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4章 春

6  距離

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「……帰るか」
 千逸ちはやがそう言ったのは、空に雲が広がり始めた昼下がりのことであった。
 突然のことに、この場所が気に入り始めていた霧島は一瞬戸惑う。しかしすぐにそのことばに同意すると、ふたりは片付けをはじめた自動機械の音を聞きながら、朱色の楼閣ろうかくを後にした。
 どんよりとした空の下で、先を歩く千逸ちはやとその後ろを歩く霧島のあいだには、なぜか微妙な距離があった。
 この距離感であり、ふたりのあいだでただよっている妙な空気が、霧島があの建物から渋々腰を上げることを決めた理由でもあった。

 昨晩、二度目の行為を終えて以来あの小さな楼閣ろうかくですごしていたふたりであったが、霧島はなぜか千逸ちはやの行動に違和感を感じはじめていた。
 千逸ちはやは普段からことばが少なく無表情である。しかし、ことば足らずなのは端的な話し方によるものであるし、淡々とした表情にもさまざまな感情が含まれていることを霧島は知っていた。最近は、その微妙な変化を読み取れるようになり始めていたし、千逸ちはや自身がこころを開き、感情をあらわにし始めているという自負もあった。
 それゆえ、昨日から千逸ちはやが意識的に感情を隠そうとしていることに、霧島は気づいたのかもしれない。
 無言で桃色の茂みの中を進む千逸ちはやの背を前に、霧島はどう考えてもあれが原因だ、とため息をつく。
 霧島の頭にあったのは、行為中に発してしまったあの「かわいい」発言である。
 ぽろりと漏れてしまったあの失言以来、千逸ちはやは妙によそよそしく、霧島と距離を置こうとしているようにみえた。
 それは、まるでふたりの間にバリアを張るように、自分を守ろうとしているように。おそらく、なにかを隠したい、もしくは、ぼろを出さないためではないかと思えた。
 そうして出た結論が、千逸ちはやが想像以上に若い――いや、若かったという可能性である。
 正しく言うと、本来の身体で生きていた一世代目のときに、霧島より若かったかもしれないということである。
 人類は素体交換をするようになり、みな平等に長い人生を共に生きてきた。そのため、精神年齢にあまり差を感じないが、千逸ちはやが一世代目の記憶を保持しているとなると話は別である。普段は、こちらが覚えてないために外に出ないが、当時の年齢差が確かに彼のなかに残っているのだろう。それが不意にあらわれ、彼を本来の年相応に見せるに違いない。
 ――とは言っても、あくまで可能性の話だ。……それに。
 霧島は、先導する千逸ちはやを見上げた。坂を上る背中は無言を貫き、いまはすっかり年相応の冷静な男に戻っている。
 足の長い素体である千逸ちはやとの距離は、すこしも縮まらずにむしろ離れているように思えた。
 ――せっかく、この場所にきて親しくなったというのに。
 霧島は、桃の花の濃い香りが充満する林を急ぎ足で歩く。
 なぜ、千逸がここにに連れてきてくれたのかは、不明であった。しかし、ここは霧島にとって居心地がよく、心穏やかにすごせる場所だった。もちろんそれは千逸ちはやにとっても同じことが言えるだろう。
 ――あんなに会話が続いたのも、花角はなずみ以外、はじめてのことだったのに。
 おそらくこうして壁を作るのは、千逸ちはや自身が記憶の引き金にならないための気遣いに違いない。
 霧島は、なぜこんなにも千逸ちはやのことが思い出せないのか不思議に思った。
 これだけ献身的で、話題も好みもあう人間のことを、忘れてしまうなんて。
 ――一世代目の自分は、一体なにをしていたのだろう。
 寂しそうに揺れる背中を追いかけながら、霧島は思った。

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