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6章 汝
5 水の奥、そこにいたのは
しおりを挟む霧島の視界を、突如白い泡の奔流が襲った。
同時に、強い水の流れが全身を包み込み、まるでそのなかに引きずりこまれていくような感覚を覚えた。
夢か現かわからない、ぼんやりとした意識のなか。
霧島の身を包んでいた速い流れはゆっくりと消え、なぜか下から黄金の泡が溢れた。
それは次第に数をなし、上へ上へと昇っていくではないか。
優しく撫であげるように吹き上がる無数の泡に、触れようと手を伸ばす。するとそれは次々と弾けたあとで、指が泡の奥の壁に簡単に触れた。
よく見ればそこに奥行きはなく、霧島は自身が透明な管のなかに閉じ込められていることに気づいた。
しかし、閉塞感は少しも感じなかった。また水の中にいるにもかかわらず息苦しさはなく、口は自然と水を含んでいる。
このとき、ようやく霧島はこれがあの夢のなかであり、やはり記憶そのものであることに確信したのである。
――この、鮮明な光景が……忘れてしまった俺の記憶だというならば。
このあと、あの人がやってくる。
霧島の過去。原点ともいえる第一世代の霧島至旺が、胸を痛めて一緒にいたいと思っていた人物。
それは空山千逸であるのか、それとも――。
霧島は泡の奥に人影を感じ、目を凝らす。
すると徐々に近づく影が見えたものの、黒いシルエットばかりで、その顔は見えない。
――あなたは、一体誰なんだ?
そう問おうとするも、なぜか口は開かない。
――早くしなければ……夢が終わってしまう。
次に人影が言うことばを霧島はわかっていた。しかし、求めているものはその一歩先なのだ。
霧島にとってのこの夢――記憶の断片は、ほかのすべてを思い出すための、現状唯一の手がかりであった。これ以上なにもわからなければ、万策尽きたも同然である。
霧島はすでに諦めかけていた。男の口が開き、
「もし、生きていたら――」
その時だった。
「先輩」
あたりに響き渡った声に、霧島は覚えがあった。
その低く静かに胸を震わす声音に、霧島は、
――千逸?
と、一瞬あの男の姿を思う。
すると、なぜか視界の人影――ずっと黒い靄がかかったようにわからなかった影が、急に人の形を結んだのである。
そこに佇んでいたのは、どこか幼さの残る黒髪の青年であった。
薄汚れた大きめの白衣を適当にひっかけ、ぼさぼさの髪と大きな眼鏡が特徴的であった。それだけ見れば、だらしない学生という印象を受けただろう。
しかしこちらに向けられた眼鏡の奥のまなざしは、真剣そのものであった。その、輝く黒曜石のような瞳に、霧島は視線が奪わると同時に強い既視感を抱いた。
――この、青年は……。
その時。
「先輩!」
二度目の呼び声が聞こえはっとすると、途端夢の景色は消え去った。
そしてぼんやりとしていた視界のなかで徐々に焦点は合い、目の前には焦った顔をする千逸がいた。
「…………千逸?」
――なぜ、そんな緊迫した顔をしているんだ?
霧島はなぜか自分が背を横たえていることに気付き、身体を起こして問おうとする。しかし、喉の奥に水を感じて咳き込んでしまった。
「――大丈夫か?」
霧島の背中を支え、優しくさすりながら千逸は心配そうに言う。
辺りを見回せば、そこは砂浜の脇の木立のしたであった。
どうやら、自分は海のなかで水の感覚に集中していたところ、気づかないうちに溺れていたらしい。
すでに身体は乾きつつあったものの、髪はまだ水分をじっとり含んでいた。
千逸は、こちらが意識を取り戻したことに気づいたのか、緊迫していた表情を和らげた。その優しい眼差しはいつもと異なりどこか弱弱しさを含んでおり、不意にあの夢の青年の面影と重なる。
――やっぱり……お前は。
千逸は、不意に霧島の顔を拭うように優しく撫でた。その体温と背から伝わる砂浜のぬくもりを感じながら、霧島は穏やかな睡魔に包まれ、意識を手放した。
その頭にあったのは、あの夢の青年が千逸であるという確信。
そして、
「もし生きていたら」
という、あのことばの先が、おそらく千逸の願いであるということ。
すべては、あの記憶の場所にいけばわかる気がした。
学生時代にふたりが出会い、学び、そして素体交換技術を生み出したあの場所。
およそ三百年が経ったいま、そこは残っているのだろうか。
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