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9章 再会そして
8 月は優しく輝いて
しおりを挟むそのあとの王宮はてんやわんやの大騒ぎとなった。
王の間に現れた正規軍は、戰景の指示のもといまだ意識を失って倒れていたものたちを捕らえ、地下牢へと運び込むこととなった。
彼ら夙克静の手の者のうち、意識を取り戻したものや戦意を喪失したものたちから話を聞くと、彼らは農民や流れの傭兵であるという。尚書令の口車にのって日銭で雇われたものたちばかりであり、中には特別な事情のある者もいるとのことだった。後日個別に話を聞く必要があると、刑部尚書は頭を抱えていた。
泉樂宮での事件は他の宮でも噂となっており、表向きには尚書令と将軍來戰景との内部抗争という形で公のものとなった。
将軍率いる王の兵が、王に反発する民主派の者たちと対立し反乱を起こした結果、和解し王はその願いを聞き入れて民主化を、という脚本であった。
本来は王妃や数多くの人を巻き込んだ二十年前から続く事件の結末だったが、晃閃―暁燿世の強い要望と王の計らいにより、このような幕引きとなったのだ。
この件は国を揺るがす大事件として国を混乱の渦に巻き込むのではないか、はじめ尚書たちはそう考えていた。
しかしこの一件以上に王宮の話題をかっさらったのは、姿を現した英千帝の存在だった。
まず沸き立ったのは官吏の仕事場―華央宮の女官たちだった。彼女たちはかつて彼をトンデモ王と呼んでいたことを忘れ、「あの美貌だから顔を見せることができなかったのよ」と口を合わせて言った。また各部署の女官たちは一目王の姿を拝見するべく、官吏に雑用を求めては王のもとへ足を運んだ。ついには、男たちもどれどれ一度お目にかからねば、と席を離れるほどだった。
確かに混乱の状況下とはいえ、王が積極的に宮中を出歩く姿は非常に珍しいものだった。王自ら部署間を歩き代表たる尚書らと会話を交わす姿に、その場にいた官吏たちは新しい未来に希望を持ったに違いない。
一方晃閃はというと、武官の平服に身を包み、王の護衛として英千帝について回っていた。
事件の際、あの場にいた者たちはすでに彼の正体に気づいているようであったが、公になることを防ぐため、一般兵として扱われることとなった。
そのため各部署の比較的若い尚書たちは、まじまじと珍しい生き物を見るような目で彼を見た。それ以外のベテラン勢たちは温かい目で晃閃に目くばせしたが、老人掌尚書だけは何も言わずに近寄ると、両手で手を包むように握り、静かに下を向いて震えたのだった。
そんな怒涛の一日を終えたあと、晃閃はひとり擁珱宮にある来賓用の客間の寝台に横になっていた。
(……なんという一日だったろう)
そう思い返せば、いまだ色鮮やかな記憶が次々と脳裏に蘇った。
中でもすぐに思い浮かんだのは麗らかな英千帝の姿だった。
朝廷に彼が現れた瞬間の堂々とした姿、そして王宮を行き交い人々に笑顔を向ける彼の姿。後ろに付き従いながらも目が離せなかった王の姿に、皆が釘付けになっていたのも十分理解できる。
王の座に戻った彼は、きっと明日から朝廷に出て忙しい毎日を送るのだろう。
出会った当初の郭来頼が言っていた通り、彼が不在にしていたことで止まってしまった施策は数多くあるのだ。また民主制という新しい霽の形に向けても、準備せねばならないことがたくさんあるはずだ。
彼はもう、自分の隣にいた彼とは違うのだ。ずっと遠い場所で民すべてを守る、この国の王なのだから。
晃閃は身体の脇に置いていた榮霞にそっと触れた。剣としてはありえない人肌ほどの温もりを感じながら、寝台の柔らかな絹に顔をうずめる。
おそらく忙しさゆえに何も言われなかったため返し忘れていたが、この霊剣は王家に伝わるものなのだ。早く英千帝に返さなければならないが、そうしてしまえば英千帝と自分との繋がりは本当に切れてしまう。
彼はぼんやりとする頭で考えた。
―これからどうしようか。
逍晃閃として本来仕えるはずだった郭家に戻り、主の来頼殿の元でお世話になろうか。きっと彼なら自分の過去など気にせず、こき使ってくれるだろう。
ただ一つだけ。今の晃閃の頭にあったのは、英千帝のことだけだった。
―願わくば、彼にもう一度会いたい。そして会って伝えるのだ。感謝と、内に秘めたこの熱い思いを。
もちろん王としての彼ではなく、晃閃が幼い頃から知る霽英千に。
その密かな思いを霊剣は聞いていたのだろうか。
榮霞は突然声を上げ始めた。
歌うように優しく―しかしどこか怖々と、慎重に。
晃閃は声が示す方―部屋の入口の扉に歩みよる。
その扉を一枚隔てた奥、そこには人間の気配があって―。
コンコンコン。
扉を叩く音が三回響いたのちゆっくりと開けると、そこには彼の望んだ男の姿があった。
先程のきっちりとした格好ではなく、淡い巻き毛を下ろした蔡瑶千を思わせる姿に、晃閃は言葉を失う。
そんなことなど知らない英千はぼそりと言った。
「その……戰景が自分に任せて休めというから。晃閃……その……迷惑だったか?」
「…………いえ……こちらへ」
待ち望んだ男を室内へ招き入れた晃閃は、そう言うことしかできなかった。
