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8章 始
5 ふたりの場所
しおりを挟む薄暗い大学構内を、霧島は当てもなく歩いていた。
埃をかぶったそこへ一歩踏み出すたび、彼のなかで記憶が一つずつ蘇っていく感覚があった。
入学した当初、熱意をもって授業を聞いていた講義室。
自分の能力に挫折し、悔しさにひとり涙を流したこともある図書館。
霧島は、なぜかそこに呼ばれるように、重い扉を開けなかに入った。
空になった書棚や自習用のテーブルには、うっすらと埃が積もっていた。しかしそれは時を止めたように、昔と変わらずにそこにあった。
霧島は、いまは存在しない本の黴臭い香りを感じながら、空山がよく座っていた席へと足を進める。
――たしか量子力学の棚の前。
手に取ってくれる誰かを待ち続ける、専門書のならぶ図書館の最奥部。
そこには、仕切りで人の視線に邪魔をされない机があって、その一番端の席が定位置だった。
あの場所で彼は、
『ようやくそこまで来たか』
そう言って自分を認めてくれたのだ。
――ああ。そうだ。なら次は。
花開くように次々と蘇る記憶に、霧島の足は速くなる。
非常灯が灯された研究棟に入ると、五階までの階段を足早に上がる。電気の通っていない自販機とベンチの前をすぎると、かつて毎日通った研究室の扉がみえた。
霧島は勢いよくそれを開け、次に目に入ったモニターの電源を入れる。しかし、こちらも通電せず、期待とは裏腹に反応はなかった。
『霧島君、おはよう』
――教授は、毎朝そう迎えてくれたな。
三百年という月日が経ち、今更自分を支えてくれた存在を思い出したことに、霧島はすこしだけ申し訳なくなった。
同時に寂しさが募るも、あの頃は自分がこうして新しい身体でここを訪れるなんて思ってもいなかったと、残されていた椅子に座り感慨に浸る。
それは偶然にもかつての自分の定位置であった。窓から覗く外の景色を見やると、すっかり暗くなっていたものの、それはいまも昔もまったく変わっていなかった。
――これくらいの時間からは寮に戻ることもあった。しかし。
霧島は部屋を静かに出ると、廊下を軽やかに駆け出した。
――あとひとつ。
霧島がふたつめの資金調達に成功した後、ふたりで実験をするために作った場所。そこへ向かいながら、霧島はむかしに思いを馳せた。
ここで、寝食を忘れて遊びもせず、学ぶことに必死だった日々。
はじめての調達が成功したときは、寮にこっそり酒を持ち込んで祝杯をあげようとし、怒られたこともあった。また法人化するときは、別のあたらしい知識や登記が必要で、資金の使い道に衝突をしたこともあった。
楽しかったことも苦しかったことも、そのすべての記憶を自分が忘れてしまったのは、こころが悲鳴を上げていたからだと思えた。
滅びに怯え、極限まで追い詰められていた当時の自分は、その重圧から解放された途端に壊れてしまったのだろう。
――まるで外圧がなくなって自ら破裂する細胞のように。
きっといまなら受け止められる、そう霧島は思った。
いまの、死を恐れていない自分なら、襲いかかるすべてを受け入れられる、と。
――この建物の奥だ。
霧島が息を切らしてやってきたのは、講義棟の裏であった。
そこにひっそりと佇む、白い物置のような建物の中に入る。
――やはり、ここだった。
非常灯で照らされたそこのなかで、霧島は周囲を見回しながら思った。
体育館のように天井の高く広い空間の右手には、無数の機械と棚が並んでいる。そこにはいまも試薬や資材が大量に残されていた。
一方で左手側に視線を向けると、仕切られた手前の区画には生活感が残っていた。布団やマグカップなど個人の私物のほかに、無数のトロフィーや盾がキャビネットのなかに保管されていた。
霧島はそのひとつひとつを確認しながら思いを馳せた。
二度目の資金調達前に法人化し、その後五億円の融資を受けてここを作り、技術開発に本腰を入れたのが始まりであった。
その頃には霧島はとっくに大学院を修了していたものの、無視して籍を置き実験に勤しんでいた。
はじめにマウスを使い、次はイヌ、そしてサルと、次第に実験動物の身体が大きくなっていくたび、装置もなかを満たす媒介液も増えていき、苦労したことを思い出した。
それら試作機の名残りが無造作に置かれている脇を歩き、霧島は建物の奥へと進んでいく。すると目の前には、人が有に三人は入れるほどの巨大な水槽があった。
――ここで、素体の管理をしていたんだ。
動物実験が終わり、いよいよ初号機が完成の目処がついたとき、素体を協力会社から提供してもらえることになったのである。
いまはなにも入っておらず空であったが、かつて水槽を液で満たし、ここに素体を保管していたのであった。
――ただ、そのときは理論は完成していたものの、一向に国からの許可が降りなかった。
大抵の機械は、幾度も試験を重ねて実施、販売に移行する。しかし、試験に失敗した場合死の危険があるこの機械は、なかなかそこに至ることができなかった。
――そうして悶々とする毎日をすごしていたとき、それに合わせるように、突然空山が免疫異常症を発症して焦ってしまった。
いまとなっては恐れることのない単純な病気であったが、このときの霧島の精神は限界にきていた。
『俺がやろう』
そう言ったのは、たしか休憩中のこと。
霧島にとって、空山は唯一の光であり、嘘偽りのない真理であった。それが光を失い消えていく過程なんて見ていられなかった。
だから自分の手で証明したかった。
空山千逸が人類を救う本物の存在であると。
自分が実験体になることを空山本人に伝えたとき、彼は困惑の表情を浮かべていた。しかし彼の頭にもすでに考えは思いついていたと霧島は思う。
自分たちふたりのうちどちらかが実験台になるのが一番都合がよく、そして操作があることを考えると、誰が適任かはほぼ決まっていた。
そうしてはじめて自分たちの手で起動実験を計画したのであった。
霧島の視界に巨大な槽がなくなりようやく開けたとき。
目的としていた場所はあった。
建物の最も奥にある、誰も訪れた形跡のないその静かな空間で。
月光に照らされたふたつの透明な管が、霧島を待っていた。
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