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8章 離別
4 親殺し
しおりを挟む暉家邸宅は静まり返っていた。
軒先で声をかけたもののいつも出迎えてくれる侍従の姿はなく、もちろん義母の姿も見当たらなかった。
日は西に傾き始めた頃で、別段訪問に向いていない時間というわけでもない。
そのいつもとは違う異様な雰囲気に、燿世の手は自然と腰の剣にかかる。彼は呼吸を整えると、静かに邸の中へ滑り込んでいった。
回廊を進む途中で聞こえたのは女の小さな悲鳴だった。
何が起きているのだろう、そう思った燿世が声のほうへ足を向けると、屋敷の中央に位置する広間のなか―血に塗れて床に座り込む暉家夫妻の姿と、その脇で小刀を握りしめて立つ紅琰の姿があった。
「何があった!?」
その声に誰も見向きもしないので近くに駆け寄ると、状況が徐々に理解出来た。
大量の血を流し青い顔をするのは鮮崋で、腹部を手で抑えてはいるもののその血は止まらない。鋭い視線は息子紅琰を捉え、口元は血に汚れていたがなぜか笑みを浮かべていた。
華月は脇に座りこみ彼の背中を支え、呆然と息子を見上げている。
その先の紅琰は顔を真っ青にしながら、呼吸を荒らげて二人を見下ろしていた。手には血の滴る短剣を握りしめて。
「まさか、そなたが……剣を持つとは思わなかった」
鮮崋はぽつりと言った。
それがどこか嬉しそうに聞こえたのは、息子が目的を叶えるためにようやく剣を取ったからだろうか。
のちのち聞いた話だが、この日彼は親と決別をするために邸宅を訪ねたらしい。文官の道を許されなかった紅琰は、ならば暉姓を捨てようと考えたらしい。
ただ、なぜこのときこのような悲惨な状態になっていたのか、そこまでの経緯を燿世は聞いたことがなかった。
紅琰の剣を握る両手がぶるぶると震え始めた中で、華月はすっと立ち上がると夫をかばうように間に立ちふさがった。
「―やりなさい」
凛とした声が響き渡る。
「その志が本物だというのなら、いますぐ私をやりなさい!」
このとき、すぐに紅琰の剣を手から叩き落しておけばよかったと、燿世は今でも後悔している。自分ならば、義兄を制することなどいとも容易くできたのだから。
ならばなぜしなかったのか。できなかったのか。
それは彼が心のどこかで、彼ら親子がいつか和解するだろうと期待していたからだった。そして互いに歩み寄ることができると思っていたからなのだ。
だから、短剣を握る息子に対して血を流して座り込む鮮崋が、本気で剣を向ける可能性を彼は少しも考えていなかった。
燿世が動き出したのは、鮮崋が立ち上がり腰の剣を抜いてからだった。
普通の人間ならばそれで十分に間に合った。
しかし彼が相手では、燿世にすら難しかった。
なぜ―そう思う間もなく、剣は振り下ろされ鮮血が飛び散る。
いかに息子と言えど、妻を手にかけるならば容赦をしない―そんな思いで振られた剣だったが、その奥で崩れ落ちたのは息子紅琰ではなかった。
華奢な、小さな体。
「華月……」
息子を思う母の気持ちが勝ったときだった。
呆然とする三人の前でうずくまった彼女は、なぜか燿世の名を呼んだ。
「燿世」
「は、い」
「紅琰を……頼みます」
燿世が戸惑っていると、彼女は笑みを浮かべて言った。
「……母の最後の願いです。ここから、今すぐ逃げなさい」
そう言うと、止める間もなく彼女は手を部屋の脇の燭台に伸ばし、火のついたそれを床に倒したのだった。
木でできた屋敷は見る見るうちに燃え、火の勢いは増した。
燿世は彼女の言うままに、隣で意識を失ったように立ちすくむ紅琰を肩にかかえる。
なんとか迫る火の手から逃げようとするも、視線は残されたふたりへと向かった。
火の迫る近くにはすでに動かないと鮮崋と、彼に寄り添うように目を閉じる華月の姿があった。
燃える盛る炎と、それに飲まれていく二人。
そして火の粉を上げ崩れゆく屋敷。
途端、燿世の中で何かが壊れる音がした。
それは温かく迎えてくれる家族の姿だったろうか。
自分の最後のよりどころだったろうか。
とにかく、彼にとって大切な何かがこのとき失われた。
この日を境に暁燿世と暉紅琰は表舞台から姿を消したのだった。
※※※※
あの日以来、二人は燿世の修行の場へと潜むことになった。巴山の深い森の奥、かつて円太保と修行に明け暮れたあの場所。
そこに数日後、密かに書簡を送ったのは來戰景だった。
その内容で燿世は自分の置かれ状況を知ることになった。
巷ではこんな噂が流れているという。
暉紅琰と共に両親を殺害した暁燿世は、クーデターを目論んでいるのではないか、と。
陽明帝と王宮で言い争う姿や、暉家邸宅で血まみれの紅琰を背負う姿を目撃されていたのだろう。
また紅琰が家を空けている間、民主派としばし会合をしていた事実も大きな要因となっていた。
ほかに書簡には秘密裏に会いたいという言葉が書かれていたものの、燿世がそれに答えることはなかった。
燿世の頭は別のことでいっぱいだったのだ。
そういうやり方もあるのかと。
何も出来ない王に任せることなどない。自分のでやればいいのだ。自分には唯一無二の力があるのだから。
だって自分の愛した人はもういなくなってしまった。
鮮崋も、華月もすでにこの世にいない。
帰る場所も失われてしまった。
かつて信じた陽明帝も今は変わってしまった。
凜も―光凛もそんな彼の元にいる。
もうどれだけ血にまみれようがかまわないのだ。
王には、なるべく傷つけないよう退位を願えばいい。
そうして真の理想を自らの手で叶えるのだ。
そんなときにふと思い浮かんだのはあの幼子の姿だった。
ただひとり、自分を慕い自分を待っていた英千帝。
あの少年にだけは、自分の堕ちていく姿を見せたくはなかった。もちろん、これから自分がやろうとしていることも。
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