英千は部屋に入ると大きな寝台の端に小さく腰掛けた。その様子はあの馬車の寝台に大胆に寝転んだ瑶千とは思えない、こじんまりとした姿だった。
晃閃も何故だか隣には座れず、少し離れたところに浅く腰掛ける。
そして二人の間には沈黙が流れた。
窓からは月の光が差し込み、少しだけ空いた窓の隙間からは誰かの賑やかな声が聞こえる。
―宴を開いているものがいるのだろうか。その声に耳を傾けていると、先に英千は口を開いた。
「やれやれ。大変な一日だったというのに、軍部が戰景のために酒宴をしているんだ」
無罪放免で無事開放された将軍を部下たちがどれだけ思っているか、その声だけでありありとわかった。
「……私は昔、このような宴の歓声を聞きながら眠りにつくのが好きだったんです」
そう呟いた晃閃を、英千は微笑みを浮かべながら見守る。
「皆の幸せを守ったのだと感じることが、自分の癒しであり存在意義だったのです。またこの王の宮で聞けるとは、思ってもいませんでした」
暗い牢の中で二十年すごし、何故かいま王の宮にいる。晃閃が感慨深く言うと、英千帝は急に距離を詰め晃閃の隣に腰掛け直した。
「晃閃!いや、師匠。ずっと……騙すようなことをしていて申し訳なかった……」
突然の謝罪に晃閃は驚くも、思ったままを口にする。
「……何を仰いますか。それが黒幕を炙り出すための貴方の策だったのでしょう」
すると英千は気まずそうな顔をして言った。
「いや、実は策ではないのだ」
「どういうことですか?」
王は目線を逸らして恥ずかしそうに口を開いた。
「私は、ただそなたを自由にしたかっただけなのだ。西方の調査に向かう前に、恩赦したそなたの姿を一目見れればいいと思っていたが……目の前にしたら……もう駄目だった」
王の耳は赤く染まり、淡い髪との対比がそれを際立たせた。
「……そなたは気づいていると思うが、熊をあてがったのもあの会の主催者も、蔡瑶千ではない。あの名は時に客寄せのように使われることがある」
「……それは、もちろん理解しております」
英千はため息をついた。
「……熊を前に剣をくれと呼ぶそなたをみたら、もう駄目だった。私は、ずっとそなたに会いたかったのだ」
そうして彼は晃閃の手を両手で優しく包んだ。
「―師匠、母上のこと本当に申し訳ありませんでした。幼い私の血の契約がすべての元凶となり、あなたを……大罪人にしてしまった」
真摯に謝罪の言葉を口にする彼に、晃閃も口を開く。
「英千様。あのとき確かに私は榮霞を追いました。しかし、私自身あのとき正気を失っていたのも事実です。力に屈服してしまった。だからあなたのせいではないのです。それはただのきっかけです。もう、気にしないでください」
「でも―」
「いいのです。もう一度あなたに会えましたから。それに一緒に旅ができたのです。私にとってあの時間はすごく、幸せなものでした」
その言葉に英千は微笑みを返したのち静かに言った。
「……それは私にとってもそうだ。……私は、ずっと貴方を否定したこの国が嫌いだった。ずっと要らないと思っていた。滅びてしまえと思っていた。しかし、蔡瑶千として国中を歩き民と言葉を交わし、この国をもっとよくしたいと思った。この国に生まれてよかったと言ってもらえる国にしたい、そう思うようになった」
そうして彼の金色の眼差しは晃閃を捉える。
「―そなたのおかげだ。晃閃、師匠。本当にありがとう」
微笑みを浮かべる美しい若君を前に、晃閃は胸がいっぱいになる。
―今がうちに秘めた思いを告げる時ではないか。そう晃閃が密かに悩んでいたときだった。王が先に口を開いたのは。
「その……昔私が言ったことを覚えているか?ずっと……そなたと一緒にいたいと」
顔を見れば、英千帝は視線をそらしその耳は真っ赤に染まっている。
それと腰の榮霞が聞いた事のない叫び声をあげたのは、ほぼ同時だった。きいきいと甲高い声で、まるで鼓動のように一定の音を上げ始める。それを前に晃閃は立ち上がり、霊剣を手に取ると部屋の隅へ置いた。
「―師匠?」
「すみません。少し、暴れてまして」
その音が小さくなったことを確認すると、晃閃はほっとした。いま英千帝の気持ちを榮霞を通して感じる必要などない。自分のありのままの気持ちを伝え、ありのままの気持ちを本人から聞けばいい。
晃閃は王のたおやかな手を両手で包み込んだ。
「いいのですか?私は、気づけばこんなに年をとってしまいました。貴方なら……若くて素敵な方が選り取りみどりでしょう。私のようなもので、本当に―」
いいのでしょうか。そう言い終わる前に、英千帝は晃閃を抱きしめていた。
そして耳元で小さく、囁くように言葉を紡ぐ。
「―当たり前だ!ずっと昔から……そなたが剣を教えてくれてからずっと。……私には……ずっとそなただけなのだ」
晃閃は込み上げる涙を感じながら、愛でるように口を開いた。
「それは……こちらの台詞です。貴方だけが……ずっと私を見ていてくれたのです。英千様」
窓からはふわりと春風が舞い込み、灯火を揺らしては、密やかに部屋を闇で満たした。
差し込む月光はすみれ色に輝き、二人を照らし、そうして影はひとつになったまま離れることはなかった。
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