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4章 名家と商人

4 蔡の若君

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「これは……」
 郭家を離れる豪奢ごうしゃな馬車の中で、晃閃はひとり呆気にとられていた。
 その広さは来頼の馬車三台分は優にあろうか。部屋の中では華やかな香がかれ、大人二人が横になれるほどの寝台が鎮座し、その一面には白い毛皮や絹が敷かれていた。
 そうして乗り心地がどうかと言われれば、揺れはなく部屋がそのまま移動しているような快適さがあった。ただ馬車の至る所に輝く宝石や金の装飾があり、それが視界に入るたび晃閃は居心地の悪さを感じた。
「―どうした?」
 先に中に入り横になっていた新しい主―蔡瑶千さいようせんは、いつまでも入口で立ったままの晃閃に声をかけた。
「いや……この空間にまだ慣れていないといいますか……」
「そうか。では少し窓を開けるとしよう」
 彼はそう言い衣を翻して立ち上がると、薄く柔らかな天幕を左右に止め、その奥の戸をすっと開けた。
 そこからは昼前の街の賑やかな声と共に暖かな風が吹き込み、ふわりと二人を撫でた。
 瑶千の柔らかな髪が揺れ、その色素の薄さに陽の光がちらちらと透ける。さらに周りで束ねられた天幕の柔らかな質感と相まって、晃閃は一瞬いま自分がどこにいるのか分からなくなった。
 当の本人はというと、思い出したように隅の扉付きの棚を探ると、白い瓶を二つ手にとってまた座り込んだ。
「―飲むか?」
 そう言って差し出したのは酒の瓶だった。晃閃がそれに従うべきか迷っていると、瑶千は返答を待たずに瓶を晃閃の前に置き、ゆったりと横になった。そしてこちらを見ながら酒の栓を抜き始めたので、晃閃も急いで腰を下ろし同じように酒を開け、彼の瓶にこつんと合わせる。
「―では、頂戴します」
 そうして酒を口に入れると青年は頬杖をつきながら、嬉しそうに笑った。

 喉を潤す程度の軽い酒を楽しみながら、晃閃はこれまでの彼の振る舞いを思い返していた。
 目の前で静かに酒を口にする青年は、先程郭家であれだけ饒舌に話していたとは思えないほど言葉少なく、まるで別人のようだった。
 口を開けば一言二言、余計なことは言わず詮索をすることもない。晃閃に何を頼むでもなくただ隣でくつろいでいるだけ。
 先程のあの不遜な態度はどこにいったのか、そう晃閃は疑問に思ったが、自分がずっと牢の中にいたことを不憫に思い、気を遣っているのではと勝手に思うことにした。
「晃閃」
 そう呼ぶ声はやはり何だか優しい気がする。
 ―は。と姿勢をただし侍従らしく返答すると、なぜか彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「堅苦しいぞ。もっとくつろげ」
「……は、はあ」
「そなたの一番の仕事は我が隊商の護衛だが、それ以外は私の暇潰し要員でもあるのだ。わかったのなら今すぐここに横になり、私に面白い話でも聞かせてみろ」
 ―前言撤回。優しいというよりは、おそらく肌感覚で飴と鞭を使い分けているのだ。
 それでは一体どんな話をしようかと晃閃は悩んだが、ふと横に置いておいた剣が目に入った。
「そういえば、前にお借りしたこの剣のことですが……」
 横になる主に両手で差し出すと、彼は一度視線をやっただけでぞんざいに答えた。
「ああ、そのまま持っていればいい」
「あれは……特別なものではないのですか?」
「そんなことはない。母の形見のようなものだ」
 その言葉に晃閃は絶句する。
 するとそれを見た瑶千はにやりと笑って上体をおこした。
「ような、と言っただろう。お前は真面目で弄りがいがあるな」
「……すみません」
「案ずるな。よい剣だろう?」
「はい。手に馴染み非常に切れ味もよく、しなやかでいい剣です。ただ声が―」
「―声?」
 ―しまった。普通の剣は声など発したりしない。
「いや何でもないです」
「ははは、晃閃は面白いな」
 その少年のような笑顔は、太陽のように明るい無垢なものだった。
 とても人身売買に加担する悪人には見えない、晃閃はそう思いながらも、西区画での事を思い返し我に返った。
(こうしてこの男に付き添っていれば、彼らの悪事を未然に防ぐことができるはず―)
 そうしてこの国をにすれば、いつか英千帝も姿をあらわすかもしれない。晃閃はとりとめもなくそう思った。

