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8章 離別
3 存在意義
しおりを挟む燿世が武官として登用されてからは、暉家に帰ることも少なくなっていった。
ごく稀に暇をもらい久しぶりに帰宅したときも、邸宅に紅琰の姿はなかった。
彼の行方を義母に聞くと、彼女は悲しそうに微笑んで言った。
「あの子は少し前に家を出て行ったの。でも、どこにいようが元気にしてるならいいのよ」
そしてこちらに柔らかな視線を向けて言ったのだった。
「あの子を―紅琰をよろしくね。燿世、あなたも元気にやるのよ。どんなに偉くなっても将軍になったとしても、わたしたちのかわいい息子であることに変わりはないのだから」
燿世の腰に輝く剣を見、彼女は優しく言った。
すでに僑の民の征伐を終え軍部で地位を確立し、将軍として任命された頃のことだった。
大規模な経済緩和政策がはじまったのは翌年の秋のことだった。
旺嵐の町を囲う巨大な城壁が完成し、僑の民の危険から西方が解放されたことをきっかけに、陽明帝はある政策を発布した。
それは国中の関所の検問を緩和し、これまであった荷車一台あたりの制限積載量を撤廃するというものだった。
この政策により、人々の経済活動は拡大した。これまで身の回りで物々交換していた農作物や畜産加工品を、誰もがより遠くの町で高く売ることができるようになったのだ。
そんな中で商人が台頭したのは必然と言えよう。
彼らは始めは霽の広大な土地で生み出される豊かな農作物や、北部で産出される鉱石を外国で売り始めた。そうして国中を巡り品物を買い入れることで、国々の民へ富を流すとともに、自身は膨大な利益を得ることが可能となった。
貴族たちがそれに気づいたのは、国が一括して行っていた様々な取引と競合するようになってからのことだった。
以降、陽明帝の掲げる経済政策はひとつも成立することがなくなった。
いまだ朝廷の多数を占める貴族たちは、陽明帝の政策すべてに意を唱え、このとき憧晏西側で始められようとしていた大規模な灌漑政策も、一時中止を余儀なくされた。
貴族と民の対立は次第に勢いを増し、その場所は政治の舞台のみならず、町にまで及んだ。連日区画の境目で発生する小競り合いに、燿世含む武官も駆り出されるほどだった。
王政派と民主派という言葉が現れたのもこの頃であり、そして燿世の筋道が変わったのも―あれだけ信頼していた陽明帝から心が離れてしまったのも、ちょうどこの頃だった。
霽国を誰もが飢えることなく暮らしていける国にする。
そんな願いが叶うまであと一歩というところで、一向に進まない状況に燿世は腹立たしさを感じていた。また、こんなときに少しも役に立たない自分に嫌気がさしていた。
何かできることはないか、そう模索する中で朝議から戻ったばかりの王にたまたま遭遇したのだった。
疲れた顔をする陽明帝を前に挙手礼のかたちをとると、王は大きく息を吐いて背もたれに寄りかかったのち天井を仰いだのだった。
そしていつもと同じ柔らかな口調で言った。
「人の考えを変えるのは……なんて難しいことだろうな。わたしの世代でどうにかと思ったが……到底難しそうだ」
そのおどけた声色には、心配をかけたくないという王の気遣いが表れていた。
ただそれと真逆の苦しい内容に、燿世は強い口調で返す。
「……そんなことをおっしゃらないで下さい。あなたがそこで諦めてしまっては、付いてきたものたちの努力が報われません」
「……ああ。そうだな」
ただ相槌をうっただけのような空っぽの返事が戻り、燿世は何も言えなくなってしまう。
あの陽明帝でさえ答えが出ないことがあるなんて。
燿世はその事実に驚き戸惑った。
それならばこの状況でもうできることはないのだろうか―。
そう思った時、不意に右手に榮霞の束が触れた。
ああ、自分にはこれがあるじゃないか―。
「……ならば、力以外ほかにありません」
燿世がそういった瞬間、帰ってきたのは短い否定の言葉だった。
「だめだ」
「私が……なんとかします。別に悪役を買って出たっていいのです。政策を阻む者をすべて私が屠れば政策は通るでしょう」
「ならない」
「―私のことはそのあと切り捨てればいい。それより、政策が上手くいって格差がなくなることのほうが先決です。いまだ貧しい地域はこの国の至る所に存在しています。ですから―」
「……燿世」
自分の名を呼ぶ声はいつもよりも低く大きく聞こえた。
「そなたがいかにうまくやろうが罪人となろうが、そうして力で手に入れたものはまたいつか必ず争いを生む。それはさらなる分断を作り、そうなってしまえば霽はもうひとつにはなれない。だから絶対に力は使ってはいけない。燿世。お願いだから肝に銘じておけ」
―絶対に。
その強い言葉は燿世に深く突き刺さった。
あの穏やかな陽明がまさかこんな強い否定の言葉を使うなんて。
しかも絶対に力は使ってはいけない、彼はそう言った。
燿世は愕然とした。
力。
それは彼が唯一持っているものだったから。
そして自分にそれを与えてくれたのは、まぎれもない―目の前の男、陽明帝本人であったから。
以降の言葉はすべて無意識に燿世の口から出ることになった。
「ならばなぜ……私に力を与えた……」
「―燿世?」
「私に力を授けたのは……あなただろう?あなたが、私を否定するのか?」
もう彼には抑えきれなくなっていた。
次から次へと溜まっていたものが溢れるように言葉は流れ続けた。
「私には…………剣しかないのに」
「燿世、落ち着け。そういう意味ではない」
陽明帝が歩み寄るも、体は自然と距離を取る。
それと同時に口からこぼれ落ちたのは、これまでずっと言えなかった言葉だった。
凛と陽明と幼い英千。自分には手の届かない、遥か彼方の幸せの光の中にいる、あなたたちへ向けて。
「もう…………私は必要ないのですね。戦のない平和な世の後で、私のように血で汚れたものは、もう…………要らないのだと」
そのあと王が自分を呼んだ声が聞こえた気がしたが、彼は振り返らなかった。もう陽明の脇にいることはできなかった。
虚無感が自分を支配する中で、言葉はぐるぐると内で渦を巻き続けた。
剣しか持っていない何もない自分は要らない。
人殺しの殺人鬼はもう必要ない。
もうどこにも自分の居場所はない。
不意に腰で小さく声を上げる榮霞に気づき、王のもとへ置いてくればよかったと燿世は後悔した。
この剣は王家に選ばれたもののみが扱える剣。だからいまの自分には持つ資格がなかった。
そうして陽明と顔を合わせられなかった彼は、どうにかして返してもらおうと鮮崋に託そうと思いついたのだった。
その後向かった暉家邸宅で―まさかあんなことになろうとは。
このときの燿世は少しも気づいていなかった。奈落へと向かう足音が、徐々に近づいていることに。
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