【短編小説集】なんでもない日常の、どこかの風景から

上杉裕泉

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勇気

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(青春小説)


「そういえば、はるかいい感じになったよね」
 そう言ったのは、高校時代のクラスメイトのひとりだ。
 地元の、割と有名な老舗ホテルの宴会場の一角。ステムのあるお洒落なグラスに注がれたハイボールを飲みながら、わたしは微笑んだ。
 野暮ったい水色のワンピースを来て小さなブランドバッグを抱えた彼女に、わたしは「何が言いたいの?」と一瞬言いたくなる。
 ―けれどもう大人だ。そう思い口をつぐんでいたのに、周りの女の子たちは次々と口を開く。
「確かに、遥って昔は近寄りがたいオーラ出てたよね!」
「そうそう!みんな遥と話したいからって私に声かけてくるから、あの頃モテ期が来たって勘違いしたなあ」
「後輩の間でも、図書館の深窓の美女って噂になってたもんね」
 ―大丈夫。わたしはもうかわし方を知っている。
「そうだったんだ。ありがとう」
 こうして当たり障りなく笑えば、雰囲気が悪くなることはない。たとえどんなつもりで言われたことばであっても、わたしはにこにこして受け止めると決めている。
 そうして手元の時計にちらりと視線を送ると、それに気づいた一人が言う。
「あ……そういえばそろそろお開きの時間かな?」
「えっ早ーい!もうそんな時間?」
「あと十分あるけど……そういえば遥は二次会どうするの?」
 そう言われ周りを見ると次に行く人がほとんどなのだろう。会場は始めよりも確実に騒がしくなっている。わたしは困った顔を作って言う。
「そろそろ帰らなきゃ。婚約者が待ってるから」
 すると、同級生の三人は一瞬顔を見合わせたあとで、秘密を共有するかのようにわたしに確認する。
「…………え、それってまさか葉村はむらさん?」
 言われるがまま微笑みながら頷くと、途端に彼女たちの声は大きくなる。そうなんだ、とあっさり解放されると思ったのにこれではまずい。
 わたしは誰が口を開くよりも先にじゃあまたねと手を振ると、足早にそこを離れた。

 少し遅れて到着した市バスに乗ると、わたしは後部の二人席に腰掛けた。がらがらの車内はLEDの鋭い灯りとネオンカラーのシートで目が痛い。本当は古びた昭和の香りのする深緑色のシートに身を預けて、高校生のときと同じ道を辿りながらノスタルジーに浸るつもりだったんだけど。
(⋯⋯⋯⋯疲れた)
 席の下で足をパンプスから自由にし、わたしは窓に寄りかかる。
 そこからは新しい家もちらほら見えたけれど、十年前とあまり変わらないままだった。時折バスがエンジンをふかす音が聞こえる懐かしい静けさに身をゆだねながら、わたしはつい先程までの喧騒を思い出す。
 ―まさかわたしが高校の同窓会に出席するなんて。
 大学進学で早々にこの街から出てしまったわたしは、ずっと同級生とは疎遠だった。たまたま数少ない幼なじみから―彼女みゆきは結婚して海外にいる―お世話になった先生が顔を出すと耳にして、急遽出席を決めたのだ。
 実際に十年ぶりに会うことができたまどか先生は、昔と同じようにぱっちりと大きく開いた目でわたしを見つめながら、あの場にいた誰よりも高いヒール姿で迎えてくれた。
「―川瀬さん!あら久しぶり。いい顔してるわね」
 そう言ってにこりと真っ赤な唇を引き絞る先生に、わたしはどうにか感謝のことばを伝えることができた。何より今の姿を見てもらえたから、そういう意味では本当にいい機会だったと思う。
 だから、あの頃と少しも変わらない同級生たちの姿さえなければ、もっとよかったのにと思うのだ。

