に、霧島は言う。
「そうか?お前、順序をすっとばして先にいろいろしてきただろう?……いま思えば、はじめてとこよで会った時に、助けてくれたときのお前の誘い文句はすごかったな」
 すると、千逸は耳を赤く染め、焦るような素振りを見せた。
「それは言わないでください。……あのときは、先輩を前に頭が真っ白で必死だったんです。それに、ああいえば先輩なら納得すると思ったんです」
「……確かに、理にはかなっていた」
「そうでしょう?」
 千逸はにこやかに微笑んだあとで続ける。
「……俺はずっと昔から、好きあらば先輩としたいと思ってたんですよ」
 そのことばに霧島は驚く。
「本当か?それは少しも気づかなかった。……まあ、あの頃は勉強にプレゼンに必死で、それどころじゃなかったからな。……いつくらいからだったのか、聞いてもいいのか?」
「……それは、俺にもよくわからないんです」
 千逸はそう言って宙を見上げた。
「最初は先輩のこと、ほかの有象無象のうちのひとりくらいだと思っていたんです。なのに、俺の出した無茶な量の資料にまじめに取り組んでいるのをみて、そのときからこのひとは違うなと思ったんです」
 やはりあのときの無表情はそういうことだったのだと、霧島は苦笑する。
 千逸はその反応をみた上で続ける。
「先輩はちゃんと叶えたいことがあって、自分の能力もできることもきちんと把握していた。ときどき調子にのることもあったけれど、それは理論武装してるがゆえで。よく通る声で皆を惹きつけ、言いたいことを正しく伝えてくれた。俺は昔からことばの選び方が得意ではなかったから、俺にできないことをする先輩に、気づいたら惹かれていたんです」
「千逸……」
 ――そんな昔から、俺に思いを馳せてくれていたのか。
 千逸が当時から自分のことをよく見ていたことを知り、霧島は嬉しくなる。そうしてひとりにやけていると、突然千逸の顔が近づいたかと思えば、彼は霧島の首筋をぺろりと舐めた。
「――っ……千逸!?」
「こういう色っぽい声も出せるなんて当時は知りませんでした」
「……突然舐めるな!」
 千逸はにんまりとしながら、それを無視する。
「それよりも、何より大きかったのは、先輩が俺を信じてくれたことでした」
 そのことばに霧島は疑問を浮かべる。
 ――あれだけ飛び抜けた理論と膨大なデータ量を見れば、信じるのは当然だったはず。
 霧島がそう思っていると、千逸は霧島の目を見つめながら、少し恥ずかしそうに口を開いた。
「……はじめてだったんです。俺の考えを理解できるところまでついてきてくれた上で、そのうえさらに信じてくれるひとは。皆、何も理解しないでうわべだけ取り繕うひとばかりでした。だから、直感でこのひとがいれば俺はもう大丈夫だと思ったんです。実際そう感じたとおり、先輩が一緒に来てくれてから、すべてが好転しはじめました」
「そうだったんだな……」
 当時の千逸の研究自体はずば抜けていたものの、教授が指摘していた通り、資金調達など見えないところで苦労していたのだろう。
 千逸のことばに、自分の努力も間違いではなかったのだと霧島は嬉しく思う。
 顔が自然とにやけてしまうのを必死で抑えていると、目の前に千逸の顔が迫っていることに気づいた。
「先輩」
「なんだ?」
 千逸はどこか悪戯っぽい笑みを浮かべていたので、霧島はすこしだけ嫌な予感を感じた。するとなぜか、
「霧島」
 と最近呼んでいたように静かに自分を呼んだので、霧島のあたまは一瞬混乱する。
「……千逸?いや空山?どうした?」
「霧島は、いまの俺と昔の空山どっちが好みなんだ?」
 突然そう言われたので、霧島は思っているままに答える。
「……どっちも、お前だろう?」
「じゃあ、どっちでもいいということか?
「……まあ。どちらもお前だからな」
 霧島のなかには、過去の記憶と最近の記憶が存在するので、突然呼ばれると頭が一瞬混乱してしまう。しかし、昔の空山もいまの千逸も、どちらも確かに空山千逸であるのだ。
 霧島には、現在の無愛想な千逸はおそらく人付き合いの苦手な彼の素ではないかと思われた。かつて大学で初めて出会った時のことば足らずな姿を思い浮かべると、それはより確信へと近づいた。
 そしてもうひとつ。後輩の空山として振る舞う姿は、唯一認めた自分だけに見せる、甘えた姿だと霧島には思えた。
 そのため、どちらの姿も霧島にとっては、かけがえのないものであった。
 ――どちらも彼を語る上で外せない。
 霧島がそう思っていたときであった。
 突然横から手が伸び、霧島の身体は優しくソファに押し倒された。その手のあるじ――上から覆いかぶさる千逸の表情は、みたことのないほど柔らかく、リラックスしているようにみえた。
 身体が近づき、顔と顔の距離も徐々になくなり、確かめるように軽く唇が合わさる。触れるように、あいてが確かにそこにいることを感じるように。
 そして合図なく、千逸は霧島の唇を激しく求め始めた。同時に霧島も応戦し、そして互いの手も、互いのからだを弄り始める。
 霧島は思った。
 すでにもたらされる快楽は知っているはずなのに、こころが通じ合うとこんなにも世界は変わるのか、と。
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