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鏡の奥、私の背から
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(青春小説)
「そういえば、佐伯くんって覚えてる?」
スマートフォンから、高校時代の友人ミカの声が響く。私は台所でティーポットにお湯を注ぎながら、湯気と心地よい香りを浴びていた。
「あのサッカー部の、いつも一緒にいた4人組の中で1番静かだった?」
「うん、そうそう」
見えないスマホの向こうで、ミカも今日はお酒を飲まずに何か作業しているのだろう。紙を摺ってはしきりにキーボードを叩く音が続いている。
私もお湯でいっぱいになった野いちご柄のポットと、対のカップ、そしてスマホをお盆に乗せてリビングへ戻る。それをサイドテーブルに下ろすと、冷やりとする本革のソファに腰掛けながら、机の上の雑誌を適当に開いた。
すると、こちらが落ち着いたのを察したかのようにミカは話を再開した。
「ねえ知ってる?佐伯くんちょっと前に離婚したんだって」
電話から響く彼女の声は、まるで私を通り抜けるように部屋の反対側へと消えていく。
「へー初耳。そもそも結婚してたことも知らなかった」
何回も読んだ雑誌をめくる手の速さは変えない。ミカにはちゃんと普通に聞こえただろうか。
「あれ?ほかの子たちと連絡とってないんだっけ?」
「うん。もう地元に全然帰ってないし、そもそも帰る気もあんまりないんだよね。だから別にいいかなって」
「そっか。だから同窓会にも顔出さないんだ」
「違う違う。忙しいんだって!そもそも行かなくてもミカから話聞けばだいたいわかるじゃん」
「お!なんかあたし頼りにされてる!」
ミカとの会話はいつもこんな感じで、本来ならばおちょこを片手に語り合っているはずだった。よく行く焼鳥屋は広くて人がひしめき合っていて、彼らの熱と炭の熱とが混ざり合ったあの空気は、特別で心地よかった。
けれど、いまはそんなこともできず大切な会話も片手間で飛び交っている有様。
ミカも私もあの時間が大切なものだとわかっているから、こうして電話するときはお酒を飲まないのかもしれない。
しかしそんな状況だからこそ、ミカはこの話題を引っ張り出してきたのだと思う。
お酒が入ると、いつも私たちの間では仕事の愚痴ばかりが飛び交う。だから思い出話なんてもってのほかで、ましてや誰が結婚したとか子どもを産んだとか、そういう話なんて少しも話題にのぼらなかった。
多分ミカは気づいていたんだろう。
私がそういうことにまったく興味が無いことに。
ミカは出不精の私と違って、いつもクラスの中心にいるタイプだった。だから口調から軽そうに見えて、実は誰よりも気配り。そんな彼女が私を放っておくわけがなく、持ち前の優しさから、彼氏もおらず仕事ばかりしている私にいつも声をかけてくれるのだ。それもここぞ、というタイミングで。
だからミカは佐伯くんが結婚した時も、私に気を使ってあえて言わなかったに違いない。
当時の私は、確かに佐伯くんが好きだった。サッカー部なのに静かで大人っぽくて、一生懸命にボールを追いかける姿に憧れていた。
彼のなかで穏やかに燃える闘志を、一度だけでも覗いてみたかった。
けれどそれは叶わなかった。
むしろ一回も接点を作れずに、私は物陰からこそこそと見つめるだけの毎日。
そうしてクラスが変わり気づけば卒業で、結局連絡先を知ることさえできなかった。
けれどそんな勇気のなかった私に、神さまはひとつだけ、点のように残る鮮やかな景色を残してくれた。
それは体育祭のことだった。
短距離走に彼が出るというので、私は応援しようとみんなと同じように椅子の上に立ち上がった。
多分、他にも人気のある男の子たちが出ていたのだろう。黄色い声援を送る女の子たちのなかにまぎれて、私もミカと一緒にはしゃいだ。
けれどそういう慣れないことをしたせいか、私はうっかり足を踏み外してしまった。結局佐伯くんの走りは見れず、しょんぼりした私はミカに連れられてグラウンド端の手洗い場まで向かった。
