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8章 離別
2 暉紅琰
しおりを挟む晃閃はひとり揺れる牛車の荷台の上で小さく座っていた。
脇には野菜を積んだ籠や穀類を入れた箱が無造作に積まれ、その後ろには御者台に座るふたりの人影がある。
ひとりは旺嵐の街で見かけた男―暉紅琰の後ろ姿だった。
すっぽりと被った外套から今は頭を出し、あの特徴的な赤みがかった直毛を後ろでひとつに結わえている。よくみればその中には時折白いものが混じり、これまでの年月の長さを思わせた。
その隣には小柄な女性の影があった。
二十代半ばだろう穏やかな立ち居振る舞いの彼女は、紅琰を追う中で出会った人物だった。彼は街の外れで牛車に手を振ると、この女性の座る御者台の脇へ腰掛け東門を後にした。
晃閃はそうして街を出る彼らの荷物の脇に、こっそりと滑り込んだという訳だ。
彼らは一体何処へ向かうのだろう。
後ろへと流れていく豊かな森林に目をやりながら、晃閃は思った。
彼らは霽国の北部に広がる熙延連山の深い森の中を進んでいた。
地図には載っていないその道は、かつて旺嵐に木を運ぶための輸送路として使われていたのだろう。荷車二台がゆうにすれ違えるほどの道が、森の中にぽっかりと広がっている。
ただそこを通る人影は今はなく、彼らだけが悠々と森の中を進んでいた。
晃閃はゆったりと背中の木箱に背をもたげ、荷車の揺れに身を任せていた。
木々に覆われたその道は冷ややかな空気をたたえていたが、上空から差し込む木漏れ日は温かく、心地よかった。人の喧騒はなく、ただ風に葉が揺れる音と鳥や虫のざわめきだけ。
そして時折木々の隙間から霽の雄大な平野が望め、それを見ているだけで晃閃の心は穏やかに満たされた。
そんな光景が広がる中で彼の耳に入ってきたのは、御者台の二人の会話だった。
「今日はあの子たちはおりませんでしたね」
そう残念そうに言ったのは女の声だった。
「あれくらいの年代はとくにいろいろやってみたくなるんだよ。……もしかしたら、剣に興味を持ち始めたかもしれないね」
低く穏やかなその声はやはり晃閃―燿世の知る暉紅琰のものだった。
そして晃閃の中で納得がいった。
朱昊が助けられたという親切な学者というのは、おそらく彼なのだろう。
「―僕はからっきしだったからなあ」
紅琰は続けた。
「それは……暁燿世と比べれば誰だって霞みます。ただ剣は暴力です。力と恐怖で押さえつけるもの。そうしてしまっては誰もついていきません」
女が冷たく言い放ったあとで紅琰は小さく微笑んだ。
「……それでも、守る力は必要なんだ。燿世はそれがわかっていた」
かつて鮮崋が幼い自分に語るときのような優しい声色だった。
晃閃はその裏で身体を震わせるしかなかった。
自分のことばかりで周りが何も見えていなかった、過去の愚かな自分を思い出して。
暁燿世が初めて暉紅琰に出会ったのは、鮮崋に連れられ暉家に迎え入れられたときのことだった。
邸宅の入口で出迎える鮮崋の妻―華月と使用人たちの前で、当主が小さくため息をついたことを燿世はよく覚えている。
「―これから紹介するのが我が息子の紅琰だ。そなたの兄弟のようなものとなる。根は真面目なのだが……少々達観したところがあってな。とにかく仲良くしてやってくれ」
回廊を進む中で鮮崋は苦々しく言ったのだった。
実際に彼の部屋の前で父が名を呼んでも、紅琰は顔を見せるどころか返事すらしなかったのには燿世も驚いた。
ただその後鮮崋が諦めて燿世を居室へ案内したあとのこと。彼が初めての豪華な自分の部屋に落ち着かずにいると、紅琰は突然訪ねてきて言ったのだった。
「そなたが燿世だな?私は紅琰。そなたに聞きたいことがある」
何でしょう、そう返すと彼は興味津々に聞いたのだった。
「そなた、字は読めるのか?」
そうして燿世が小さく頷いたあとは質問攻めだった。
紅琰は持ってきた書物を次々と広げると、文を指さしひとつひとつ燿世に聞いた。
下々の民の生活のこと。
憧晏の街のこと。そして凛や陽明のこと。
彼は幼いながら外の世界や地理、そして政治に興味を持ち、膨大な知識を蓄えていた。
暉家当主の息子ゆえに邸宅から出してもらえない彼は、書庫の大量の書物を乱読しては思いを馳せていたらしい。
そんな彼はすでにこのとき自分の得手不得手も心得ているようだった。まだ数回しか剣を握ったことがないにもかかわらず、すでに諦めているように言った。
「燿世、剣はそなたに任せたぞ」と。
そう言って書物を読みふける彼の姿を前に、父の鮮崋も彼の素養に気づいているようだった。
しかし紅琰は武官の名門である暉家の次期当主。
文官を望む本人の気持ちとは逆に、最低限武官にはなってもらいたいという鮮崋の願いは、表立って対立していくことになった。
燿世にとって鮮崋は、誇り高き義父であり優しく丁寧に剣を指導する師匠でもあった。これまで彼の師であった陽明や円太保が非常に感覚的な指導をしていたからかもしれない。言葉を丁寧に紡いで如実に考えを伝える鮮崋のやり方を、燿世は非常に嬉しく思っていた。
しかし実の息子を前にするとそれはまるで異なる負の面を持った。
「暉家の自覚を持て」
この言葉から始まる思いのこもったすべては、理詰めにしか聞こえなかっただろう。鮮崋が口を開いて説得しようとするたび、紅琰の心が離れていくことに燿世は気づいていた。
またそのあとで必ず剣への熱が、自分の指導へと上乗せされたのだった。もちろん燿世にとってありがたいことだったが、それに応えて技術を取得するたび、紅琰は自分の進むべき道をますます狭めていくように見えた。
親子の距離は離れていくばかりだった。
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