 ※※※

 彼ら二人を乗せた馬車は憧晏しょうあんの南門付近で本隊と合流すると、総勢二十両の大所帯で西南に向けて進み始めた。
「これから向かう西域は霽国さいこくの中でも特に治安が悪い。国境沿いで皆ピリピリとしているんだ。疑われれば容易く切り捨てられる始末だから、常にその剣を持ち片時も私の傍を離れるなよ」
 その言葉に晃閃は国全体が二十年前と全く変わっていないことに気づき、静かな衝撃を受けた。
 かつて暁燿世がきょうの民を退けるため奔放した霽国西域。土着の人々らを、言葉の通じない騎馬民族たちから守るために長城が築かれたはずだった。しかし瑶千の言いぶりではそれは全く意味を成してないのだろう。

 日の沈む中、中間地点の町―沛観はいかんに辿り着いたとき晃閃はそれを痛感したのだった。
 英千帝らしき死体が上がったという町は、大通りを絶えず剣を持った兵が右往左往する物々しい場所だった。彼らはその中を堂々と行列し定宿へたどり着くと、次々に馬車を止めて順に食事へありついた。
 もちろん晃閃は主の指示に従い、彼のそばに絶えず張り付き二人行動を徹底した。馬車を降りた二人は小さな食事処で手早く夕食を済ませると、薄暗くなり始めた帰路についた。
 大通りを抜けた街のはずれは、黄昏時とはいえ地元の人が多く行き交い比較的穏やかに見えた。同じように家に帰る者の姿もあれば、道端では小さな子どもたちが剣に見立てた木の枝を手に何やら遊んでいる。
「わたしは最強の剣聖暁燿世けんせいぎょうようせいだ!」
 その声に晃閃の足はふと止まった。
「悪人め!おまえはずっと前に死んだはずじゃ!」
「ははは!いまの王なら簡単に殺せると思って蘇ったのだ!」
「なんだと」
「くらえ!」
「くそ!來将軍らいしょうぐんはどこだ?」
「ここだ!燿世を倒せ!」
 そうしてチャンバラごっこを続ける少年たちを晃閃は複雑な思いで見ていた。
「―逃げろ!燿世に殺される!」
「ははは!英千帝はなんてぶざまなんだ」
「どこかに隠れてやりすごせ!逃げろー!」
 そう高らかに笑いながら英千帝役の少年が路地に入っていくのを見た晃閃は、ふと違和感を覚えとなりの瑶千に聞いた。
「まさか……王の不在が知れ渡っているのですか?」
「当たり前だ。民の間で噂は空気のように広がっていくからな」
「そうですか……」
「巷ではあの物語は流行っているらしいな。もちろん晃閃も語れるのだろう?」
 その唐突な質問に晃閃は驚いた。物語を語れという難題ならいざ知らず、まさか暁燿世を知らないものがこの国にいるなんて。
「ええと…………瑶千様は知らないのですか?」
「?一般的な物語なのか?」
 そう言われれば晃閃にはよくわからなかったが、瑶千が流行っているというのなら、おそらく国中で暁燿世の話が語られこのような遊びが行われているのだ。
「…………おそらく」
「そうか。私は幼少期からずっと親に付き従い国中を歩き回っていたから、ここら辺の物語には疎いんだ。まだまだ時間はあるし折角だから語ってくれ」
「それは……」
 彼はもちろん暁燿世のことは知っていた。しかしそれを物語として語るというのは至極難題だった。
「私は……きっと上手く語れません」
「ははは。護衛にそんなもの求めない。あくまで暇潰しだ。お前の知っていることを語ればいい」
 そう言った彼の口調はどこまでも軽く、本当に暇つぶしを求めているだけのように聞こえた。だから晃閃はそれならと軽い気持ちでつい頷いてしまったのである。おそらく昼に飲んだ酒の酔いもあったに違いない。
 そうして宿に戻れば笑顔の瑶千はすっかり話を楽しみにしているようで、すぐに靴を脱ぎ寝台に上がって横になった。
「晃閃、早く!」
 そう言われれば彼はもう後にはひけなかった。
 ずっと胸につかえている過去の自分への後悔。―暁燿世の行いの全て。それはこの後もおそらく誰にも言えず自分の中でわだかまり続けるだろう。
 だから今が口に出すいい機会なのだ。
 きっとこの青年なら、過去の私の愚かな行いすら笑い話にしてくれるだろう―。
 晃閃は主が頬杖をついて待つ隣に腰を下ろすと、ゆっくりと柔らかな枕に背をもたれた。そして一回、深く息を吸って吐いたのち静かに口を開いた―。
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