冷たい水で擦りむいた膝を洗ってみれば、傷は全然大したことがない。むっとしたあの感情をいまでもはっきりと覚えている。
「すごい傷じゃなさそうだね。ハルカ先生呼んでくる」
そう言ってミカは先に救護所へと向かい、一人になった私が水を止めて顔を上げたときだった。
視線の先の、目の前の鏡の中に、なぜか佐伯くんがいた。しかもこちらに顔を向けて。
走り終わったんだ、そう思う間もなく、私はただ反射的に視線を向けた。すると私と背中越しの彼の視線が、鏡の中でぴたりと交ざりあったのだ。
おそらく時間にして1秒か2秒、そんなほんのわずかな時間だったのだろう。
けれどあの瞬間だけは、私は佐伯くんを独り占めにしていた。確かに距離はあったけれど、あの鏡の中ではお互い、二人だけだった。
現実では目を合わせられず、会話をした記憶もなかったのに。
永遠かと思われたその時間はミカと先生の呼びかけで唐突に終わってしまった。けれど、いまもこの瞬間は、ときどき私の前に現れる。
例えば毎日の中で少しだけノスタルジックな気持ちになったとき。この記憶はやってきて、私を穏やかでみずみずしい気持ちにしてくれる。
仕事や趣味という大人の楽しみに夢中な今の私にとって、正直このきらきらした思い出だけが残っていればいい。だから実のところ現在の佐伯くんにはまるで興味がない。
もちろん、こんな青春の甘酸っぱい欠片を残してくれたので感謝はしている。けれど地元に帰ってわざわざ会うことは無いし、だからミカのあの優しさも少しだけ困ってしまう。
いまの私には、高校生のときになかったずる賢さと勇気がある。
だから例え好意を持って会ってくれたとしても、途端に幻滅されるはずなのだ。私はわざわざ嫌な気持ちになりにいきたくない。
気づけば、スマホからミカの寝息が聞こえている。彼女はお店でもいつもこうやって気持ちよさそうに寝落ちする。
次こそは面と向かって楽しく飲もう、そう意気込んで、私は暗くなったスマートフォンに手を伸ばした。
(終)
「そういえば、佐伯くんって覚えてる?」
スマートフォンから、高校時代の友人ミカの声が響く。私は台所でティーポットにお湯を注ぎながら、湯気と心地よい香りを浴びていた。
「あのサッカー部の、いつも一緒にいた4人組の中で1番静かだった?」
「うん、そうそう」
見えないスマホの向こうで、ミカも今日はお酒を飲まずに何か作業しているのだろう。紙を摺ってはしきりにキーボードを叩く音が続いている。
私もお湯でいっぱいになった野いちご柄のポットと、対のカップ、そしてスマホをお盆に乗せてリビングへ戻る。それをサイドテーブルに下ろすと、冷やりとする本革のソファに腰掛けながら、机の上の雑誌を適当に開いた。
すると、こちらが落ち着いたのを察したかのようにミカは話を再開した。
「ねえ知ってる?佐伯くんちょっと前に離婚したんだって」
電話から響く彼女の声は、まるで私を通り抜けるように部屋の反対側へと消えていく。
「へー初耳。そもそも結婚してたことも知らなかった」
何回も読んだ雑誌をめくる手の速さは変えない。ミカにはちゃんと普通に聞こえただろうか。
「あれ?ほかの子たちと連絡とってないんだっけ?」
「うん。もう地元に全然帰ってないし、そもそも帰る気もあんまりないんだよね。だから別にいいかなって」
「そっか。だから同窓会にも顔出さないんだ」
「違う違う。忙しいんだって!そもそも行かなくてもミカから話聞けばだいたいわかるじゃん」
「お!なんかあたし頼りにされてる!」
ミカとの会話はいつもこんな感じで、本来ならばおちょこを片手に語り合っているはずだった。よく行く焼鳥屋は広くて人がひしめき合っていて、彼らの熱と炭の熱とが混ざり合ったあの空気は、特別で心地よかった。
けれど、いまはそんなこともできず大切な会話も片手間で飛び交っている有様。
ミカも私もあの時間が大切なものだとわかっているから、こうして電話するときはお酒を飲まないのかもしれない。