 高校生のわたしは、いつも誰かの視線を気にしては下を向いていた。
 その理由は親が与えてくれたこの天性の顔立ちだ。やれ小顔だの美人だのと言われ、世間一般として素晴らしいつくりらしい。
 だからすれ違う誰かがちらちらこちらを見るたび、そのたび当時のわたしは自分の顔が嫌いになった。次々と飛んでくる異性の好奇の眼差しも、同性からの心ないことばも。すべてが心に刺さって、その度わたしはひねくれた。
 そんなにこの顔がいいの?みんな顔がよければ、それでいいの?わたしはあなたたちのこと、内心馬鹿にしてる性格の悪い女なのにって。
 今はいとも容易くいなすことができるようになったけれど、あの頃のわたしは、自分の心を守る術を何も持ち合わせていなかった。
 誰かに相談したかったけれど、唯一頼れる幼なじみのみゆきは別のクラスで。だから先生たちを頼ったこともあったものの、返ってきたのは美人なのにもったいないとか、そんなこと言わないで、とか。あのひとたちは綺麗なことばを投げつけては、わたしを絶望させた。
 そんな中唯一理解してくれたのは、まどか先生だけだった。

 まどか先生は倫理の先生で、当時から独特な雰囲気を醸し出していた。
 目元はいつも綺麗にまつげが上げられぱっちりとしていて、唇はどんなときも華やかに彩られていた。服装は普通だったけれど、いつもぱりっと音がするように皺ひとつなくて、足元の黒の室内履きはつやつやでエナメルシューズのように輝いて見えた。
 授業では要点を簡潔に伝えるさっぱりとした口調が持ち味だったから、その雰囲気は先生にすごく似合っているとわたしは思っていた。
 なのにそんな素敵な先生を見て、こそこそと陰で言う人がたくさんいた。ケバい、とか派手すぎる、とか。それは生徒だけではなく、もちろん先生たちの中にもだ。
 けれどまどか先生はそんな誰かの視線など気にしなかった。いつも堂々と教鞭を振るう先生の姿に、この人ならわかってくれると思ったわたしは、ついに教務室へと戻る先生に声をかけたのだった。

 周りの人から向けられる視線が嫌だ、そう言うと先生は微笑んだあとで凛とした声で言った。
「周囲の大勢を変えるのは難しいこと。仮にみんなが知り合いなら言えばいいけれど、通りすがりの人もいるでしょう。私の言いたいことはわかる?」
「―はい」
「そういうときはね、自分が変わるしかないの」
「自分?」
「誰か大勢の視線を受け止めるのは自分だけ。だから自分さえ変われば、全てが変わるの」
 先生はそう言って付箋に何か書いたと思えばそれを私に手渡した。書かれていたのは人の名前とタイトルらしきもの。
「性格は、変えられる?」
 読むと先生はにこりと笑って口を開いた。
「変えたいと思う気持ちがあったから、あなたは勇気を出して私のもとに来た。大丈夫、その調子。この本もちゃんと図書館にあるから、探して読んでみて」
「⋯⋯でも」
 あまり本を読む習慣のなかったわたしがたじろぐも、先生はにこりと笑って言った。
「私は後押しすることしかできないわ。変わるのはあなたなの」

