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4章 陽ノ国
4 ひとりで死なせはしない
しおりを挟む見物人たちの悲鳴とざわめきが辺りに響く中で、理人の身体を縛る紐がぷつりと切れた。
「わっ」
そのまま海へと真っ逆さまかと思われたとき――気付けばがっしりとした太い腕に抱えられていた。
思わず顔を上げると、それは確かに影の王セヴェト=オルカロスのもので。
闇のようにたなびく黒の長髪と、喧騒の先を睨みつける紫水晶。そして触れたからだの温もりもその匂いも、本人であることを証明していた。
――来て、くれたんだ。
途端理人の胸にこみ上げるものがあった。
それは王がここまで来てくれたという嬉しさと、もう大丈夫だという安心で。思わず彼の厚い胸板に顔を埋めてしまった。
王はそんな理人に対して何も言わなかった。ただしばらくそうしたあとで、一度腕に抱え直してから何やら不機嫌そうに言った。
「……お前が名を呼んでくれれば早く助けにいけたというのに……なぜ呼ばなかった?そのせいでぎりぎりになってしまった」
突然そのように不満を吐露するので、理人は驚いた。
ただその口ぶりが彼の心配の証であることを知っていたので、理人は微笑んだあとで言った。
「……偉大な夜ノ国の王の名前を、俺みたいな新参者が呼べるわけないでしょう」
すると返ってきたのは意外な反応だった。
「……俺は、お前の王ではない」
彼はなぜかそうはっきりと言った。
理人はその発言が理解できず一瞬戸惑った。
お前の王ではない、今彼は確かにそう言った。しかし実際にはこの異なる世界までわざわざ助けに来てくれている。
どういう意味だろう、そう理人が思っていると王は何も言わずにこちらに視線を向けた。
その深い紫の眼差しはどこか泣いてしまいそうに見えた。
まるで大切なおもちゃを取られた子どものような、悲しみと怒りが混ざった顔で。
「王……?」
思わず理人はその顔に手を触れようとした。しかしそれは空を切り、気づけば王の腕の中に抱きしめられていた。
もうどこへも行かせない。そんな思いが込められているようだった。
全身を包み込むその安心感に身を委ねていると、王はぼそりと耳元で言った。
「お前を……ひとりで死なせはしない」
その言葉に、理人は一瞬心臓が止まりそうになった。
――まさかこの人に……そんなことを言われるなんて。
一度目の人生では何も出来ずに、呆気なくひとりで生を終えてしまった自分。それを後悔していたのに、また二度目も同じように終えてしまうのかと、絶望していた矢先だった。
そんな理人に王の言葉は強く響いた。
思わず彼も王の厚い身体に腕をそろりと回した。そしてまるで返答するように、ぎゅっと抱きしめ返しながら聞いた。
「あの……」
「何だ?」
「さっき俺の王じゃないって言ったのは……まさか」
そうして確かめるように恐る恐る言うと、王は呆れた口調で言った。
「物わかりの悪いやつだ」
「すみません」
「……俺はお前の王ではない。お前は……私をセヴェトと呼ぶ唯一の存在だ。そうだろう、理人」
「…………はい」
理人は思わず泣いてしまいそうだった。
それは何よりも王――セヴェトが自分の存在を認めてくれたという嬉しさで。これからも側にいていいという正真正銘の肯定の証だった。
小さく震え始めた理人の頭を、セヴェトは優しく慈しむように手で包みながら続ける。
「……理人。お前は俺の前で死ぬのだ。それ以外の場所で死ぬことを俺は許さん」
それは死ぬまで俺のそばにいろという、告白以外の何物でもなかった。
「……はい」
そう理人が小さく頷いたときだった。
ぱっとあたりが明るくなったと思えば、混乱の中からエリアスの声が響き渡った。
「セヴェト、君はなぜここにいる?人柱の君が……なぜ境界を越えられたのだ?」
「……それはわからない。ただ、この男の力が俺の足を縛っていた枷を簡単に外した。今言えるのはそれだけだ」
するとエリアスは穏やかだった表情を一変させ、目を見開いて訴えた。
「その少年の力は、世界にとっていつか害となる!」
セヴェトはそれに柔らかな笑みを返したあとで、
「……それでも、俺にとっては必要なものだ」
そう静かに告げた。
途端、鬨の声が上がるとともに、光の軍勢が押し寄せる音が聞こえた。
しかし辺りに広がった漆黒がそれに押されることはなかった。
セヴェトの腕の中で理人が最後に見たのは、迫りくる男たちが闇の奥に消えていく姿だった。
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