しかしそんな状況だからこそ、ミカはこの話題を引っ張り出してきたのだと思う。
お酒が入ると、いつも私たちの間では仕事の愚痴ばかりが飛び交う。だから思い出話なんてもってのほかで、ましてや誰が結婚したとか子どもを産んだとか、そういう話なんて少しも話題にのぼらなかった。
多分ミカは気づいていたんだろう。
私がそういうことにまったく興味が無いことに。
ミカは出不精の私と違って、いつもクラスの中心にいるタイプだった。だから口調から軽そうに見えて、実は誰よりも気配り。そんな彼女が私を放っておくわけがなく、持ち前の優しさから、彼氏もおらず仕事ばかりしている私にいつも声をかけてくれるのだ。それもここぞ、というタイミングで。
だからミカは佐伯くんが結婚した時も、私に気を使ってあえて言わなかったに違いない。
当時の私は、確かに佐伯くんが好きだった。サッカー部なのに静かで大人っぽくて、一生懸命にボールを追いかける姿に憧れていた。
彼のなかで穏やかに燃える闘志を、一度だけでも覗いてみたかった。
けれどそれは叶わなかった。
むしろ一回も接点を作れずに、私は物陰からこそこそと見つめるだけの毎日。
そうしてクラスが変わり気づけば卒業で、結局連絡先を知ることさえできなかった。
けれどそんな勇気のなかった私に、神さまはひとつだけ、点のように残る鮮やかな景色を残してくれた。
それは体育祭のことだった。
短距離走に彼が出るというので、私は応援しようとみんなと同じように椅子の上に立ち上がった。
多分、他にも人気のある男の子たちが出ていたのだろう。黄色い声援を送る女の子たちのなかにまぎれて、私もミカと一緒にはしゃいだ。
けれどそういう慣れないことをしたせいか、私はうっかり足を踏み外してしまった。結局佐伯くんの走りは見れず、しょんぼりした私はミカに連れられてグラウンド端の手洗い場まで向かった。
冷たい水で擦りむいた膝を洗ってみれば、傷は全然大したことがない。むっとしたあの感情をいまでもはっきりと覚えている。
「すごい傷じゃなさそうだね。ハルカ先生呼んでくる」
そう言ってミカは先に救護所へと向かい、一人になった私が水を止めて顔を上げたときだった。
視線の先の、目の前の鏡の中に、なぜか佐伯くんがいた。しかもこちらに顔を向けて。
走り終わったんだ、そう思う間もなく、私はただ反射的に視線を向けた。すると私と背中越しの彼の視線が、鏡の中でぴたりと交ざりあったのだ。
おそらく時間にして1秒か2秒、そんなほんのわずかな時間だったのだろう。
けれどあの瞬間だけは、私は佐伯くんを独り占めにしていた。確かに距離はあったけれど、あの鏡の中ではお互い、二人だけだった。
現実では目を合わせられず、会話をした記憶もなかったのに。
永遠かと思われたその時間はミカと先生の呼びかけで唐突に終わってしまった。けれど、いまもこの瞬間は、ときどき私の前に現れる。
例えば毎日の中で少しだけノスタルジックな気持ちになったとき。この記憶はやってきて、私を穏やかでみずみずしい気持ちにしてくれる。
仕事や趣味という大人の楽しみに夢中な今の私にとって、正直このきらきらした思い出だけが残っていればいい。だから実のところ現在の佐伯くんにはまるで興味がない。
もちろん、こんな青春の甘酸っぱい欠片を残してくれたので感謝はしている。けれど地元に帰ってわざわざ会うことは無いし、だからミカのあの優しさも少しだけ困ってしまう。
いまの私には、高校生のときになかったずる賢さと勇気がある。
だから例え好意を持って会ってくれたとしても、途端に幻滅されるはずなのだ。私はわざわざ嫌な気持ちになりにいきたくない。
気づけば、スマホからミカの寝息が聞こえている。彼女はお店でもいつもこうやって気持ちよさそうに寝落ちする。
次こそは面と向かって楽しく飲もう、そう意気込んで、私は暗くなったスマートフォンに手を伸ばした。
(終)
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