 先生に言われるがまま図書館へ向かい、わたしは例の本を探して手に取った。あまり貸し出されていない綺麗な橙色の本は、専門的なもののように見えた。しかし中を開けば会話調だし難しそうなことばも見当たらなかった。
 なにより薄くてよかった、そう思い貸出口へ持って行くと、なぜか受付の図書委員はこの本を前にぴたりと静止した。
 ―え⋯⋯?借りてはいけない本、とか?
 そう思っていると目の前の賢そうな男子生徒は、わたしの目を刺すように見つめて言った。
「この本⋯⋯めちゃくちゃいいよね。誰に教えてもらったの?」
 期待と驚きが混ざったふたつの瞳が堂々とこちらを捉えるので、その久しぶりの感覚にわたしはどきどきした。
「ええと……まど―安斎あんざい先生に、勧められて」
 すると彼は納得したように天を仰いで言った。
「そっか。あの先生大学で心理学専攻だっけ。⋯⋯確かに休み時間とか質問しに行くいつも何か読んでるなあ。ねえ、他に何か勧められた?」
「とりあえず、これだけ」
 すると彼はぱっと嬉しそうな顔になって言った。
「そっか。なら俺おすすめしてもいい?」
「え?」
「この本さ、面白いと思うんだけど途中から結構専門的になるんだ。それにもっと優しくて読みやすいのもあるから、俺教えるよ」
 本をぱらぱらとめくったあとで嬉しそうにこちらを見る男子生徒に、わたしは釘付けになった。
 その視線の中に、少しも自分への好意が見当たらなかったから。

 そんなはじめての感覚をわたしに教えたのが彼―葉村宏樹だった。
 あの日、本というものを教えてくれた彼は、その後もさまざまな世界をわたしに教えてくれた。
 はじめての本の世界は静かで心地よく、誰にも何にも邪魔をされないその場所にわたしは没頭した。本を読んでいれば誰かが噂する声も聞こえなくなり、本について話し合っていれば他人の視線すらも気にならなくなった。
 だからいまのわたしがあるのは先生と宏樹のおかげみたいなものだ。
 あの日、先生に教えられて本を探しに行ったから、わたしは宏樹にあって本を読み、自由になった。誰の視線も気にすることがなくなったわたしは、自分に集中できるようになった。
 そうしてやりたいことを見つけたわたしは大学で社会学を学び、今は国家公務員として人的管理に携わる仕事をしている。
 だから昔よりも成長して強くなったわたしは、口ではなんとでも言い返せるようになった。けれど同級生たちのことばはあの頃の弱い自分の記憶を甦らせて、わたしの足を止めるのだ。


「ただいま」
 玄関の扉を開けて靴を脱いでいると、リビングから宏樹が現れる。
「あれ、おかえり。早かったね」
「時間通りだよ」
「⋯⋯そっか。もうこんな時間か!」
 腕時計を見、ばたばたとリビングに戻る彼について行くと、ここを出る前と変わらない状態の―食事が置かれたままのダイニングテーブルがある。
 ―相変わらず本を読んでいると時間を忘れるんだから。そう思いながらも、わたしも一緒に飲み直そうかなと言う。彼は嬉しそうにやった、といい小さなワインセラーを物色し始めたので、不意にわたしは聞いてしまった。
「そういえば、図書館で初めて会ったとき、なんでわたしに声をかけてくれたの?」
 すると彼は右手を顎に手を当てて唸るように言う。
「うーん、あんまり細かく覚えてないけど、確かアドラーを持ってたんだよね」
 ―それは覚えてるんだ。わたしは呆れるも少しだけ嬉しくなる。
「―その本を読んだことのある人をほかに知らなかったから興味があったのもそうだけど⋯⋯あの本を読んだ人なら、勇気を出して声をかけた俺を絶対馬鹿にしないだろうっていう考えもあったと思う」
「ふふっ」
「え?何で笑うの?」
 宏樹はそう言って変な顔をしたけれど、そりゃあ笑ってしまう。
 やっぱり彼は彼なのだ。
 一目惚れしたから、とか美人だったから声かけたとか、そういう理由ではない。本しか見てませんでしたというある意味筋の通った在り方を、わたしはありがたく思っている。
 この先もこの人といれば、多分わたしは大丈夫だろう。今日みたいにあの頃が甦ってわたしを覆い隠そうとしても、ちゃんと自分自身を取り戻してまた歩いていけるはずだ。
 彼の持ってきた白ワインのグラスを手に取り、向かい合って軽く掲げる。いまだ不思議な顔をする彼をワイン越しに眺めながら、それをゆっくりと口に含んだ。


(終)
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